私の初恋の夕顔
私を愛してくれた母。
父親が居なかった私を一人で育てることはとても大変な事だったと思う。亡くなった母親は私を怒ることなく大切にしてくれた。
けれど、一度だけ強く私を怒った事があった。小学四年生の夏のある日を思い出すと甘く苦い初恋が甦ってくる。夕顔のように私の心の奥底でひっそりと咲いている大切な思い出。
「あ、届いてる」
いつも母親宛に届く一通の手紙。
誰からと私が聞いても答えをはぐらかし、何も答えてくれなかった。
それが、開封されリビングのちゃぶ台の上に置いてある。
月一。多いときは週に一通届くそれはまるでラブレターのようだ。
「誰なんだろう。やっぱり私のお父さん?」
私はこの手紙の相手が自分の父親ではないかと考えていた。
どういういきさつがあったのか知らないが、母親は一切私に父親の事を教えてはくれなかった。頑なと言ってもいいくらいに。だからこそとても興味深く。私は彼に対して強い幻想を抱いていた。
そして、この手紙に対してもそうだった。
母親は教えてはくれないが、きっとそうだ。直接、父親と会えないのは向こうにも何か『事情』があるからこそ手紙を送り続けているのだろう。
「……知りたい」
たとえ後悔しても、父親が誰かわからないモヤモヤをずっと抱え続けるのは嫌だった。
私は手紙を手に取り広げようとした。その時。
「何をしてるの!?やめなさい!」
普段は温厚な母親にしては珍しく大きな声。
「あ、これ。読みたくて。ごめんなさい。お父さんからの手紙なんでしょ?ねぇ、なんで読ませてくれないの?」
私はバカ正直にそんな事を言うと、母親は唇を噛み締めて気まずそうに目をそらす。
「違うわ。それはただの私への手紙よ」
反応は嘘だと物語っているのに、母親は否定した。
なぜ母親は父親の事を隠したがるのだろう?私はどんな事でも受け入れる覚悟はできているのに……!
「嘘。なんで?それならなんで月に何回も届くの?お父さんからなんでしょ?どんなやり取りをしているの?ねぇ、お父さんのこと教えて」
「違うって言っているでしょう!?」
母親は私の話を遮り大きな声を出す。
「ねぇ、なんで教えてくれないの?」
こんなにも怒っているということは、きっと手紙の相手は父親なのだろう。
私はそう断定した。
「もう、やめなさい!それ以上は言えないわ」
やめろと怒った母親の表情は声音とは裏腹に今にも泣き出しそうで。私は、すぐに自分の好奇心で母親を傷付けたのだとわかった。
『父親が誰かと言えない理由』は私や、もしかしたら、母親すら傷付けるようなものかもしれない。
もしそうなら私はとても酷いことを母親に聞いてしまった。
「あ、ご、ごめんなさい」
私は父親にとって『必要のない子供』だったのかもしれない。スッとそんな考えが浮かんだのは母親の悲しそうな表情をしていたからだ。
自分の事よりも私の事を心配しているような表情。それが全てを物語る。
きっと、父も母もお互いの事をまだ愛している。
私が二人の間を引き裂いたのかもしれない。もし、そうなら私は悪人なのだろう。
「私が居なければお母さんはお父さんと一緒に居られた?」
否定して欲しいと願いながら私はつい母親を試すような事を言ってしまう。
「何を言っているの?私は貴女さえいれば幸せよ」
母親はわかりきった答えを言うけれど、なぜか信じられなかった。嘘だと私は思った。
嘘だ。きっと嘘。私なんかいなくなればいい。
「あ、待ちなさい!」
うっすらと赤くなった夕日に向かって私は現実から目を背けるように家から飛び出した。
「うっ……。っ」
勢いよく家を飛び出したものの、行ける場所なんて限られていた。泣きながら近所を歩いていると、幼い時によくある遊んだ公園が目に入る。
ここで、よくお母さんと遊んだな。
その時の事を思い出すと、また涙が溢れ出てきた。
「っう」
仕方なくブランコに座ろうと思い中に入ると、私よりも2つか3つほど年上の男の子がすでに座っていた。
見覚えのない子だ。彼は帰らなくていいのだろうか?
すでに空は暗くなりかけている。
泣いているし、顔を会わせると気まずいから別の場所に行こう。
私は公園から出ていこうとした。
「どうしたの?こんな時間に。帰らなくて大丈夫?」
やはり見つかったか。背後からかけられた声は、不思議そうだった。
「お母っさんを、傷つ、けちゃって。私、いない方が、お母、さんは幸せになれるのに」
言いながらまた悲しくなって涙が出てきた。私が言葉に詰まりながら答えると、男の子は困ったように頬を掻いた。
初対面の人に、こんなにも気分の悪くなる事を言ってしまう自分がとても恥ずかしかった。だけど、誰かに言わずにはいられなかった。
「ね、落ち着こう?」
男の子がブランコから降りると、私の肩に手をかけて誘導するようにベンチに座らせる。
「大丈夫だよ」
そう言って彼は私の頭を撫でてくれた。
手つきはとても優しくて、私が悲しくて仕方なかった時、悔しくて仕方なかった時、母親が慰めるように頭を撫でてくれた時と同じだった。
「う、うん」
まだグズグズと泣きながら、唇を噛み締めて私は泣き止もうと嵐のような悲しみを過ぎ去るのを待った。
「好きなだけ泣いていいよ」
その様子を察した彼は柔らかく微笑んだ。
お母さんと同じことを彼も言うんだ。
私が悲しい時、「泣き止め」なんて絶対に言わない母の事を思い出すとしばらく涙が止まらないような気がした。
私は出逢ったときからずっと泣いているのに、邪険な態度をとるわけでもなく、ずっと見守ってくれて彼はなんて優しいのだろう。
「何をしたの?」
彼は不思議そうに、涙でぐちゃぐちゃになった私の顔を見た。
もしかしたら、家出をするようなとてつもない悪さをしたと思ったのかもしれない。
「お母さんの手紙を読もうとしちゃって、怒られたの」
「そんな事をしたの?それは良くなかったかもね」
頭ごなしに怒らない彼に、言わないでいるつもりだった本音がポロリとでた。
「それでね。気がついたの、私はいない方がいいんだって」
彼は驚いてこちらを見て。顎に手を当てて考える素振りを見せる。もしかしたら、慰める言葉を考えているのかもしれない。
もし、そうならここまで気を使ってくれているのに、とても申し訳ないことだ。
「なんで君がいない方がいいってなるの?そう言われたの?」
「言われてないけど。きっとそう」
母親は私が居なければ父親と一緒に居られたかもしれないと思うと、寒くもないのに身体が震えた。本当は嫌われたくない。母親とずっと一緒に居たい。
「決めつけるのは良くないよ。嫌いなら、きっと君と一緒になんて居ないよ」
本当にそうなのだろうか?嫌々子供を育てる親だっているというのに。
自分の思い通りにならない子供を殺す親だっているのだ。
だけど、彼の言うことは私の母親をちゃんと見ているかのようだ。つまり、私はいつも母親の愛情をしっかりと感じていた。
だっていつも母親は私を大切にしてくれたのだから。でも、手紙のことで嫌われたりしないだろうかという不安はあった。
「そうかな?でも嫌われないかな?」
「そうだよ。大好きだから一緒に居るんだよ。君見てると大切にされてるんだなって思えるくらい素直なんだもん。そのくらいのことで嫌いになんてならないよ」
彼は苦笑い混じりに私の事を見ると。その通りのような気がした。
そして、ふと彼はどこの人だろうと私は思った。
「そうかな?ところであなたは?どこから来たの?」
「別に誰でもいいでしょ?あ、ねぇ、ほら、あそこに朝顔があるよ。白くて綺麗」
言いたくなさそうにフェンスを指差して。話を逸らす彼もきっと同じような理由で家から逃げたような気がする。
何か悪さをして途方に暮れながら公園に逃げてきたのだろう。
しかし、あれは朝顔ではない。
「あれ、夕顔だよ」
「え、朝顔じゃないの?」
冗談ではなかったらしく、彼は恥ずかしそうに聞き返した。
大人びた少しだけ年上のお兄さんでも、知らないことがあるんだなと思うとなぜかおかしくなった。
「うふふ、朝顔は朝に咲くんだから」
「ふーん。あ、やっと笑った」
「え?」
「笑ってる顔の方が君は似合ってるよ」
男の子はそれが狙いだったと言わんばかりにふふふと笑って見せる。
「えっ、何それ?」
歯の浮くような言葉を浴びせられて私は恥ずかしくなった。
「うわっ、顔が真っ赤。君って素直だね」
「何よ!」
からかい始める彼に少し腹を立てて文句を言うと。その表情が真剣なものにかわった。
「素直だから、お母さんにちゃんと謝りなよ」
「うん」
その表情はなぜか説得力があり、私は謝らないといけないと思った。
「君はお母さん大好きなんだね。大切にするんだよ。ずっと一緒に居られるわけではないんだから」
「うん。ちゃんと謝ってくる」
確かにその通りだ。いつか人はお別れがくる。私が大人になったときにギクシャクしたまま、母親と別れるのは嫌だ。
「そうしなよ」
「鳴海!どこにいるの?」
慌てたような母親の声が公園に響く。
「あ、お母さん。私、行かないと!」
「ほら、君の事が心配だから探しに来たんだよ」
男の子は、寂しげに微笑みながら私を元気付けるように背中を押した。
「うん。ありがとう」
「またね」
私が手を振ると、彼も同じように手を振りかえした。
「さようなら。もう、二度と会わないと思うけど」
彼は最後に夕顔のようにミステリアスな言葉を残した。
私達は不思議な出会いをして別れた。公園で出逢った彼はまたひょっこりと顔を出しそうな気が私はしていた。
ふと会いたくなって、あの公園に何度も行っても、その言葉の通り二度と現れなかった。
あれは、きっと初恋だったのかもしれない。夕顔のようなあの少年は、今もあの姿のまま私の心の中に居る。
それから、数年の月日が流れて、私は中学生になり。あの少年が話した通り。母親とずっと一緒に居られないという現実を噛み締める事になった。
「鳴海。今日も来たの?そんなに来なくても大丈夫なのに」
病床で気丈に微笑む。末期癌に侵された母親の身体からは、化学物質が混じったような死臭が漂っていた。
死はジワジワと母親を蝕みその臭いを強めた。
その臭いを嗅ぐたびに腹の底から不安と恐怖が渦巻き、胸が苦しくなる。
本当に「お願いだから死なないで」と母親に抱き付いて泣きじゃくりたかった。だけど、一番怖くて不安なのは彼女だと知っている私は、そんな事できなかった。
「うん。大丈夫」
母親を不安にさせないように無理に笑顔を作るが、引きつっていないだろうか?自分が不安なのを悟らせないように私はいつも必死だ。
「それならいいんだけど」
母親は私が幼かった頃の姿とは別人だ。痩せて一回りも小さくなり、血色の悪くなった顔を見るのはとても辛い。今、目を逸らすと絶対に後悔する事だとよくわかっていた。だからこそ、学校の合間に何度も病室に顔を出していた。
「ねぇ、私の事はいいのよ。学校の勉強は?」
「大丈夫。ちゃんとやってるから。ほら見て」
私は母親に心配させないためにテストの答案を見せる。
「まぁ、本当ね。自慢の娘。ありがとう。私の事なんていいんだから。なにかしてほしいことはある?」
母親が嬉しそうに微笑むと、胸が苦しくなる。私の願いは絶対に叶わない。だって、家に帰って今まで通りの生活をすることが一番の願いだから。
『ねぇ、お願いだから一人にしないで』
その言葉はとても言えずに胸の中にしまった。
かわりに『私は一人でも生きていける』それだけをずっと自分に言い聞かせていた。
「鳴海。大好きよ」
「私も。お母さん大好き。一緒だね」
思春期にこんな事を言われるのはとても擽ったいけれど、もしかしたら、二度と言ってもらえない言葉だとわかっていたから。私は「大好き」だと伝えた。
母親は照れくさそうに私の右手を握りしめてくれた。その力はとても弱々しくて、また悲しくなった。
程なくして、母親の癌は一気に広がり呆気なく亡くなった。
そして、最後の最後まで私の父親が誰かは教えてくれなかった。