『迫る静かなあしおと』
三時を告げる音楽が室内で鳴り、読書に集中していたシリアスは不意に足音がした気がして扉へ顔を向けた。
乱れのない統一した音で誰が来るか既に分かった。
ゼロはディアスと外に出たから、残るのは自分と――家主であるマスターのみとなる。
扉が開き、髭を左右に生やした老人が杖を支えに入室する。背筋は高齢を思えさせないほど真っ直ぐに伸ばし、前を見据えている。傍目にはスーツ姿の高貴な紳士だ。
エウクレイウス・E=エディン。
ゼロの祖父にあたる老人であり、現当主だ。
「マスター、珍しいですね。こちらに顔を出すとは」
少し驚いてると、老人は近くの椅子にゆったりと座り込んだ。
「姿を見かけぬが、アレらはどうした?」
「お嬢様とディアスは魔術学をしに庭へ行きましたよ」
「腕はどうなっている?」
ディアスに聞けば早い話だが、仲の悪さは今に始まった事ではないので答える。
「問題は多々ありますが、日々身に付いてきていますよ」
「気味悪い子供をよく相手にできるな、お主らは」
軽蔑を含んだ言葉に、紙をめくる手を思わず止めて老人を座視した。
「うっかり口を滑らした。シリアスは気にせんでよい」
老人は難しい顔をしたきり、ぎこちない沈黙が間に落ちた。
「……ところで何を読んでおる」
話題を変えられ、シリウスは再び紙をめくった。
「鉱石学を。どの石を身につけるかによって、秘めたる魔力が違いますから」
いつも石をポケットに潜ませているシリウスにとっては、貴重な情報源だ。現在の書籍には掲載を許さない、『危険魔石』も事細かに説明されている。
「ほほぅ。そんなボロ本が役に立つのか?」
書物の殆どがページが破れかかってたり、かろうじてテープでつなぎ止められてる。かなりの年代物であるのは明白だ。
「『古いものは偉大な魔力が隠匿されてるから吸収せよ』とマスターが教えたのでしょう」
老人がふっと笑う。
「それはそうじゃ。たまには年代のを読まんと、知識も増えぬし、頭も堅くなる」
シリウスはふっと笑った。
そのわりにあなたは頭が堅いです。そう言いかけて喉に押し込めた。
「ですね」
再び沈黙が落ちた。
紙をめくる音が響く。
壁に掛けられた絵画を老人は一心に見入っていた。
鑑賞する者を圧倒させるほど、気品に溢れた大きな肖像画。画の隅には“アレス”と丁寧に筆跡されている。
白い産着に包まれた赤子を腕に抱き、微笑む黒髪の美しい夫人。左側に寄り添う幼い少女。右側には大人びた少年が描かれている。
かつて、主の次男が「二人目の娘が産まれた!」と送り、なぜかこの部屋に飾られた。一般より何倍か大きい画だったから、飾る場所がここしかなかっただけかもしれない。
「綺麗な絵ですね」
恐る恐る一声をかけてみたが、応答はない。
画家の顔は知っていた。
明るい銀灰の髪、紅梅に似た紅系の瞳。主の亡き妻に似た女顔を武器に、甘いマスクで淑女を惑わす素人目にも特殊なオーラを放つ人だったのを覚えている。
剣舞を大の特技とし、頭脳明晰で活発だっただけに「死んだ」と聞いた時はにわかに信じがたかった。
「こんなにも長い年月が経つというのに昨日のことのようです。お嬢様の成長が今は楽しみですよ」
「アレもあの日に堕ちればよかったのだがな」
冷たい声にシリウスは主の横顔を凝視した。
なぜ、そこまで孫娘を忌み嫌うのだろう。
◆
白亜石の床、華美な装飾の柱。扉から王座へ細長く続く、ヒョウ柄の絨毯。
約束された数世紀以上に渡る繁栄は尽きることなく王国に注がれ、ここに永久の理想郷と常に謡われる。時の覇者は血筋と実力を重鎮する、見目麗しい君主であった。
無邪気な声が玉座前でわいた。式典や式以外は、特に家柄の良い子供を集めた遊戯場として開かれていた。
「楽園にはきれいな花が咲くのかな」
年の近い少女が二人、年の離れた娘が数人。話題を切り出した、王の末娘は腕の中にすっぽりと抱えられている。
「かっこいい王子さまが綺麗な花を持って求婚するのよ」
「なんで王子が出てくるのー」
「花だよ?」
「誰かいないと意味ないじゃない」
発言した少女が「当然でしょ」と言わんばかりに瞳を輝かせていると。
「甘いわ。花束を抱えた殿下が足元に跪くの。一生、私に仕えるとね」
一斉にその場にいた全員が異口同音にわいた。
「王子じゃなーい!!」
「アリス。下僕というんだよぅ、それ」
意外な願望に驚いていると、アリスが頭に軽く手をおいた。
「レオだけ特別につかわせてあげるわ」
きょとんとしながらも頷くと、姉は悪魔さえもうっとりとする微笑を浮かべた。
「あっずるい、私も!」「あなたはだーめ」
場がたちまち爆笑の渦に包まれる。
飽きることのない賛美が国に押し寄せ、世界一の頂点に君臨しながら、“楽園”は子の無限大に広がる夢だった。
「楽園では綺麗で珍しい花も咲くよ」
王座の人物が何年経とうと変わらない、凛とした美声が辺りを支配する。
「楽園は必ずどこかに存在する。手に入れる者は多勢な犠牲を払う必要があるがね」
《犠牲》という言葉に誰もが静まり返った。
思わぬ代償があることなど初耳で、無意識にアリスの腕にしがみつく。
「楽園を求めるならば、愛する人の命さえも捨てて優先できるかな」
一度喪った楽園の原罪をすべて背負う覚悟があるのならば。
言外にそう含んだ王は、毅然とした視線を真っ直ぐに向けた。
玲瓏とした紫陽花の瞳が怖くなり、肩をすくめた。
なにかを見透かされるような嫌悪感。
――どうして、そんな瞳をするの?
「………っ」
目を覚まし、見慣れた天井が視界に映り安堵する。心臓の高鳴りで寝る気には到底なく、深呼吸をした。
久しぶりに夢を見てしまった。
血の繋がった父の他に、“父”と呼んだ、かつての王。至上の楽園と謡われた王国の頂点に君臨していた君主。あの瞳は今だに軽くトラウマだ。
重い体を起こし、隣にいるはずの人物に目を移す。
ディアスの姿は当然ながらなかった。
ベッドから降り、開いた窓へ近寄る。窓枠に手をかけて庭を一望する。そよぐ風が心地よく、色鮮やかな花が視界を鮮やかに染める。最上階から臨む噴水は一層美しく煌めいていた。時折かかる、虹がとても綺麗に輝く。
庭にいた祖父がディアスといるのを発見してしまい、思わず壁に隠れた。気づかれないよう、こっそりと顔を半分窓枠から出す。
何を話しているのだろうか。
ディアスが何か言い、真正面にいるエウクレイウスは杖を支えにして聞いているようだった。不意に杖が彼をめがけ、足に当たる。あっと気づいた時にはディアスは足を庇うように、一歩後ずさりをしていた。
祖父が怒る場面はこれが初めてではない。
主にディアスが受けているが、どうみても八つ当たりにしか感じなかった。厳格な老人は身内さえも嫌っているから。
「嫌い」とか「邪魔」と罵られば幾らか精神は楽になるのに、一回も直接言われたことはない。あくまで自分は“家督を継ぐ存在”で、愛情は微塵もないのだ。
静かに窓をゆっくり閉じ、ベッドに飛びこみ、壁に掛けた時計を一瞥して瞼を閉じた。
今日はやけに眠たい。
彼女は知らなかった――遠くから、ゼロの部屋を監視する人影が不気味に笑みを浮かべていたのを。
◆
夜の帳がすっかり空を覆う頃。
「お前たちはいつものように見張れ。夜ともいえず、決してあれから目を離してはならん」
老人が魔術で合成した使役はいつもよりも数が多かった。
シリウスは少し疑問を抱いたが、何かあってのことだろうと深く気にしなかった。
ディアスはその場にいなかった。
ゆっくりと運命の鎌が、振り落とされていくのを屋敷の主だけが感じていた。
逃れようもなくーー。