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忘れ傘

作者: kamekichi

 Kさんは大学生時代一人暮らしをしていた。

 最寄り駅までは徒歩15分程かかる。本当はもっと駅に近い所へ住みたかったが家賃の都合上、そこに住むしかなかったのだという。

 Kさんが入居したアパートの最寄り駅は地下鉄駅だった。地下鉄路線が一本通るだけの、小さな駅だったらしい。

 駅の周辺には比較的古いマンションや介護施設が多く建ち並ぶ、どちらかといえば高齢者が多い土地柄だった。その為駅を利用するのも高齢者が多く、夕方以降の駅前はいつも閑散としていた。

 地下鉄駅なので改札までは階段を降りなければならない。Kさんはいつも階段を利用していたが高齢者の多いその駅で多くの人間は階段よりもエレベーターを使用する。利用者の少ない階段は薄暗くて汚れていた。


 その階段の手すりにはいつも同じ傘が掛けられていた。

 女性ものの小さい傘で、薄紅地にクリーム色の小花模様が散らしてある上品なデザインの傘だった。なんとなく30~40代くらいの大人の女性が使っているイメージだ。

 Kさんは学業やアルバイトで帰宅が深夜になることもあった。不規則な生活を送っているにもかかわらず、Kさんが階段を使うとき傘はいつも必ず、同じところに掛かっていたという。

 誰かが手すりに引っ掛けたまま忘れてしまったのだろう。そう考えたKさんは特に気に留めなかった。


 Kさんが一人暮らしを始めてから1年が過ぎた。

 Kさんはほぼ毎日駅を利用していたが傘は相変わらず、手すりに掛けられたままだった。Kさんが引っ越してきた時には既にそこにあったのだから、少なくとも一年以上、駅に放置されたままという事になる。

 清掃員か誰かが見つけて撤去しないのだろうか?忘れ物として届け出るべきだろうか?

 少し気になったがわざわざ届け出るのも面倒だと思ったKさんは見て見ぬふりをすることにした。一年以上も置きっぱなしなのだ。持ち主だって今更探していまい。そのうち誰かが片付けるだろう。

 そして放置傘のことなどすぐに忘れてしまった。


 ある日、翌日の実習のための準備をしていたKさんは帰宅が23時を過ぎてしまった。

 駅前は夜になるとほとんど人気が無く、Kさんは寂しい道をアパートまで15分ほど歩かねばならない。心細い気持ちで駅を出ると、間の悪いことに雨が降っていた。

 天気予報にはなかった雨である。Kさんは傘を持っていなかった。

 雨脚はなかなか強く、待っていても降りやむ気配はない。周辺に売店などはなく、傘を買うことも不可能である。濡れて帰ろうかとも思ったがKさんのバッグの中には明日の実習で使う資料が入っていた。濡らすわけにはいかない。

 どうしよう、と途方に暮れた時、Kさんの脳裏にあの放置傘が浮かんだ。

 あの傘だったら使ってもいいだろう。一年以上放ったらかしになっているんだし、盗むわけじゃない。今日だけ、ちょっと借りるだけだ。明日の朝同じところに戻せばいい。

 他人の忘れ物を無断で拝借するのは少し後ろめたかったが、他に良い方法を思いつかなかったKさんはその傘を借りることにした。

 Kさんが引き返すと果たして、傘はいつもと同じく階段の手すりに掛けられたままだった。

 「ちょっとお借りします。」と口の中で呟いてKさんは傘を取った。


 駅を出て傘を開いてみる。長く放置されていた割には錆びついていなかったし、埃もたまっていなかった。

 自分以外にもこの傘を使った人がいるのかもしれない。Kさんはそう思ったという。そう思うほど傘の状態は良かった。

 傘をさして歩き出したKさんは5分も歩かぬうちに、話し声が聞こえたような気がして立ち止まった。もしかして痴漢か?と思ったKさんは恐る恐る振り返ったが誰もいない。深夜で、しかも雨が降っているのだ。歩いているのはKさん一人きりで周囲に人影はなかった。

 雨粒が傘をたたく音を人の声に聴き間違えたのだろう。

 そう自分に言い聞かせてKさんは再び歩き始めた。だが歩き始めるとまた声がした。男の声や女の声、子供の笑い声や赤ちゃんの泣き声も聞こえる。それでいて一人一人が何を話しているかは聞き取れない。Kさんに話しかけているわけではなく、それぞれが好き勝手に喋っているようだった。それは雑踏の中で聞く喧騒に似ていた。喧騒と違うのはそれらの声がすぐ近く、Kさんの耳元で聞こえてくることだった。まるで自分以外の誰かが傘の下にいるかのように。

 Kさんは再び振り返ったが周囲にはやはり誰もいない。声はKさんが歩き出すと始まった。

 その後Kさんは一度も振り返ることなく速足で帰宅し、帰宅するとすぐに傘を放り出した。



 翌日、布団から出て朝の身支度を終えたKさんは出かけようとした。だが昨晩借りた傘が見当たらない。昨夜帰宅したあと玄関のドアノブに引っ掛けた筈だ。確かにドアノブに引っ掛けた記憶がある。なのに傘はどこにも無かった。

 どれほど探しても見つからない。これ以上ぐずぐずしていると遅刻してしまいそうだった。仕方がない、元あった場所に返すのは明日にしよう。Kさんは傘を探すのを諦めて家を出た。


 駅に着き、急ぎ足で階段を降りる。傘はいつもこの階段の手すりに掛けられっ放しだったのだ、明日までに元の場所に戻そう。と何気なく手すりを見たKさんは愕然とした。

 そこには傘が掛けられていた。

 薄紅地にクリーム色の小花模様、間違いなく昨夜Kさんが借りた傘だった。それが何事もなかったかのように、いつもと寸分違わぬ場所に掛かっている。

 ぞっとしたKさんは逃げるように通り過ぎて、以来できるだけ階段は使わずエレベーターを使うようになった。たまにやむを得ず階段を使用する時は、極力手すりの方を見ないようにした。それでも視界の端に薄紅色の傘が見えたという。

 

 その後大学を卒業して引っ越したKさんはその駅を使わなくなった。あの放置傘がどういう由来の物だったのか、その後どうなったのか、分かることは何もないという。

 

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