日常
母親が亡くなってから、ひとつだけ見つけた夢は結局叶えられずに私は看護師になった。
毎日が同じことの繰り返し。ただ、出来ることは出来る限りやりたいと思って生きていた。
「西田さん、透析後に何食べようとしてるんですか?しかも、この水の量は」
ドドーンと効果音が聞こえそうなくらい、ジョッキに注がれた大量の水と、タッパーに親の仇のように詰められたキウイを中年の男性患者の西田が今まさに食べ出そうとしていた。
その量はまずい。私は慌ててそれを止める。
「キウイだけど?」
西田は私に注意されてもあっけらかんとしている。二十歳になったばかりの小娘に注意されても、この人は怒らないところがいい人だと思う。透析患者は癖が強く、「好きにさせろ」と怒り出す人もかなりいる。けれど、西田はそういう面はあまり見られない。同じことを繰り返すが。
「この量はやめてください」
「なんで?これはサイガフーズの無農薬のいいやつだよ」
「そういう問題じゃありません。キウイを大量に食べたするのが問題なんです」
「なんだよ。透析患者は何も食べちゃダメなのかよ」
頬を膨らませて西田は私を睨む。食べたいものを食べたい気持ちはとてもわかるが、問題は量だ。
「ダメじゃないんですけど、程々に食べるようにしてください。あなたは、腎臓の機能が殆どないんですよ」
「それがどうしたんだよ。だから週に3回も腎臓のかわりに血液をキレイにして、溜まった水分を出す透析をしてるんだろうが」
一度の透析で溜まった水分を出すのには限度がある。あまりに多いと、血圧が急激にさがり、命の危険もある。
だからこそ、日頃から多少の我慢が必要になってくるのだ。
「そうですけど。食べるものや飲むものに気を付けてください。ここに置いてあるお茶。ジョッキじゃないですか。それに、キウイはカリウムが多いんですから少しならいいんですけど、このタッパーは大きすぎです」
「煩いなぁ。カリウムが多いとどうなるんだよ」
西田は前に指導した事をすっかりと忘れているようで、不思議そうに聞いてきた。
カリウムは透析患者さんにとってすぐに命に関わる物だ。過剰に摂取して亡くなる事も少なからずいる。
「カリウムは筋肉の収縮に関わっているんです」
「別にそれはいいじゃないか。沢山取ったら健康そうじゃないか」
健康に良さそうだという理由で透析患者は色々な物に手をだす人がいる。血液データを見てそれに毎回気がつくが、何度も指導しても理解してくれない場合もある。
「健康な人はいいですよ。でも、透析している方は別です!心臓は筋肉の塊。カリウムの取りすぎで心臓に負担がかかる事だってあるんですよ。実際に心臓に負担がかかって救急搬送された方だって……」
説明を聞いて理解したのか顔色を悪くさせた西田が俯く。
言い過ぎたかもしれない。
「はい」
「それに水分もです。透析するまでは身体に水分が溜まって、肺にもですけど、心臓にも負担がかかります。透析前は胸が苦しくなったことありませんか?」
彼は神妙そうな顔をするけれど、忘れた頃に繰り返すので、心を鬼にしてさらに注意する。
「あぁ、もう、わかったよ。はぁ、俺はアンタには弱いんだ。ちゃんと真面目に話聞いてくれるし、心配もしてくれるからさ。ちゃんと気を付けるよ」
西田は、ムスッとしながらも納得してくれたようだ。
「もし、食べるたいなら、透析する直前に食べてください。あ、採血日はやめてくださいね。お薬増えますから。あと、水分も。西田さん今日は顔が浮腫んでパンパンでしたよ。このジョッキは片付けてくださいね」
私が補足説明をすると、西田は苦笑いする。
「アンタのそういうところ好きだよ」
西田は裏表がなく深い意味などなくそんな事を平気で言ってしまうのだ。
喋らなければかなり格好のいい男性にそんな事を言われて私は苦笑いが出てしまう。不思議とときめきというものは全くない。
夢は叶わなくても毎日はそれなりに楽しかった。