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シュヴァルリ ―姫騎士物語―  作者: けろぬら
閑章 よろずのことにつかいけり

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【閑話】京姫と家族と神憑り ~京姫その1~

閑話しばらく続きます

2156年4月23日 金曜日

 京姫(みやこ)は今日、日本の全国大会に参加するための移動日として公休を取っている。小乃花(このか)と共に、午前中一杯で持ち帰る荷物の確認、午後17:00過ぎに学園の寄宿舎を後にし、送迎車を頼んでミュンヘン空港へ向かう。

 フライトは21:00の日本直行便である。長距離大型旅客機であるため、成層圏を経由した弾道飛行で成田国際空港まで2時間半の旅だ。日本時間で24日の朝7:30到着予定。そこからリニアレールで東京駅まで出て、京姫(みやこ)小乃花(このか)はここで別れ、それぞれの出身地へ向かう列車に乗り換えて帰省する。

 全国大会で会うことを約束して。



 ローカル線の駅を降りると都会程ではないが栄えた街並みを見渡せる。しかし、少し離れるだけで落葉樹の林や竹林などが生い茂る長閑(のどか)な景色が広がる。木々の合間から古い屋敷が所々に見える風景は遠くに山間(やまあい)もあり、自然の音が多く緩やかに時間が流れる。

 その中で開けた土地があり、奥に目をやると周りの旧家より古い武家屋敷が見える。広い敷地は年季の入った黒板塀で囲まれ、しっかりとした造りであることが遠目でも判る大きな本宅と、塀越しに見える海鼠(なまこ)壁の土蔵、屋敷を取り巻く全てが辺りにある苔むした石と同化し、時の流れを感じさせる。これが戦国から続く武家の末裔、宇留野(うるの)家の屋敷である。時間に取り残された様な屋敷の裏手には孟宗竹の竹林と裏山に繋がり、草木の香りが濃く漂う。


 今は使われていない番所が付いた門扉を(くぐ)り、庭園の飛石(とびいし)を踏みながら玄関に辿り着くと、日中帯は引き戸が開け放しとなっている1(けん)程の間口(まぐち)から玄関より一段低くなった板敷きの式台と屏風が見える。

 屏風の裏は、幅2(けん)奥行き1(けん)槍床(やりどこ)と呼ばれる畳敷きの間で、奥座敷に入る前に敵意がないことを示すために刀や槍などを預け置く場所である。


「只今帰りました。」


 その声に槍床の奥に続いている奥座敷から誰かが歩いてくる音がする。(ふすま)が開かれ、普段使いと見える留袖の着物を着た妙齢の女性が現れる。


「お帰りなさい。京姫(みやこ)ちゃん。」

「ただいま、母さん。皆は?」


 持ち帰ってきた装備コンテナのキャスターを布巾(ふきん)で拭いながら京姫(みやこ)はこの場にいない家人について訪ねる。


「お父さんとお兄ちゃんは道場で子供たちに稽古をつけてるわよ。お姉ちゃんはお友達と遊びに出ちゃったわ。」

「そうですか。姉さんは相変わらずですね。」

「ほんとに、すぐ遊びに行っちゃうんだから。」


 騎士(シュヴァリエ)装備コンテナと武器デバイスコンテナ、スーツケースにバックパックを背負い、大荷物ではある。ただ、前半のコンテナ類とスーツケースはひとつの荷物に合体できる造りなので、運び易くは造られており、運搬にもさほど負担はない。

 装備類は道場に置くことも考えたが、まずは状態確認と調整をするため自室に持ち運ぶ。

 家族は日中帯を本宅で過ごすが、寝室や各人の部屋は近代になって増設された離れにある。本宅は、従来の武家屋敷の様に、各部屋は接客や逗留客などに宛がっており、家族が過ごすのは居間と茶の間(食堂)くらいのものだ。


 京姫(みやこ)が手土産を持って居間に戻ると母親がお茶の用意をしてくれていた。


「母さん。はい、お土産。本場のバウムクーヘンとザルツブルクの岩塩だよ。」

「ありがとう、京姫(みやこ)ちゃん。お塩がピンク色でかわいいわねぇ。」

「一息入れたら先生方のところへご挨拶してくるよ。」

「そう? じゃあ、先生達にお母さんが今度お茶会しましょうってお誘いしたこと伝えてね。」

「うん、わかった。」


 京姫(みやこ)は以前、日舞と茶道のお稽古事をしていた。留学することになり稽古を辞すことになったが、律儀にも世話になった先生方へ帰国する度に手土産を持って挨拶回りをする。

 宇留野家も含め周囲は古くから武家と文化人を中心に、一昔前は随分と賑わっていた。今でも伝統芸能の家元などが多く居を構え、茶道や日舞、書道や陶芸などの家元がご近所さんである。


 先生方のところでお持て成し攻勢を受けてから屋敷に戻ると、まだ道場では稽古が続いている様だ。道場脇には大人が乗るには少し小さい自転車が並んでいる。そろそろ昼になるので午前中を稽古時間に充てた児童の部が終わる頃だろう。

 京姫(みやこ)の実家は代々、宇留野御神楽流を伝えてきている。先々代までは趣味で剣道教室も開いていたが、Chevalerie(シュヴァルリ)の台頭に合わせて本来の剣術一本に切り替えた経緯がある。

 古くは、神事に纏わる神薙(かんなぎ)、つまり(祭司)の技を伝える特殊な流派で、後に神事以外の技に共通点が多い天真正新當流の傍流に組み込まれる形となった。


 ()の家系であることから、神憑(かみがか)りと言った一種の宗教的トランス状態に入る秘法が技の中に織り込まれているのだが、長い年月はその伝承すらも忘れ去らせた。だが技の中には確かに残り、後の世に引き継がれている。その片鱗は見せた。

 詰まるところ、京姫(みやこ)は最初からゾーンや無心と言った境地に入るための素地が知らずに造られているのである。

 そうでなければ、ティナの母ルーンに少し手解(てほど)きを受けた程度で急速に浸透する筈もない。そう言った意味では、ルーンも京姫(みやこ)が元から秘めていたものを引き出すための鍛錬方法を選択した訳で、それを見抜いた眼力は瞠目に値する。


「母さん、手伝うよ。」

「あら、ありがとう。京姫(みやこ)ちゃん。」


 昼餉(ひるげ)を用意する母の手伝いを買って出る京姫(みやこ)。彼女は学園でも料理を作るが、家事の一通りは(こな)せる様に躾けられている。その恩恵に与っているのは、(もっぱ)ら同室の小乃花(このか)であるが。

 (くりや)(台所)に続く納戸(女詰所)昼餉(ひるげ)の配膳をしていると、外から元気の良い子供たちの声が聞こえる。どうやら午前の稽古は終わった様で、走り去る足音や、自転車が走る音、師範へ挨拶をする声と、少々騒がしい。

 ちなみに納戸は配膳室のことで、女詰所とも呼ばれるのは、本来この部屋では膳や食器が仕舞われており、女給が食事の配膳を整えるからである。


「おかえり、京姫(みやこ)。元気そうだな。」

「おかえりー、ミヤ。土産は? バームクーヘンは?」

「ただいま、父さん、兄さん。兄さん、バウムクーヘンだ。ちゃんと買ってきたからまた後で。取り敢えず昼にしよう。」


 父と兄は、平日の夜と土曜日に剣術を教えている。二人とも汗を軽く拭いたくらいで袴姿のままだが、午後から一般の部が稽古時間であるため、このまま過ごしている。

 宇留野家では株の収益と幾つかの事業展開により、結構裕福である。娘を二つ返事で海外留学に行かせられるくらいであるならば当然だろう。そして、この時代は電子化と効率化により業務時間は短縮の一途を辿り、日の平均労働時間は5~7時間程度と、個人の余暇を大きく取れる様に社会構造は変わっている。故に、世界選手権大会に出場する様な騎士(シュヴァリエ)や、更なる高みを目指す求道者でなければ、一般的には通常の仕事と武術を嗜む程度は両立出来るのだ。


「いやー、ミヤの試合スゲかったぜ? 世界の天辺相手にあそこまで戦えたってのがスゲー。」


 茶碗片手に兄が口を開くが台詞が軽い上に(くど)い。そして箸で人を指してはいけません、と母に(たしな)められている。この兄は師範代の一人でもあり、9月から経済学専攻の大学生である。


「子供の頃に(ひい)爺さんが、(うち)の流派には忘れられた神憑(かみがか)りの技があるとか眉唾な話をしてたことがあってな。」

神憑(かみがか)り? 父さん…。言葉からして信憑性がないと思うけど。」

「俺もそう思ってたんだが、京姫(みやこ)の試合を見てな。あながち間違いじゃなかったんじゃないか、ってな。」


 父も一門(ひとかど)の武術家である。帰国した京姫(みやこ)の気配が明らかに変わっていることは一目見て判った。故に記憶の奥底から引きずりだされる様に蘇った話をしたのだ。


「確かに一時的に無心の状態に入れたけど、神憑(かみがか)りと言われるとちょっと違う様な。」


 思わず片眉を上げてしまった京姫(みやこ)。そこへ兄が汁椀片手に口を開く。口の中に食べ物がなくなってから話すところを見るに、最低限のマナーは守れている様だ。


「アレじゃね? 神憑(かみがか)りに入る準備ってか、そんなカンジ。技の繋ぎ方で神憑(かみがか)りになるんじゃね?」


 軽い、と言うよりチャラい言葉使いなのは、この年代の日本学生に良くあることなのだろう。既に両親も注意すらしていないため、直らないモノと思われる。

 しかし、さすがに武術の技を継いでいるだけあって確信を突いたかの意見が出ているのだが、あまりの口軽さに内容が台無しである。


「準備…か。」


 京姫(みやこ)は、フム、と頷きながら茶を(すす)る。ここ暫くルーンに教わった鍛錬法を絡めて考えると、神憑(かみがか)りと無我の境地に入れたことがイコールに繋がって見えるから不思議だ。

 どんな相手でも揺るがず突き進む姫騎士を思い出す。彼女ならば、使える手であれば神憑(かみがか)りすら強引に引き出すだろう。そう思うと、何時の間にか笑みが零れていた。


「どうしたの、京姫(みやこ)ちゃん。何か楽しいお話だったの?」


 台詞からも判る様に京姫(みやこ)の母は、武術に関しては全くの門外漢である。陶芸の窯元から嫁いできたお嬢様であるため、焼き物の審美眼は中々のものだが、家の流派一門の話はこれっぽっちも理解はしていない。しかし、人を見抜く目はあるため侮れない。


「いや、友人のことを思い出したんだよ。どんな相手でも強引に勝ち筋を手繰(たぐ)り寄せていく()がいてね。」

「ああ、姫騎士の()だな。正直、京姫(みやこ)と同じ年齢であの熟達の技は信じられんな。俺が戦っても1分持つかどうか。」

「オレもぜってームリ! オヤジと二人掛かりでもダメじゃね? ミヤのダチで中華な娘娘(にゃんにゃん)にも勝てんわな。あの()もトンでもネーよな。」

京姫(みやこ)ちゃんのお友達は随分すごいのね。お母さんびっくりしちゃった。」


 のんびりとした母親に陽気だが軽い兄が会話に加わると、小難しい話でも笑い話の様に変わる。昼の寛ぎの時間はこうして過ぎ去っていった。




「へぇー、CM撮影ねぇ。それ、日本で流れるの?」

「TVならヨーロッパだけじゃないかな。ネットなら見れそうだけど。」


 夕食後、京姫(みやこ)がドイツに戻った後にCM撮影を行うと言う話を聞き、姉が興味を持った様だ。京姫(みやこ)がスポンサー契約をしたことは当然、家族も知っている。京姫(みやこ)はまだ第1成人を迎えただけで未成年のため、契約関連には保護者の同意が必要だからである。


 ここで、宇留野家の面々を紹介しよう。

 道場と商社を経営、出資をしている父、壱劫(いっこう)

 のんびり屋で常に着物姿である母、櫻子(さくらこ)

 軽い口調で明るい性格の兄、規久(ただひさ)

 家よりも友人と遊ぶ方が楽しい年代の姉、鈴埜(すずの)

 そして末っ子である京姫(みやこ)の5人家族である。


 道場主の父、師範代は兄と通いで2名程。昨今はChevalerie(シュヴァルリ)の影響で古流の門徒が増え、ここ最近では騎士(シュヴァリエ)に憧れた小さな子供が門を叩くことも多々ある。

 更に、この流派は京姫(みやこ)の出身であるため、彼女が名を上げる度に脚光を浴びることに相成った。

 残念ながら母と姉は全く武術に興味がない。その替わりに芸術方面で才能が多々発揮される。


「なるほど。加納の爺さんを(たお)せ――と。それを取り敢えず(・・・・・)と言い付かったのか。」


 話題は京姫(みやこ)が学内大会でヘリヤと戦った時に境地へ至る片鱗を見せたことから、その流れでティナの母ルーンに師事し、そこで加納大老を蹴散らせ、と軽く言われたことの話となった。


「ええ。技量的には今の私でも十分だと仰られていました。」

「あのクソ(じじい)だろ? おま、ナニ様よ?って偉そーにしてるヤツ。嫌われモンだろ、ありゃ。」


 40年程前に、「剣雄会」なる剣術を嗜む者を束ねる組織が生まれた。発起人は言うまでもなく自らを加納大老と呼ばせている剣術界の重鎮(・・・・・・)である。なまじ腕が立つだけに始末が悪く、長いことトップに君臨している。

 発足時は権力の裏側や暴力組織と繋がっていたこともあり、かなり強引に様々な道場を会に所属させた結果、大多数の流派を傘下に収め一大勢力を築き上げた。年会費が中々に高くはあるが、一応、門人などを斡旋したり剣術大会や剣技を披露するイベントなどへ参加優遇したりと、一方的な搾取ではないため文句も出辛く組織の運営は比較的上手く出来ていたと言える。裏では、会に所属しない流派や道場には圧力をかけたり、嫌がらせなどは日常茶飯事で、調べて直ぐに判る事柄は法に触れないギリギリのラインであるところが始末に悪く、調べて直ぐに判らない諸処(しょしょ)に関する隠れ蓑となっている。目に見えている部分だけでも限りなく黒いグレーである。


 もちろん宇留野御神楽流は所属していない。そもそも代々一族で継いでいく武術であり、他の剣術道場と趣が異なることから「剣雄会」なる組織に所属する旨味も必要性もない。過去に嫌がらせを受けたこともあるが、そこそこ資金力もあるため対策も抜かりなく行った結果、こちらが優位に立つことで相手を退けた経緯がある。仮に圧力をかけられ門人が去ったとしても、本来剣術を商売にしている訳ではないため流派としては少しも問題がない。既に技術は次の世代である息子と娘に伝えている。


「それで、県大会の組み合わせはどうなんだ?」

「加納大老とはブロックが別かな。決勝までは戦わない組み合わせみたいだ。」


 京姫(みやこ)のブロックには、技量的に加納大老が危機感を覚える騎士(シュヴァリエ)が配置されている。トーナメントはコンピュータの乱数により組み合わせが決定するため公平を()している様に見えるが、実のところ不正操作がされていた。

 ティナの父ヴィルフリートと、マクシミリアン国際騎士育成学園の理事長ロートリンゲン卿の手が入っているが、余りに問題が大き過ぎたため、県予選のトーナメント組み合わせにまでは手が回らなかったのが実情である。その代わりと言っては何だが、国際シュヴァルリ評議会日本支部には監査どころかシュヴァルリ評議会相談役のロートリンゲン卿が強制捜査権を行使し、次々と癒着や不正を摘発、職員総入れ替えとなっている。もちろん、不正改造された競技プログラムは正規のプログラムへ入れ替えが完了しているため、特定の競技者に対する判定の無効化や優遇化など秘密裡に行われていた試合の操作などが徹底排除された。


 京姫(みやこ)達はその事実をこの時点では知らない。


 そして、ヴィルフリートからは、隠密と情報収集、それと荒事に長けたWald()menschen(の民)が幾人か派遣されており、京姫(みやこ)を陰ながらガードしている。例え、犯罪を(いと)わない相手が動こうとも、誰にも知れず対処される。この段階で京姫(みやこ)の安全性はかなり向上した。本人にはなるべく気付かれない様に配慮しているが、両親には予めSP派遣の旨は伝わっている。


「ねえねえ、明後日からなんでしょ? ミヤの試合ってばさ。どこでやるの?」

「あれ? 姉さん応援にでも来てくれるのか? 梶川武道館だよ。」

「ソレ、急遽変わったってきーたぞ? 調べてミソ。県立競技ドームになっちってよ。」

「あ、ほんとだ。通知が来てた。ドームの方が設備が良いんだ。武道館はとうとう朽ちたのかな?」


 実際、設備が整っている県立競技ドームであれば文句などはない。梶川道場が運営する武道館より居心地も良く、戦い易いと京姫(みやこ)は会場変更を好意的に受け止めている。

 今回の会場変更は、全国的に「剣雄会」の息がかかった競技施設の殆どが公式大会の会場として相応しくないと、指定を外されたことが理由である。


「競技ドームなら行っても良いかな。あそこ綺麗だし、汗臭くないし。」

「あー判る判る。武道館はクセー臭いが染みついてるっつーか、キタネーっつうか。」

「私もあそこは思うところがあったな。見えるところ以外は整備がされてるとは言いにくかったし、利用料もちょっと高かったし。」

「観客の入場料まで取っておいて維持はおざなりだからな。俺は梶川道場の資金源だったと思ってる。」

「会場だったのは例の優遇措置ってヤツじゃね? ナントカ会の。」


 「剣雄会」は自分たちの都合の良い様に、国際シュヴァルリ評議会日本支部に大会会場を指定させていた。その地域で人の流動が増えることにより経済効果が上がるなどの名目で、武道館などの建設費なども市町村に大半を負担させるなど、自分達の懐は極力痛まない様に。そして、利用料などを徴収し、旨い汁を吸うシステムを作っていたのである。


「はいはーい、お待ちかね京姫(みやこ)ちゃんのお土産よー。」


 母、櫻子(さくらこ)がお茶請けにバウムクーヘンを切り分けてきた。今日は、京姫(みやこ)に教わったバウムクーヘン・シャイベと呼ばれる断面を削ぎ落した様な薄切りに、紅茶がセットである。シャイベとは円盤の意味であり、要は輪切りのことだ。


「おほっ! バームクーヘンキター! ナニこれ薄っす!」

「美味しーんだけど口のなかがパサパサするのよね、バウムクーヘンって。」


 兄は随分とお気に入りの様だが、姉の意見は日本人であれば多くが同意するのでなかろうか。日本とヨーロッパでは、パンを含む小麦粉などの焼き物が全く違う食感である。

 それは、欧米人とアジア人では唾液の分泌量が違うからだ。

 大リーグの中継を見たことがある方もおられるのではないだろうか。外野選手などはクチャクチャとガムを噛み、唾を吐く姿を良く見かける。実のところガムは噛みタバコで、口に溜まったニコチン混じりの唾液を吐きだしているのであるが、その唾液量が非常に多いと感じたのではないだろうか。日本人では頑張っても口の中に溜まらない量である。

 つまり、パサパサした食感は欧米人には丁度良い仕上げなのだ。しかし、唾液の分泌量が少ない日本人では口の中の水分を全て奪われてしまう。だからパンなどもシットリ柔らかな物が好まれる。


「ウマーッ! やっぱ本場っしょ! つか、味が前と違うくね?」

「あ、ホント。美味しい。薄切りだから口の中でポロポロ崩れるのがちょうどいいわ。」

「薄く切るのは初めて見たな。いつもは縦に切ってたじゃないか。」

京姫(みやこ)ちゃんに教わったの。ドイツの喫茶店だとこうやって出てくるんだって。」


 以前にも記載したが、ドイツでバウムクーヘンは伝統製法などの細かい規定をクリアした上で、熟練の職人しか作ることの出来ないお菓子だ。近所のケーキ屋に行けば手に入るものではない。日本人が知るバウムクーヘンとは一味も二味も違う。

 特に京姫(みやこ)がミュンヘンで購入してきたクロイツカムのバウムクーヘンは、ドイツでも3本の指に入る銘菓である。独自のスパイス配合が真似できない風味を生んでいる。切り方一つで風味も食感も全く異なるバウムクーヘンではあるが、風味を楽しむシャイベの切り分け方が日本人には良く合う。それは先ほどの唾液分泌とも関係が深い。


「やっぱり私はこのくらいの甘さの方が良いな。」

「え~? かなり甘いよコレ。」

「そうかしら。お母さんはもう少し甘くても良いかも。」

「これでもドイツのケーキでは甘さ控えめなんだよ…。」


 遠い目をする京姫(みやこ)

 彼女の脳裏にはついこの間食したザッハトルテやシュヴァルツヴェルダーキルシュトルテの強烈で濃厚な甘さとケーキ皿に溢れる程に乗ったホイップクリームの姿が蘇っている。


「やっぱ、このバームクーヘンは神憑(かみがか)ってるわ。ウメ~ッ!」


 のんきな台詞を吐く兄は、母親の性格を受け継いでいる様である。




 ――京姫(みやこ)が帰国する2日ほど前――


 「剣雄会」と繋がりがある非合法組織や政治家などの洗い出しに用途不明金の流れ、裏で行ってきた犯罪に纏わる証拠等、いとも容易(たやす)く暴き出され、主だった実行犯は秘密裏に拘束されている。後は芋蔓式に関与した者達を吊るすだけである。


 国際法に基づき裁判を行う手筈を整える。日本に裁判権を預けることも、ずるずると判決までの時間を延ばさせることはさせない。

 そのために国際的にも発言力の強い大貴族が出張ってきたのである。彼らの傘下にある実働部隊の能力は非常に高く、様々な事実関係と証拠を集めるのに1週間もかからなかった。

 全ての証拠に裏付けがあり、犯した罪状に対する情状酌量は無いに等しい。不正により数多の騎士(シュヴァリエ)から将来性を刈り取り、更に世界規模の組織へ絶大な不利益を(もたら)した者達には、莫大な賠償請求がされるだろう。

 世界中に普及した競技を取り仕切る立場の組織内にて大スキャンダルを引き起こした関係者にも一切の呵責もなく苛烈と言える審判が下される。既に何人かは行方不明(・・・・)となっている。


 本件も全国大会が終了次第、記者会見を開き世間一般へ公表する予定だ。信用問題であるからこそ、包み隠さず真摯に対応する必要がある。それ程の大事(おおごと)であった。


 また、()の「剣雄会」で名誉会長を務める加納(それがし)も県大会終了後に拘束される手筈になっている。

 県大会にて、京姫(みやこ)(たお)されることは確定事項として扱われている。プライドの高い老人の鼻をへし折る様を放送する公開処刑を行い、精神的苦痛を与えるための措置である。


 後は手筈通りに。


 知らぬは本人ばかりなり、である。



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