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独短編

棚からバター餅

作者:




 夕暮れの教室で田辺(たなべ)(あかね)は目を覚ます。


「…………」


 つ、と机上へ垂れた涎をハンカチで拭うと、茜は引き出しの中からスマートフォンを取り出す。薄闇に包まれた教室に、少し眩しいくらいの待ち受け画面の光が漏れ出した。


「五時間も寝てた」


 半ば諦めのような、また半ば面白おかしいような、吐息の漏れ漏れる呟き。茜は木でできた固い背もたれに大きく体を預けると、体の中の空気を全部出してしまうかのように「ふううう」と息を吐いた。

 今日は四日間続いた期末テストの最終日だった。数学、日本史、英語とテストを乗り切った他の生徒達は夏空に負けず晴れ渡る表情で昼過ぎには校舎を出ていた。しかし茜だけは連日の徹夜がたたってか、テストが終わってから今の今まで自分の机で突っ伏して寝息をついていた。

 十五分ほどかけて何通か来ていたメッセージへの返信を済ませると、やっと茜は椅子から身を引き剥がす。教室に誰もいないことを確認してから、また一段と大きく伸びをした。


「あーっはぁ」


 はぁ。茜は絞り出すように息をつき、邪魔くさそうに唾を飲み込む。通学鞄を背負い、何かを振り払うように寝起きの頭をふりふり、立て付けの悪い教室の扉を開けると、下のグラウンドから野球部のかけ声が響いた。

 歩を進める毎に、窓から差し込む夕日が鼻先から耳元へと茜の顔を撫でる。そのまま、そのずっと後ろへ、日差しは落ちていく。


(そうだ、四方山さん)


 昇降口へと続く階段の手すりをなぞるようにしながらトタトタと進んでいた茜は、ふと思い立ったように足を止めると、踵を返して別館へと足を向けた。

 別館への渡り廊下には、もう先ほどまでのような夕日は差し込んでいなかった。廊下を挟むように幾枚も備え付けられた窓ガラスのずっと向こう、走っても叫んでも届かないような遙か遠くに、深く暗く橙に色づいた積乱雲がのぞくだけだ。上履きと廊下とが擦れあう音。普段なら気にも留めないはずのそんな音が、すっかり暗くなったこの廊下では確かに茜の鼓膜を震わせた。

 別館の階段はなお一層闇に包まれていた。茜は足下を気にしながら、少しささくれ立った別館の手すりを確かめるようにして一歩一歩階段を上る。

 踊り場から三階を見上げると、乳白色の電灯が廊下の壁をほんのりと照らし出しているのが見えた。茜は少し小走りになって階段を一段飛ばしで上った。


(ほんとに)


 階段のすぐ右手にある特別教室から漏れ出た明かりが茜のスカートにかかる。やや乱れた息のままその扉を開けると、教室の中にいた女生徒は「ごめんなさい」と慌てたように手元を隠した。


「四方山さん」

「……なんだ、田辺か」


 くぐもった声を上げて、四方山(よもやま)滔子(とうこ)は強ばらせた肩をゆっくりと降ろした。そのまま動かした椅子を元の位置に戻すと、見えるのはこぶし大の餡菓子だ。


「なんだ、って……何してるんですか」

「何してるんですかって……私は部活だよ。君こそ何をしているんだね」


 滔子はやや時代がかったような口調で茜に問うと、手にしたフォークを口元へ運んだ。答えを待つように餡菓子を咀嚼しながら、取り出した緑茶のペットボトルを傾けると、「答えられないのかね、謀反人かね」そのままニヤリとしてみせる。

 その仕草に苦笑して、茜は教室に入る。


「どうでした、テスト」

「ん? まあまあだね。昨夜しっかり寝ていた分、居眠りはしなかったさ」

「それはそれは」


 茜は滔子の近くに腰を下ろして辺りを見回す。三年生の社会科の科目が開かれる教室だけに、壁に貼られた日本地図や世界地図が目に入る。また、いくつかの部活が共同で使用しているため、将棋の駒や原稿用紙、古びた漫画が棚に揃っていた。それらに並んで場違いなほど大きくその身を揺らす笹の葉も茜の視線を引く。

 ていうか。茜は滔子に向き直る。


「部活って、何部ですか」

「え? ああ。そりゃあ……そうだな……」


 滔子は宙を見上げ、もぐもぐと口の中でものを考えるようにする。


「少し待ちたまえよ。口にものが入っている」


 滔子に向けてずいと近づけていた顔を引っ込めて、茜は答えを待つ。

 もぐもぐ。

 もぐもぐ。

 もぐもぐ。

 ごくん。


「んー…………。美味だな」


 ふふん、と鼻をならすと、また滔子は一口大に切り出した餡菓子を口に含んだ。


「ちょっと!」

「あー、わかったわかった」


 滔子は名残惜しそうに口の中の菓子を緑茶で流し込む。


「悪かったよ、ありゃ雄弁だ」

「……厚かましいですね。方便ですか?」

「おお、よくわかったね」

「……」


 続けて開こうとした口を一旦閉じて、茜はため息交じりに話題を変える。


「美味しそうですね、ぼた餅。購買にそんなの売ってましたっけ」

「いやいや。山センのをちょっとね」


 滔子はいたずらっぽく笑う。

 幕末の政治体制について説明する白髪交じりの先生のことがすぐ頭に思い浮かんで、茜は(それでか)と嘆息する。


「また怒られますよ」

「大丈夫さ。女子には意外とアマいんだ。アマだけに」


 一人で笑ってから、滔子は付け加えるように「それとね」


「これはぼた餅じゃない。ぼた餅は春の呼び名。夏は夜船っていうんだ」

「よふね?」

「普通のお餅と違ってぼた餅はお米のかたちが残っているだろう。それもそのはず、作るときに臼と杵を使わないんだ。ぺったんぺったん音が鳴らないから、『いつツいたのかわからない』っていうんで、夜船。夜の船っていうのもなかなか風流じゃないかね。久方ぶりの君との邂逅にふさわしい」

「私にも一口くださいよ」

「話聞いてた?」


 茜からの視線を切るように夜船の乗った紙皿を取り上げると、閃いたように滔子は言う。


「そうだ。君も山センから一つ失敬しなさい。これで共犯だ」


 引き留める茜の声を無視して滔子は隣の社会科準備室へと消える。社会科教員用の職員室のようなものだ。先ほどまでは消えていた電気がぱちり点けられ、何やらブゥゥーーンという音が聞こえ始めた。

 茜は諦めたように一息つくと、心の中で疑問の声を上げた。


(そういえば先生たち、どこにいるんだろう? 学校のどこかには居るはずだよね。まさか準備室に鍵もかけずに帰ったりはしないだろうし)


「屋上で空でも眺めているんじゃないかね」


 まるで茜の心を読んだかのように応えながら、二枚の皿を手に滔子が戻ってくる。皿の上からは白い湯気が立ち上っていた。


「あいにく夜船はあれが最後だったようだよ。その代わりに、これもまた美味しそうだろう」


 嬉しげな滔子につられて茜が皿を見ると、黄みがかった四角形がとろりと頭を垂れた。


「バター餅というらしい。珍しいじゃないか、いただこう」


 滔子の笑顔にいよいよ負けて、茜は「仕方ないですね」と顔を綻ばせた。




「全く、思いもかけない幸運だ」

「ツいてましたね」




 さらり。

 笹の葉を揺らす夜風に二人は窓へと目を向ける。またその先の、天の川へと。

 七月七日の水曜日。

 今日は七夕だ。




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