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主婦は人知れず叫ぶ

作者: 三木 詩絵

3月の新型風邪の大流行の中、主婦のゆかりは自宅にいて発狂寸前だった。

息子と家に篭る生活がもう10日目を迎える。十日だ、とうか!

思わず声を上げそうになる。が、何とか自分を抑えて言葉を飲み込んだ。


息子はこの4月から小学一年生になる。2月も終わる頃、この風邪の流行を封じ込めるため外出を控えるようにと、国の方針が示された。そして10日前、息子のこども園生活は予定よりも2週間も早く唐突に終わり、長い長い春休みが突如としてやってきたのだ。

「子供との時間がたっぷり出来てよかったじゃない」

とは、幼児の世話を免れている人たちの意見だろう。

「大変な思いをされている方達がたくさんいるのだから、これくらい我慢しなきゃ。家族が健康なら、それで充分。」

もちろん、そんな世間の声はわかっているつもりだ。

「やらなきゃならない入学準備が、全然進まない。卒園式だって、あんなに準備してたのに…」

ゆかりは目の前の問題を思い返してはボソボソと呟く。仕事の方も、この騒動で全てキャンセルになった。3月の予定表は空欄のままだ。母子で、ほぼずっと家に篭っている。家に居るなら暇を持て余す程に時間はたっぷりあるだろう、と思われがちだが、そうは問屋がおろさない。

ゆかりは5歳児息子の友達の代わって妄想遊びに延々付き合い、止まることを知らない理解不能なギャグや愚痴のシャワーを繰り返し繰り返し聞き、大音量の戦隊モノやゲームミュージックを朝から浴び続けて、すでに意識が朦朧としつつあった。「友達に会えない。」「遊びに行きたい。」「ぎゃー、こぼした。」「あれがない、これがない。」「聞いて聞いて。ねえ聞いているの?」「ママ、ママー。」「うんこ、うんこ。きゃ〜」

(ああ、うるさい。何もできないわ。お願い私に5分でいいから時間を頂戴)

こんな生活が10日。毎日同じ繰り返しである。

些細だが無視できない問題がもう一つある。ゆかりの仕事はバイトなので、キャンセルになった分の給料は支払われない。3月は出費のオンパレードだ。それなのにこの月の収入は出費と反比例することが確定している。財布が痛い、イライラが募る。


ゆかりは職場で自主的に暇を取るよう言い渡された時のことを思い出していた。それまでもなんとなく悪い予感はしていた。が、いざ言われると思わず抗議の声を上げそうになった。

(今月は出費が多いんです。収入が減ったら困るじゃないですか!)

初老の上司は申し訳なさそうに首を垂れている。その疲れ切った白い短髪を見ていたら、ゆかりは何も言えなくなってしまった。辛いのは同僚も会社も同じなのだ…


さっきから息子はゆかりの隣でソファーをトランポリン代わりにして、ピョンピョンと飛び跳ねている。食べかけのアンパンがソファーに置きっぱなしで、それを足で踏みつけたらしい。突然「ぎゃ〜。」と叫ぶと、次の瞬間、なぜかかケタケタと笑い出した。

「この子、狂っているんじゃないの。」

心のうちに納めていた声が、うっかり本物の声となって外へと漏れ出てしまう。一瞬しまった!と思うが、ゆかりの声は早速燃料となって、息子の笑いはいよいよ勢いを増しただけだった。


もう一つゆかりにとって残念な出来事があった。来週に予定されていたコンサートが中止になったのだ。一瞬頭の中が真っ白になる。コンサートなんて、妊娠して以来一度も行っていない。大大大好きな歌手のバンド結成10周年記念イベントで、どうしても行きたかった。周りに無理を言って、この日に合わせて散々準備してきたのに。何度も何度もコンサート中止のお知らせとカレンダーを見直してから、手帳に挟んであったチケットを取り出して握り締める。目を瞑れば、本当に残念でため息が漏れてくる。

(決めた、払い戻しはしない。このチケットは記念に取っておこう。)前向きに気を取りなおす。アーティストはもっとずっと大変な思いをしているはず…


仕事の休みの取得はなかなか大変だったのだ。先ず、バイト全員のシフト調整はお局様の采配次第だ。お局様は古参のバイトで、立場は自分と同じはずなのだが、なぜか休みを取るのに彼女の許可が必要である。ゆかりがコンサートの日に休みが欲しいと申し出たところ、彼女は執拗に理由を聞いてきた。好きなバンドについて嘘を言うのも嫌だったので、

「ライブコンサートに行きたいんです。」

と答えたら、なぜか意味不明な嫌味をネチネチ言われる羽目になった。大好きなバンドを馬鹿にすることを言われて、怒りの導火線に火が点る。

(うるせえ、ババア。黙ってろ。)

もちろん心の中で叫んだ。ニッコリと作り笑いを浮かべて。


さて、今日はお姑さんが家に訪ねてくる予定だ。昨夜お姑さんと電話で世間話をしていて彼女の方から提案された。

「こんなことになって大変でしょう。家に行って孫をみていてあげるわ。」

ゆかりは喜んで答える。

「大歓迎です。」

買い物に銀行に出かける用事がたくさんあるのに、遊びたい盛りの幼児を人混みに連れ出すのは容易ではない。ありがたい申し出である。


9時に呼び鈴がなった。インターホン越しに上気した顔のお姑さんが写っている。予定よりも2時間早い。

(しまった、部屋が全然片付いていない。)

ゆかりは大慌てで机の上を片付けてから、引きつった笑顔で姑を迎える。

もっとも、前もって片付けてもあまり意味はない。きれいに片付けたところで、一瞬で息子が物が散乱させ、家がぐちゃぐちゃになるからだ。

だとしても、ソファーにアンパンが潰れ、靴下に餡子がこびりつき、絨毯に餡子を引き摺った足跡が点々とついているのは流石にちょっとひどすぎる。朝食が手抜きのアンパンなのもいただけない。

嫁が行き届いていなくても、孫の笑顔のパワーは絶大だ。「ばあちゃん、ばあちゃん。」言われれば、細かいことは大めに見てもらえるというものだ。

さあ、早くこの喧騒から抜け出そう。落ち着いて考えることさえできれば、今日はたくさんのことが出来るはず。


息子はばあちゃんに自慢すべく、新しく買ってもらったオンライン戦闘ゲームを見せに来た。早速電源を入れると腕前を披露して褒めてもらう算段らしい。

息子はいい奴なんだが、ゲームに夢中になると我を忘れて熱中する。いいとこ見せたいばっかりに熱が入りすぎる。ばあちゃんは本当は孫が笑うだけで満足なんだ。対戦ゲームで負けそうになった息子は、焦って思わず相手のプレーヤーに向かって叫んだ、

「馬鹿、ふざけんな。このやろう!お前、死ね!」

ばあちゃんの笑顔がさっと引きつる。ゆかりも一瞬取り乱しそうになる。

(ふざけているのは、お前だ。いい加減にしなさい。)

ひと呼吸おいて息子に無言の圧力を加える。でも、そんなものがゲーム中の息子に通じるわけがない。

さすがのばあちゃんも呆れて、我が家の教育方針が心配だとゆかりにチクリと言った。

「ゲームさせんほうがイイとちゃうの?」

私だって同意見だ。だから、ゲームを買うのははじめから反対だった。

ゆかりは声にならない息を吐く、

(そもそもゲームを買ってきたのは、父親です。他ならぬあなたの息子です。夫は子供の頃もっとゲームで遊びたかったと拗らせてます。あなたのうちの教育方針の結果がこの子の父親なんです!)

「こども園で変な言葉ばかり覚えてくるんですよ。ホホホ。」

ゆかりは言葉を濁した。


夫がゲームを買ってきた時はこんな感じだった。

顔を綻ばせながらゲーム機片手に帰ってきた夫。嬉々として機器のセットアップをし、テンションマックスの夫。息子を側に呼び寄せると、ありがたい講釈を垂れるように説明を始め、尊敬の眼差しで見つめる息子にますますご満悦の夫。

父子はますます悦に入り、二人で調子に乗った。

「お母さんは、本当にゲーム下手だなぁ。何をさせてもとろいんだ。」

仕舞いにはゲームにいい顔をしない母を蔑ろにし、ゲームのルールを決めようと言い出したゆかりにタックを組んで抗議し始める始末。

(あのね、私は家の掃除洗濯&炊事しているのよ。こうなったらゲームと家事一切を戦わせて、ライフラインとしてどっちが上か勝負してやろうじゃないの。先ずは夕食作りをボイコットよ!)

その夜は血圧を上げながらも夕飯は用意した。


(いけない、こんな回想をしている場合じゃない。早く銀行に行かなくては。)我に返ったゆかりは慌てて時計を見る。今日は体操教室の事前登録割引の締め切り日だ。今日振り込めば、明日以降の申し込みより年会費が一か月分も安いのだ。

昼食を済ませ、留守番を姑に頼むと、ゆかりはあらかじめ用意していたお金の入った封筒を手にひとり慌てて自宅を出た。

銀行に着いたときには閉店30分前だった。

「あと30分あるわ。振り込みに間に合ってよかった。」

店舗内のATMの長い列に並び、ようやく自分の番になる。封筒のお金を確認する。「6万4,800円と振込手数料、と。」

ゆかりはふと嫌な予感を覚えた。気のせいだろうか?

持ってきた体操教室のチラシに目をやる。さらにもう一度確認する。(6万6千円と振込手数料???)

しまった!消費税が8%から10%に上がったんだった。税金が上がった分、去年より高くなっているんだった!

値上がりの差額を補おうと鞄の中の財布を探すが、見つからない!

「なんてこった、信じられない。」

思わず低い声で悪態をつく。隣のATMを操作していた若い兄ちゃんが、ギョッとした目でこちらを見た。

家までの往復に少なくとも30分はかかる。今日の支払いには間に合わない…

(月謝の一か月分5千円が…今日までに前払いすれば浮くはずだった5千円が余計にかかるじゃないの。走ったら…ダメだわ、絶対に間に合わない。ああ…)


ゆかりはトボトボと帰途に就く。戻ってこない月謝代のことで頭がいっぱいだった。手ぶらで帰るわけにもいかないからと、買い物を済ます。スーパーで食材を買い、買い物の代金は用意した封筒に入っていたお金を使った。

家に帰ると、息子はばあちゃんの横で大人しく本を読んでいた。彼はどういうわけだか、普段は仕舞い込んでいる(いい子ボタン)の押しどきを知っている。何もやらかしていないようで、まずは一安心。

姑が尋ねる。

「銀行にはいけたのかい?」

まさか「計算間違いをしたうえ財布を忘れた。」とも言えず、

「今日は天気が良くて、お散歩日和ですね。でも花粉も飛び始めたかも。」

なんて、訳のわからない返答をした。

買い物袋の中身を確認しながら、必要なものを買い忘れたことに気づく。今日使う予定だった名前ペンだ。

「ああ、しまった。」

思わず声を上げる。

「どうしたん?」

お姑さんが気にして聞いてきたが、どう答えたのかもう自分でも思い出せない。

(今日のうちに、小学校生活での持ち物に名前を書きを一気に終える予定だったのに。)


母の帰りを待っていた息子は、満面の笑みで勢いよく飛びついてきた。

ゆかりは反動で、スーパーの袋に入っていた、イチゴと卵と牛乳を真っ逆さまに落としてしまう。食材は三つとも、無事ではなかった。おまけに、この後片付けはもちろん自分の仕事だ。


肩を落とし膝をついて雑巾をかける。いい匂いがして、まるで床の上で美味しいミルクセーキを作っているようだ。この斬新な調理法で作られたストロベリーミルクセーキは、誰かの口ではなく、ゴミ箱に吸い込まれていった。

(今日1日、私は何をしていたのだろう。)


お姑さんは笑顔で帰っていった。何も進展のない、でも盛りだくさんのゆかりの1日が終りつつあった。

ふと、インコの今日の世話がまだだったことを思い出す。1日一回は放鳥して給餌とお世話をしないと、インコだって不満が爆発する。いや、彼らにとっては人の世話は命に関わる問題だ。かわいいインコは私の癒し。


ゆかりは漸く気を取り直して、今日初めて自分のためにお茶を淹れた。そうよ、リラックスタイムが必要よ。

「ギャー、痛い!」

ゆかりは自分でもびっくりするような悲鳴をあげた。ソファーで遊んでいたインコに気づかず腰を下ろそうとしたので、焦ったインコが噛み付いたのだ。

インコはそのまま飛んで逃げると、定位置の戸棚の上を陣取った。上からじっとこちらを見下ろしてくる。

指についた白い噛み跡から、じわりと血が滲み出てきた。

ゆかりは噛まれた指を押さえながら、インコをきっと睨み返した。

「私が悪いの?私が」

そして思わず叫んでいた。

「そうよ、私が悪い。どれもこれも全部、私が悪いのよ!」


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