晴天の霹靂
「本当なのですか?」
「はい」
晴天の霹靂とはこの事だろうか。私は機械的に話を始める『弁護士』と名乗るどこかで見たことのある中年の男性を見た。
初夏の昼下がりの休日に人の部屋に押し掛けてきて、本物の名刺を渡されても何もかもが胡散臭くて今も信じられない。
「私が隠し子ですか?あの、サイガフーズの……」
それ以上は信じられなくて口には出せなかった。なんとなく誰かの隠し子かもしれない気はしていたが、そんな大きな会社の人間が父親だなんて。
「左様です」
「あの、詐欺を狙っているのなら相手を間違えてます」
苛立ち混じりに少しだけ声が大きくなってしまった。部屋に上げるのは憚られたので、近所のファミレスに居るが、あまり大きな声を出したら追い出されるかもしれない。
なんで、せっかくの休日だというのに、こんな厄介な事に巻き込まれなくてはいけないんだ。
すでに私は父親に幻想を抱いていた子供ではない。突然言われて『今更』という気持ちの方が強かった。
むしろ、相手が相手のため厄介な事だと私は思った。
「詐欺などではありません」
弁護士の、『村井』の返事はとても冷静で、人としての温かみを感じさせないものがあった。
人形みたい。こういう件になれているのかもしれないけれど、ここまで温かみを感じないとバカにされているような気分になってくる。
しかし、感情を露にしてしまっては向こうの思う壺だ。
「本当にそんな事があるのですか。何かの間違いではありませんか?」
冷静さを装いながら聞き返すが、きっと村井は私の感情の揺れに気が付いているはずだ。
私は一度も父親の顔を写真ですら見たことがなく育てられた。好奇心で知りたい気持ちは少なからずあった。
「信じられないのでしょうが。事実です」
「サイガフーズの会長、才賀与一さんと母が恋人同士だったなんて」
私が生まれる前の話を母親から一度も聞いたことはなく。父親が誰とは頑なに答えてはくれなかった。
その理由は、これだったのか。
知られたら今までの慎ましやかな生活は全て壊れただろう。私を愛していたからこそ何も言わなかったのかもしれない。
でも、隠しごとなんて……。言ってほしかったのに。わざわざ会いに行く事なんて私がするわけがない。
「まあ、驚かれますよね。与一様が貴女にお逢いしたいそうです」
「もしも、事実だとしても、私がノコノコ出てきても、あちらもいい気分はしないでしょう」
私が与一の子供だと名乗り出たとしても、向こうの気分のいいものではないだろう。愛人の子供がどの面を下げて、金をたかりにきたんだと思われかねない。きっと悪意を向けられる。
悪意は職場で向けられるだけで十分だ。
出来れば、このままがいいと私は思っていた。
「貴女は与一様の娘です。ですから、向こうの意思など関係なしに遺産を相続する権利がございます」
村井は勝手に本題に入る。恐らくこれが話したかったのだろう。
遺産という言葉にドキリとしてしまうのは、小心者で貧乏人だからだろう。
気にはなるが、あまり欲しいとは思えなかった。大金は人生を変える。と、よくテレビで観るからだ。その後の転落人生を考えると身の丈にあった生活が一番だと思う。
しかし、以前テレビで見たサイガフーズの会長は元気で、『遺産』と聞くと死を待つようであまりにも不謹慎ではないだろうか。
今会ったら、与一は生きているのに遺産をたかりにきた乞食と思われそうだ。
「そうですね。でも、遺産だなんて。そんな、与一さんは元気なのに不謹慎です」
「生前にそういうやり取りをすることはよくあることです。後々揉めないためにも」
弁護士の説明で『確かに』と思った。死人は何も話せない。『言った言わない』で揉める事は多いのかもしれない。
けれど、私は貰える物を貰おうという気にはならなかった。
そもそも、サイガフーズの会長が父親だなんて信じられない。実感のわかないものを貰えるほど私は夢見がちではない。
「放棄はできないのでしょうか」
「勿論できますよ。ですが……」
弁護士は機械的に言いよどむ。
何というか話しているとどこか違和感があって苦手だ。それが何なのか言い当てられないのも胸のなかがもやもやとしてしまう。
「何か?」
「貴女の生活ぶりを調べさせました」
やはりというか、大企業なら私の事くらい調べるのは当然かもしれない。
「とてもお金に困っているようですよね」
その一言に私はムッとなる。生活するには全く困ってはいない。彼らから見たら底辺なのかもしれないが。そんなふうに言われたくはない。
「いえ、生活には困っておりません」
「貴女からしたらそうかもしれませんね。しかし、今の生活は苦しいですよね?」
准看護師の学校に通うために借りた奨学金の返済は滞りなく出来ているが、生活に余裕は全くないのは事実だ。
「貴方には関係のないことです」
だけど、どうしてもこの手を取りたくなかった。高いところから見下すように救済の手を差し出されているような感覚がしたのだ。
「この生活から抜けませんか?貴女はまだ若い。准看護師として燻る必要はないと思います」
あるいは蟻地獄にはまった私を助け出そうとしている手かもしれない。
「え?」
「資格のせいで、もどかしい思いを何度もしていますよね?バカにされたり」
弁護士の話す通りだ。あのパートの看護師よりも私の方が給料が少ない事だってある。仕事を押し付けられて何もかもを否定されて。毎日うんざりしているのも事実だ。
でも、それは資格だけのせいじゃないと思ったいた。資格を取ったところで日常全てが劇的に変わるなんて、夢みたいな事など考えてはいない。
けれど、夢のために大きな病院で働きたいという思いは根底にある。それに必要なのは正看護師の資格だった。
今のままでも取れなくはないが遠回りで時間がかかる。その頃には、私は大きな病院で雇って貰えるのだろうか?
今後の見通しを考えると、不安な事ばかりしかなかった。
「別に大金なんて貰うつもりなんてありませんよね?ただ上の学校に通うくらいの遺産を貰ってもよいではありませんか?それは貴女の教育の為に必要なお金です。それは、当然の権利ではありませんか?」
確かに、上の看護学校に行くだけでもそれなりにお金がかかる。わかっていて弁護士は私に甘い言葉を囁いているように感じる。
美味しい話には必ず裏があるのも私は知っている。今まで何度か経験した。絶対に乗せられるものか。
「そんな図々しい事なんてできません」
「当然の権利を図々しいだなんて」
村井は演技めいた驚きを見せる。
「しかし、今の職場にいても若さを消費するだけですよ。この生活から抜け出る事が出きるのは今だけです。それに、与一様も貴女に会いたがっておりますよ」
それは、『若さを無駄に消費するだけ』は胸にグサリと刺さる言葉だ。彼の言うことに間違いはない。けれど、自分にも思うところがある。
なぜ一度も与一は母親や私に会いに来てくれなかった?病床の母親に会いに来てくれなかった?せめて葬式が無理でも墓参りに来てくれても良かったのではないか。と、私は胸の中を燻るような黒い想いがあった。
後々、私を呼び出すよりも、母親を愛していたのならそれくらいしても良かったではないのか。と。
私は弁護士越しに才賀与一に、腹をたてていたのだ。
「私は与一さんとは一度も顔を見たことのない。血縁かどうかも怪しい女ですよ。お会いする価値すらありませんよ」
母親は一度も誰が父親かなんて私には伝えなかった。つまり、与一が父親とは限らないという事だと思っていた。
ただ、生前、母親は誰とも懇意にしている様子はなかった。尻軽というにはあまりにもかけ離れていて、彼女がそんな事をするとは想像が出来なかった。
「たとえそうであったとしても、与一様は貴女の顔を一目見たいと思っておりますよ。あなたのお母様。真海様の事を懐かしみたいのでしょう」
村井はぬけぬけとよくもそんな事が言えるんだろう。つまり、何がなんでも連れていきたいということか。
「……」
「長い期間お会いしなかった親子が会うだけです。何一つおかしくありませんよ」
確かに何一つおかしなところはない。ただ、向こうの態度に納得できないだけなのだ。
しかし、私に対して向こうもいい印象なんて持っていないだろう。行きたくない理由はそれが大きい。
「これは与一様の強い希望です。ここで話し合いをした方があちらの家族にとっては助かると思うのです」
「え?」
「亡くなってから何か言い出す輩も少なからずいるのです。だから。こちらには迷惑なんてかかりません。いいではありませんか」
向こうに迷惑がかからないのであれば、行ってもいいだろうか。
ふと、そんな事を考える。確かに後々揉めるのは嫌だ。
「親子の顔合わせ。それだけです。何もおかしくありません。ですからどうでしょうかね?断っても私は何度も来ますから」
私は最後の一言に根負けした。
この男に何度も休日を潰されるのはたまったもんじゃない。
私はこの村井の事をすっかり嫌いになっていた。
「わかりました」
そう返事をして目の前の蛇のようにしつこい男を睨み付ける。
しかし、男は機械的に曖昧な微笑を浮かべるだけだった。
本当に嫌な予感しかしない。私はこれからどうなってしまうのだろう。
大きな渦に吸い込まれるような言い知れない不安を感じていた。