【改】01-022. ヘリヤ、その向こう側 ~京姫~
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20260304 改稿
二一五六年三月一八日 木曜日
競技者控室。
京姫は一人、次の試合を待つ。花花は昨日ヘリヤに敗退、ティナは今試合をしていないため、ここには居ない。
戦いの前に一人でいる時間が重要なこともある。ヘリヤ戦を前にした今がそうだ。
そうは言っても、サポートでスポーツ科学科や工学科などが装備や武器デバイスのチェック、鎧の装着など手伝いで忙しそうに動き回ってはいるが。
昨日は小乃花が勝敗を捨ててまで京姫に諭してくれた。
こと、心の問題なので、たった一日で調子を取り戻せるほど簡単なことではない。それでも京姫は前を向くことが出来た。おかげで、抱えるものは消えずとも、落ち着きは取り戻せた。
例え、本調子には届かなくとも、京姫の奥底にある一本通った筋が、在りようを取り戻さんと身体の動きを自然に整える。
冬の空気が澄み渡るのを感じる。その空気に溶け込んで仕舞うように、心も澄み渡る。目を瞑っても様々なことが目に映る感覚。外は晴れ渡っていると判る。自分と世界の境目が曖昧になり、自然は直ぐ側にあるのだと。
ヘリヤ相手であると言うのに、随分落ち着いてるな、と京姫は苦笑する。
そして、無意識に長巻を手に取る。ああ、これが必要になるのか、と京姫は武器を手にしてから納得する。腰には何時もの脇差だ。
「さて、世界一の相手だ。どこまで食い付けるか、私の在り方を受け取って貰おう」
京姫にとって、次の一戦は勝ち負けなど関係ない。大事なことは、自身の矜持と友から受け取った心意気を胸に抱いて立ち向かい、相手に自分を確りと刻むことだ。
京姫は呼吸を切り替える。鼻からゆっくり息を吸い、臍下丹田に腹圧を掛ける。口を窄め、吸う速度と等速でゆっくりと息を吐く。深く呼吸を繰り返す。全身へ行き渡らせ、身体を目覚めさせるように。
宇留野御神楽流 奉納槍術 奧伝六之段「風招」
宇留野家に伝わる平時の呼吸法を拡張した特殊な法だ。呼気による酸素濃度の上昇と、精神安定を促し、身体の基礎能力を底上げする奥義である。激しく身体を動かそうが、息が上がるに任せず、全て同じ速度で呼吸を繰り返す技法。
だが、身体能力まで拡張する法は負担が大きく、長時間の運用には向かない。正直、三試合持つか危ういが、ここで使わずして何時使うのか、と。
――先日の午後から降った雪は少しだけ積り、辺りを白く染め上げた。一夜明け薄氷のように固まったそれは、まるで白銀が周囲の音を吸い溶かすが如く静寂を誇張する。
音は全て、ここ屋内大スタジアムで溢れていた。
本日はDuel本選二日目。三回戦まで試合は四試合ごとに実施するスケジュールだ。
観客は満員御礼。各メディアも多く入場している。先ほど本日の第一戦目が行われ、客席の熱気も上昇したばかりだ。
これから第二回戦、試合コート二面での第二戦目が開始される直前だ。
対戦カードは京姫とヘリヤ。お互い黒が基調の装備を纏った者同士。
彼女達は今、コート中央の開始線を挟んで向かい合っている。
「うんうん。ちゃんと勝ってきたな。待ち遠しかったよ」
ヘリヤは頷きながら京姫へ笑みを向ける。
「私もヘリヤと戦えるのを楽しみにしてました」
高き山の頂を見やるように。挑戦者として挑む決意を添えて京姫は応える。
「その武器、初めて見るな。あたし対策か?」
「ええ、そうです。初めて戦うあなたとは、これが必要だと身体が欲したんです」
先日のように臆した訳ではなく。今の自分が強敵と戦うに最適な得物を手にしたのだ。
「そうか、そうか。それは楽しみだ」
ヘリヤは笑う。その笑みは子供が持つ純粋さと同じであった。
『双方、抜剣』
ヘリヤは黄昏色のバイキング型片手剣――騎士剣造りのため言い方は妙であるが――を引き抜く。自然光照明を浴びて、同じ輝きを返す。
今回、京姫の武器デバイスは長巻である。抜刀後の鞘は本来、配下や従者などに渡す代物であるが、個人で用いることから今回は柄のみ持ち込んだ。
右手で持つ柄は剣先が上になるよう、胸の高さに。「抜剣」の合図で長さ九〇糎の柄から一〇七糎の刀身が生成された。
長巻に拵えているが、元々は大太刀である。
大太刀 銘 兼高作。刃長一〇七糎、反り四糎。
戦場で使用する拵えであり、野太刀のカテゴリーだ。人馬共々斬り裂く豪刀と伝わっており、重ね(刀の厚さ)も厚く造られている。室町後期作の末古刀だ。
長巻は、槍、薙刀、太刀として扱え、中距離から近接戦までカバーする。
腰には何時もの脇差を差し、長巻が取り回しの重い場面で使うのだろう。
『双方、構え』
ヘリヤは、左脚を前に出し少しだけ左半身となり、剣の柄を腰に寄せる型、Pflugの構えを取る。
対する京姫は、右半身で相手の目に切先を向ける刀術の正眼構えである。長巻であるため、左手は鍔元から肩幅より少し離れた場所に添えている。
『用意、――始め!』
審判の合図と共に、京姫はトンッと後方へ一歩飛ぶ。そして、着地点で自護体に入る。折り合い無用の相手ではあるが、自分の折り合いを付けるための距離を取った。相手は初手を待ち受けるスタイルであるため、準備が出来次第、攻撃に移るつもりだ。
ヘリヤはどの試合でも最初に必ず相手を見定めるかのよう受けの姿勢で待つ。先日に行われた花花とヘリヤの試合を見て確信した。あの不動は、相手が技をどう見せてくれるのか待つための行為であると。
ならば今の自分がどれだけ揮えるのか存分に味わって貰いたい。その思いが精神を穏やかにさせる効果を生んでいた。
ヘリヤは――京姫の様子を只々観察していた。自分に対してどのような技を魅せてくれるのか。京姫が着々と己を高めている。あれが満ちた時に攻撃が来るであろう。その時が楽しみでしょうがない、と期待していたところに違和感が発生する。
「(おお、これはおもしろい。初めての経験だ)」
歓喜の言葉とは裏腹に、ヘリヤは今一度目を擦りたくなった。
京姫の気配が段々と消えて、いや、辺りに溶けだしたからだ。
確かに京姫は其処に居る。だのに、風景の一部としか見えない。
数多くの相手と剣を交えたヘリヤですら、この現象に出会ったことはない。
京姫は自分でも驚く程に心が凪いでいた。
世界最高峰の騎士を前に気負いも力みすらなく、過去最良の精神状態であった。
外野の音も次第に遠ざかり、やがて意識から消えた。此処にはヘリヤと自分の音だけ。
そして、自身と世界を隔てる境界が消えてゆく。世界と一つになる感覚を戸惑いながらも、これが当たり前のことだと妙に納得した自分が居た。
切っ掛けはテレージアとの戦い、そして小乃花の導きだろう。今まで不安定だった心と身体が噛み合い始め、一〇〇〇年を遥かに超えて脈々と受け継いできた技が、その本質を見せ始めていた。其れは、京姫が辿り着くべき場所の霞を拭い去るように開花し始めた。
京姫は己でも気付かぬ内に、本当に自然と身体が動いていた。
左脚を一歩蹈み込むと同時に、左手で大身槍の突きが如く、長巻を突き入れる。相手の射程外から右手をガイドにスルリと切先が伸びる。
ヘリヤの胸へ切先が吸い込まれるように見えた瞬間、剣が長巻の刀身に添えられた。そして剣身を滑らせながら上へと巻き上げられる。その感覚は確かに手の中へ返って来る。だが、それは遥か遠い出来事のように。
自身が気付くより速く、次の動きを終えていた。
ポーンと、攻撃の成功を知らせる通知音が二回鳴った。
再び音が戻ってくる。客席から、解説者のアナウンスから、割れるばかりの騒がしい音だ。まるで夢から覚めたみたいだ、と京姫は心の中で呟いた。
――それは自分が獲られる間際まで気付かなかった。
ヘリヤは京姫から一瞬たりとも目を離してはいない。
だのに、懐深くに刺突が繰り出されていた。みすみす接近を許す程ヘリヤは甘くない。
ところが、どうだ。京姫の攻撃も、繰り出された刀身さえ気付かないなど在り得ない。何時接近されたのすら気付かなかった。
まるで自然の中で、微風が吹くように。舞い散る落ち葉のように。京姫の攻撃はそれと同じ色を持っていた。
故に、当たり前の風景として処理されて仕舞ったのだ。
だが、そこはヘリヤだ。
危険な攻撃に対して、ほぼ自動的に超集中状態へ移行していた。
判らないことはさて置き、京姫の攻撃を気付いたからには冷静に対処する。間延びした時間の中で、長巻の刀身部分へ左平中ほどへ下から剣身を潜り込ますように挿し入れた。突きの勢いに合わせて上へ逸らせながら長巻の鍔元まで滑らせる。
これで京姫の長巻は両手が柄尻を持つ姿勢になった。八相の斬り下ろしを中途半端な位置で受けられたかのような崩れた様相となり、切先を遥か斜め上まで逸らせた。
そこから、長巻の鍔元まで自身の剣を鍔元まで滑らせ、互いの鍔元が起点となるビンデンを仕掛ける。この位置で仕掛けたのは、突き込みで剣一本分もある長い柄の柄尻に纏まった京姫の両手へ攻撃を届かせられる場所が此処だからだ。
シュランと薄い金属の擦れる音が響き、長巻を外側に完全へ巻き上げることで京姫からは攻撃の導線が繋がらない位置に送り込んだ。
此方の身体は長巻の鍔元まで蹈み入れ、巻きから切先で斬り抜く挙動に入ったところでヘリヤは違和感を覚える。
「(蹈み込み位置が近い? しまった、認識出来なかった)」
ヘリヤが蹈み込んで来た時点で京姫も、奥脚だった左脚を半歩蹈み入り、半身を正対させていたのだ。攻撃と同じく風景に溶け込む運足が、ヘリヤに自然の一部だと映っていた意識から外れる脅威。
その半歩はヘリヤを捉えるための布石であった。
ヘリヤの剣先が京姫の柄尻を持つ左前腕を穿った時には、槍の突き込み法でガイドとして柄尻にあった右手が、何時の間にか鍔元へ移動していた。
それを気付いた時には。
左外側へ押しやっていた京姫の刀身が、白銀に輝きながら高きから低きへ流れるように美しい弧を描きながらヘリヤの脇腹深くに食い込んでいた。
攻撃の意思や熾りどころか、繰り出された攻撃自体すら自然に溶け込んでいる。
ヘリヤは一瞬で距離を取る。花花戦で一度見せた、ヘリヤ式瞬歩を使い。
花花とは全く質が異なる京姫の脅威に、この場で討ち合い続けるのは危険だと察したからだ。
互いの距離は約四歩。
傍からは判らないが、二人の間に一種独特な状況が生まれていた。
暴威とも言える気配を場に渦巻かせているヘリヤ。
その暴威を長巻の切先から割るように流す京姫。
距離を保ったまま折り合いを付けているのだろうか。少なくとも数十秒は二人に動きが無い。
「(いやあ、まいったまいった。想像以上だ。京姫はコッチが知覚加速中なのに平然と対処するしな。加速の中で普通に動けるのか、そんな相手に合わせて加速する術理でも持ってるのか、かな?)」
本来であれば、超集中状態の中で何時も通り動けるようになるまで鍛錬したヘリヤの攻防に着いていける者は極少数だ。それが花花に続いて京姫と、対処できる相手と連続で対戦することになる方が稀なのだ。
然し、それこそがヘリヤの望みでもある。優れた美しい武術を最も近くで――対戦相手として――見ることこそ、何よりの歓びであるのだから。
「(あの初動が判らない攻撃はすごいな。気付いたら斬られてたなんて、【永世女王】に勝負を挑んだ時以来だ)」
京姫の攻撃は、単なる攻撃挙動を意思から悟らせない動きなどと一線を画する。無拍子ではあるが、本質が違う。何せ、それは在るのが当たり前だと自然に溶け込むのだ。
だからヘリヤは、体験したことが無い京姫の武技に心を躍らせる。
「(やっぱ、練られた武術ってのは素晴らしいの一言だ。ああ、楽しいなぁ)」
だからヘリヤは、頬を緩ませた。
ヘリヤと対峙しながら京姫は、不思議と落ち着いていた。
そんな余裕など在る筈もない相手と対峙している最中で、自分に何が起こっているのか思索を巡らせることへ違和感もなく。
「(これは……何だろう。気付けば勝手に身体が動いていた)」
身体と思考が、自分の周りも含め、全て一つに溶け合わさった感覚。初めて味わうそれは、何故か独り言ちした疑問すら酷く滑稽に思えて仕舞う何かであった。
「(不思議だ。空気の流れが全身で汲み取れる。目に映る景色と身体が連動している。なのに――)」
これが当たり前なのだと、魂の奥底から技を研鑽し続けた過去が訴えかけてくる。
無我の境地。
ほんの爪先程度だが、京姫が踏み込んだ無心の領域。
其処に至るは超集中状態へ没入したことから始まり、その先へ導かれた。
只、身体に染み込ませた技を振るう。それだけが此処にある。
だから京姫は、ヘリヤを前にしても何時も通りに。
「(私にも確り根付いていたんだな。まるで技が語り掛けてくる感じだ)」
だから京姫は、恐れもなく。
珍しくも試合中にヘリヤが肉声で言葉を紡ぐ。
「すごいぞ、京姫。今の突きは初動すら掴めなかった。それに、胴を斬られた技。武器に反射した光の残像で初めて気付いたくらいだ」
あの軌跡は美しかったと、ヘリヤは笑う。
「ありがとうございます。あなたが相手だからこそ、私はこの場所に踏み込めました。それをお見せしたいと思います」
京姫は今の自分がどう在るのかを自覚した言葉で返した。
「それは何ともウレシイねえ」
心の底から湧きだす歓びを隠しもせずにヘリヤは笑みを浮かべる。そして、剣先を真っすぐ上に向け、胸の高さで柄を持つVom Tagの構えに切り替えた。
ヘリヤの構えは誘いだ。然し、其処に戦術的なものはない。京姫へ討ちに来い、もっと技を見せてみろ、とのメッセージだからだ。
京姫は槍や薙刀ではなく、刀術の八相で構えている。ヘリヤと写し鏡のように。但し、長巻の柄が長いことから、左手の位置は臍下丹田まで下がっているが。
そして、京姫の精神は再び世界に溶け込み、音が消える。ヘリヤと二人だけの隔絶した世界に没入した。
スルスルと侵略するかのように蹈み込んだ京姫は、ヘリヤの認識が追い付くより速く斬り下ろしを仕掛けた。だが、ヘリヤも自然と同化するそれを一瞬後には察知し、神速の斬り下ろしで遅れた時間を取り戻すように迎撃する。
カヒン、と刃の討ち合う音が尾を引く。
ビンデンとなった二人の位置に、ヘリヤは苦虫を噛み潰された。
「(やられた。振らされたか)」
京姫までは後一歩の蹈み込みが必要とする程に遠い。
なまじ京姫の攻撃が自然と溶け込むため、初動の認識へ意識を割いたヘリヤの挙動を逆手に取られ反応させられたのだ。よもや、距離の虚偽を練り込んでくるとはヘリヤもまんまと一杯食わされた。
そして、ビンデンで討ち負けたかのように京姫の武器が弾かれる。実際は弾かれたように見えたが、股関節の位置を変えて僅かにヘリヤの外側――左手側――へ中心軸を移動し、ヘリヤの軸から逃れた。ヘリヤが此方の体軸へ合わせる一瞬の時間で、刀身の内側から受けられている剣をほんの数糎程上下させて跨いだのだ。
「(いかん、獲られた)」
ヘリヤも、まさかビンデンで体軸を奪う手を使われたのは初めてだ。それが剣を跨ぐための技法だとは。
跨いだ刀身は反応より速く左手首をスッと斬り抜いていた。
それでもヘリヤの反応速度は埒外と言えよう。斬られた左手は柄の握りを外し捨て去り、右の上半身だけを即座に連動させる。右腕一本で繰り出した神速の突きは、離した左手が右半身の制約を取り払い、身体を目一杯伸ばさせて届かない距離が埋まり、京姫の胴へ吸い込まれた。
――ポーンと被弾通知が二つ鳴った直後、合わせて一本となる通知音がヴィーと二つ。
「(やれやれ。後手に回ったが何とか引き離されずに済んだ)」
ほうっと息を一つ吐くヘリヤ。彼女をしてギリギリであったのだ。だから珍しくも安堵をした。
それを待つかのように審判が声を上げた。
『双方、一本。第一試合終了。待機線へ』
途端に観客席から今大会で一番の歓声が怒号のように響き渡る。
彼等は半信半疑だったのだ。
通知音から。
インフォメーションスクリーンのポイント表示から。
第一試合の結果は間違いが無かった。
然し、審判の声を聞くまで、その現実に何度も自分の目を疑っていたのだ。
結果としては相討ち。
だが、結果を塗り潰す程に大きな意味があった。
完成の域に到達してより、優に二年半振り。
そのヘリヤが一本を獲られるなど、常なら荒唐無稽と笑い飛ばされる話。
それを京姫が笑い話を現実に変えた。
だから観客のみならず、試合を見ていた騎士達まで騒然としているのだ。
――東側選手待機エリア。
大きく息を吐く京姫の顔には隠しきれない疲労が色濃く浮かんでいる。
相手が相手故に、よもや場内の喧噪などに耳を傾ける余裕など微塵もなかった。
「いやはや、あの遠間から反撃出来るとは。やはりヘリヤは一筋縄じゃいかないな」
淹れてきた番茶をカップに注ぎながら京姫は独り言ちた。
立ち上る湯気を見つめれば、今しがたの試合が重なり映る。
確かに自分の技で戦っていた。然し自身でさえ、次の技に何が出るのか判らず、意識と切り離された身体が最適な動きを以って戦いを繰り広げた。
それは、これまで積み重ねたものが形となり生み出した境地なのだろう。その一端を垣間見られたことこそが過分であると、心の中で異を唱える自分もいる。それでも価値は計り知れない。
「……ヘリヤと五分で遣れたことを喜ぶべきか、悲しむべきか。うん、潜在的なものだろうと私の意思がない技は本当に正しいものなのか、果たして紛い物の域を出ないのか」
今一度あの感覚を分析すれば。精神と身体が自然の一部へ溶けだし、あくまで自然に左右されていた。自然がそうであるように、そこに自身の意思は介在しない。故にコントロールが出来るかといえば否だ。
言うなれば制御出来ない技術。故に紛い物と称した。
それが発現した今だけであるのか、熟すことで扱えるようになるのか。現時点では全くの未知だ。無我の境地と言葉では容易く表せるが、実際にその経験をした者など噂話すら聞いたことが無い。教えを乞う宛すらもない。
だが、偶然かもしれないが踏み込めた一歩だ。自分が未だ足りず、霧の掛かる見通しすら付かない領域であると承知しているが、触れる機会は得られたのだ。ならば、一つひとつ手探りで見るべきもの、掬い上げるものを確かめて紛い物の真価を問うことが本筋ではなかろうか。それが本物ならば身に付けるべく邁進すれば良い。
「結局、積み上げた過去に助けられたってことか。だけど良し悪しはともかく、進む道が朧気ながらに見えたのは収穫としよう」
たった一歩。然れど一歩。その道を征くのは誤りかもしれない。未だ恐れは心の奥底で燻っている。それでも前を向くことを決めたのだ。
心に大きな荷物を抱えようとも、愚直に突き進むのが京姫の生き様だ。
決めて仕舞えば、空の高きが目に映る以上の情感を湛えていることが自然に心を凪いでいく。
少し温度が冷えた番茶を一息に飲み干す。
無我の境地で莫大なリソースを消費し、軋み始めた身体を抱えた姿は、その事実とは裏腹に。
まるで風が小さく揺らす水面のように。
辺りの喧騒が嘘のように。
京姫を静寂が包み込んだ。
「もう一度触れたい。あの夢のような時間に」
ヘリヤなればこそ造り出せる高次の試合。それを経験した今ならば、京姫の迷いなど何と小さなものであるかと痛感した。
見せられたのは只管な純粋さ。それで良いのだと剣を通して教わった。
ならば、再び手を伸ばすことに躊躇いはなく。
それは希望であり渇望。
『双方、開始線へ』
インターバル明けで第二試合を待機線にて待つ京姫とヘリヤに、審判から試合コート入場の呼び声が掛けられる。お互いが開始線で向き合うこと二度目となるが、この時点でヘリヤがまさかの同点。否が応でも観客の期待は高まる。
ところが、向かい合う二人は、喧騒などはどこ吹く風だ。
ヘリヤはどんな状況でも変わることはないが、この大一番でも京姫が静かに凪ぐような精神状態を維持していることには恐れ入る。ヘリヤが見ても、堂に入ったその姿は目を惹かざるを得ない。
「(ほうほう。言わばさっきは前哨戦、ってところか。インターバルの間で何かあったのかな? さっきよりも力の流れが澱みなく循環してるな。こりゃ、瞬き一つで不利になるレベルだぞ)」
ヘリヤが対面した京姫の状況。見たことない程に気配が高まっているところを見れば、僅かでも誤てばあっさり獲られるだろう。京姫の高まりで、あの高度な技量が万全となるとすれば。
ヘリヤが戦術を練るとしても、セオリーに準じたところで、攻撃の導線を繋げるための牽制すらも、相手に付け入る隙を与えることになるだろう。
既に立ち回りすら小賢しい悪手になると、ヘリヤは口角が上がる。
真っ向から京姫を受け止め、それを討ち砕くことが役目なのだと、嗤うのだ。
「(透花に続いて京姫もあたしを追い詰めるとは。いい時代に生まれたなぁ)」
ヘリヤは自分を脅かせる強者達が、すぐ後ろから着々と育っていることに感謝した。
日々成長する後輩達を感慨深く、近い将来にどう並んでくれるのか予想図を描いていたところで、京姫が言葉を綴り始めた。
あっ、と慌ててヘリヤは思索から戻る。すっかりマイクパファーマンスのことを置き去りにして仕舞っていたのだ。
「判っていましたが、ヘリヤの強さは底が知れない。起こりえることは全て在るものだと身に沁みました」
先の試合で最後となった一交差。反撃が届かない距離から仕掛けた京姫の攻撃は、まんまとヘリヤを誘い出せた。然し、届かない筈の距離を身体操作で埋められたのだ。在る筈がなかった反撃は、京姫の対応可能な範囲外から訪れたが故に、ポイントを引き離すことは出来なかった。
「いやいや、京姫の攻撃こそ在り得ないだろう。攻撃が当たる間際まで気付かせないなんて、とんでもないことしてるの判ってるか?」
ヘリヤに問われて、顔に疑問を浮かべる京姫。無心――と表現しても良いだろう――から生じる技が、他人から見た時にどう映るのか考える余裕などなかった。自身の状況に取り残されないよう追い駆けるだけで手一杯だったのが実情。
「そうは言われましても。ただ自然に身体が動いただけですので、私からは何と答えたら良いのやら」
少し困惑しながら応える京姫の様子に、ヘリヤは呆れた仕草で小さく息を一つ吐いて言葉を返す。
「はあ、全く自覚なしか。いや、だからこそなんだろうな。……京姫。おまえ、一つの到達点に片脚を突っ込んでるんだぞ?」
思いもよらない言葉に、京姫は何とも言えない珍妙な表情になる。その顔を見て然もありなんと、ヘリヤは続ける。
「この先、京姫が何処へ向かうのか知れて良かったよ。頂まで登り詰める過程も楽しめるしな」
ヘリヤは、本当に楽しそうな笑みを浮かべる。まるで、プレゼントを心待ちにする子供のように。
彼女にとって、京姫が其処に辿り着くまで何年掛かるか判らなくとも、成長する様も楽しめる未来を垣間見たことは大いなる歓びになったのだ。それは、京姫が必ず大舞台――世界選手権大会――に登って来るだろう確信を背に。
「……私自身は、まだ征く先に霞が掛かっています。でもヘリヤが言うのであれば、そうなんでしょう。果たして届くのかも判り兼ねますが、その時々の私が私として、技を揮わせていただきます」
ヘリヤの目を真っすぐと見ながら京姫の口から紡ぐ約束。
時に自分自身より、他人が見て気付く事柄もある。今回は特にそうだ。無我の境地に入りかけの認識は京姫も持ってはいたが、それを受ける側からすれば認識が全く違っていたのだ。故に、どれ程のことを仕出かしていたのか京姫は気付ける筈もなく。聞かされても未だ認識の齟齬が埋められないくらいだ。
「ああ、十分さ。今の京姫を存分に見せてくれ」
ヘリヤの笑みは崩れない。そこには確かな焦がれが窺えた。
『双方、抜剣』
二度目の抜剣。
ヘリヤの黄昏色と、京姫の白銀色が映える。
戦いを織り成すための武器が、舞台に彩を添える。
武器は体現の一つで、あくまで主役は彼女達なのだ。
『双方、構え』
ヘリヤは肩の高さで切先を相手へ向けるOchsの構え、京姫は左半身で腰を落とした大身槍の地の構えと、両者共に突き構えで相対している。
『用意、――始め!』
始めの合図が審判から下された。然るに双方共、動きはない。在るのは膨大な気配を溢れさせるヘリヤと、その濁流を切先で切り流す京姫。
刻一刻と時間だけが過ぎ去る。だが、時間と共に二人は高められていく。
その高まりが観客席まで圧する大瀑布となった瞬間、状況は動く。
――キンッと、武器が搗ち合う音がしたかと思えば、ヘリヤは京姫の殺傷圏から随分と離れた位置まで後退していた。客席ではヘリヤが後退した姿を見て、攻撃が交わされたのだと初めて認識した様子で、何が起こったのかと騒めき立つ。
第一試合冒頭の再来である。刀術の突きを伏線に、此度の京姫は槍による突きを放ったのだ。それをヘリヤが剣で流し、次撃の警戒からヘリヤ式瞬歩にて距離を取ったのが一連の流れだ。
「(ほんと厄介だな。京姫の攻撃が届く間際まで全く気付けない。読みすら無意味にされるなんてすごいなぁ)」
さしものヘリヤも、無我の境地に足を踏み入れた相手と戦うのは初めてだ。故に対処法など持っておらず、試合の中で攻略法を確立させるには時間が足りない。どうしても一手遅れて仕舞い、後手へと回っている。
「(それでも遣りようはあるさ。次が来たら仕掛ける)」
ヘリヤは、腰元にて柄を引き寄せ切先を相手の頭部へ向けるPflugにて構える。
京姫が武器を槍術と剣術へ自在に切り替えて使ってくるのも曲者で、広範囲で迎撃出来る型を用い、そこから反撃に繋げる腹積もりだ。
その京姫は。
右半身に切り替えた地の構えとなっていた。右手を前に、槍を繰り出す奥手を左手へ。ヘリヤに対してアンマッチ(※)のスタンスだ。
(※注釈)この話では格闘技と異なり、剣術は利き手側を蹈み込んで斬る動作となるため、右利きの場合は左半身同士になるのがオーソドックススタンスとなる。槍は技法と運足が異なるため、格闘技どころか戦術のスタンス自体が違うものとして扱っているので注意。
「(ヘリヤは後の先を狙ってくるのか。ならば此方は後の後が鍵になるか)」
京姫が繰り出す無心の技対策であろう。ヘリヤは初手を受け身の構えで確実に攻撃を捉えてから反撃に繋ぐのだと、隠そうともしない。相手に悟られようが一向に構わず、迎撃ごと打ち砕くヘリヤならではのスタイルである。
だからこそ、純粋な脅威だ。
今の京姫は無我の境地と言う下駄を履いた状態であることを承知している。研鑽した結果が無心の技を引き出したとて、自身の思惑を乗せるだけで破綻する危ういものだ。
「(しかし、無心の技に頼るしかないとは情けないな。だけど何れ使い熟せた時、見える景色は変わるんだろうか)」
技に任せるしかない自分を歯がゆくも思う。だが京姫は、そんな考え自体が烏滸がましいと切り捨てる。未だ葛藤が赦される程、高みに届いていないからと。それすら雑念であると思考から消し去り、再び精神が世界へ溶け込んだ。
一秒だったか、一分だったか。時間の感覚すら曖昧になった京姫は、気付けば右手をガイドに左手で長巻を突き込んでいた。完全に相手が認識出来ない攻撃。然るにヘリヤは被弾直前でまたもや京姫の刺突へ剣を長巻の外側から挿し入れ、自身の右外側へ逸らす。京姫の攻撃は槍の距離から強襲するため、剣を振るための右脚での蹈み込みが出来ずに左半身のまま受けていた。
ここでヘリヤは蹈み込み、京姫の懐、詰まり槍とした長巻を往なした安全圏内に距離を浸食する。そして無防備となった右上半身へ斬り下ろしを放ったが、予想外の出来事に驚かされる。
「(まて。槍の刺突をした武器がなんで、剣の間合いで受けている)」
京姫は、一撃目の刺突を繰り出した後、ヘリヤの蹈み込みに合わせ、左手で長巻を引いていたのだ。それにより、固定した右手の中を滑るように鍔元まで下がった長巻は、剣で討ち合う距離になる。ヘリヤの射程圏は京姫の射程圏になっていた。よもや武器の引き自体も自然の一部に溶け込んでいたため、ヘリヤの検知がまたもや認識しなかったのだ。結果、斬撃を受けられた瞬間にヘリヤは初めて気付いたのだ。
そして、京姫の蓄積した経験で無意識に放たれた技は、受けでビンデンとなった拮抗を放棄し、抜力で長巻がヘリヤの剣を上手に巻きながら左下方まで抑え込んだ。長巻の刀身は実戦造りの厚い拵えであっても、ヘリヤの強烈な斬撃を直に受けたことで刀身は曲がっていた。
その瞬間、京姫は長巻から手を離す。その両腕は脇差を抜く位置であった。左手は脇差の鞘根を握って鯉口が切られ、右手で縦抜刀する。
狙うは剣を抑え流され無防備となったヘリヤの左腕。刀身が光の線を残し、一閃する。
然し、この状態でもヘリヤはその上を行った。
この試合でも見せた緊急回避。ヘリヤ式瞬歩で、射程圏から逃れる刹那の後退。たった一歩だが、脇差の切先から逃れるには十分だった。
だが京姫にも、その先があった。
空ぶった刀身は跳ね上がり、左の蹈み込みでヘリヤの胴体を捉える軌跡を描く。
――筈であった。
「(あ)」
京姫の短い驚きは悔悟を含んでいた。
蹈み込んだ左脚が膝から崩れたのだ。
「(ここまでか)」
京姫は呟いた。
姿勢を崩した一瞬。
それはヘリヤの剣が心臓部位を貫くに足り得る時間。
「(身体の負担を見誤っていた。それすら気付かないなんて、私は修練がまだまだ足りてないな)」
その兆候は第一試合のインターバルで表れていた。にも関わらず、完全にペース配分を誤っていたのだ。まだ持つであろうと過信した結果がこれだ。だから崩れた一言に後悔の念が表れたのだ。
一本損失を示す、ヴィーと通知音が聞こえる。
夢の時間が終わった音だった。
『ヘリヤ選手、一本。試合終了、双方開始線へ』
審判が試合終了を告げる。
南向きで横並びになる京姫とヘリヤの姿に、観客は静かに結果を待つ。
『東側 京姫・宇留野選手 一本』
審判が差し挙げた手を向けられ、京姫は観客へ一礼する。
『西側 ヘリヤ・ロズブローク選手 二本』
その言葉をヘリヤは目を瞑って聞いていた。
『よって勝者は、ヘリヤ・ロズブローク選手』
審判の勝者宣言。ヘリヤへ向けて高く上げられた手を契機に、観客の歓声が一気に溢れる。ヘリヤが勝利した騒ぎであることは定番であるが、京姫がヘリヤから一本を奪ったことへの驚きと賞賛が割合的には多い。至るところで讃える声が上がっている。学園生アナウンサーも解説席から興奮気味に饒舌なアナウンスをこれでもかと騒がしく喚いているのが客席にも伝播している。
京姫は他人事のように深く息を吐く。精神的疲労だろうか、思考に精彩が欠けている。
観客席の喧噪は、拍手喝采と共に自分を讃える声も聞こえはする。
それでも、まるで遠くの出来事で、自分は此方側なんだと試合コートを見やる。
あの夢のような時間は。
夢が覚めて終わって仕舞った。
それが残念で仕方ない。
自分はあの夢の中で何かを残せたのだろうか。
そして、夢の世界に連れてくれた相手へ祝福と感謝を口にする。
「おめでとうございます、ヘリヤ」
「ああ、ありがとう」
「それとありがとうございます。此処まで連れてきてくれて」
ヘリヤが相手だったからこそ、一つ先へ踏み込めた。自分の向かうべき道が朧気ながら見えて来た。
「おいおい。寧ろ、あたしの方が礼を言いたいくらいだ。攻撃がまるで読めないなんて初めての経験だったよ」
あれは面白かったとヘリヤは笑う。
「いや、練られた武術ってのは素晴らしいね。あんな技を生み出すもんな。しかし、最後は身体が追い付いてなかったのは残念だったな」
「不甲斐ない限りです。自身の限界を読み切れませんでした」
京姫は崩れるまで気付かなかったのだ。身体の限界を超えていたことを。
「京姫は超集中状態の経験が浅いんじゃないか? アレは使い方を慣れないと疲労が増えるしな。その上、あの初動が判らん攻撃までしてたんだ。精神疲労と肉体疲労が噛み合ってないように見えたぞ」
自在に超集中状態どころか肉体の潜在能力を引き出せるヘリヤだからこそ、身体の内部をどう扱うか経験から判断出来るのだろう。
「なるほど。参考になります」
京姫にとっても先人の言葉はありがたい。ちょっとしたキーワードだけだったが、切っ掛けに成り得る金言だ。
「必要な時だけ使うのが一番効率いいからな!」
その言葉だけで、ヘリヤの異常性が判る。
本来、超集中状態や潜在能力を引き出すなど、意識して使うなど出来るものではないからだ。
それを自在に引き出せるだけで、埒外の修練を熟しているだろうと想像出来る。
彼女は夢の世界に棲む。
夢を見続けるため、只管に研鑽を積み上げる。
「……楽しかったなぁ」
ポツリとヘリヤは呟く。
夢が覚めて仕舞った寂しさが一瞬表情に表れた。然し、すぐに笑顔となる。
次の夢を見るために。
「ええ、本当に。夢のような時間でした」
京姫は言う。ヘリヤと夢を見られたと。
「そうか……。それじゃ、また何時か待ってるよ」
感慨深く呟いたヘリヤの言葉。それは約束。
「ええ。また何時か、必ず!」
京姫の戦う理由が一つ増えた。
それは夢見る時間を再び巡り合うために。
今回、ほんの少しではあるが目指すべき高みを垣間見ることが出来た。
未だ霞の掛かる中で、どう進めば良いか模索していく段階ではあるが。
だから、また何時か。
ヘリヤが待つ世界の頂で。
切り捨てて端折った初期案を復活
作中の本文には記載しない設定の伏線として、ここで京姫にヘリヤから一本獲らせることにした




