第二幕:脱国への報い
◆私はカルマ。他人の不幸を覗き見して、それを赤の他人に公開する“親切”な悪魔。
不吉な予兆の次は……くっくっくっ……
どうやらこの男が住んでいた邸宅とは、ハーレムという名の監禁地獄だったようだ。
それは決して抜け出せない砂山。
もがけばもがくほど埋もれていく。
男は何も知らずに外界を目指して、上へ上へと登るだろう。
そして上り詰めた途端……
そこから一気に崩れだした砂に足元をすくわれ、敵の餌食となってしまう。
蟻地獄に埋もれていく蟻のように……ヒッヒッヒッ
――では続きをご覧に入れるとしよう――
会場を後にしたグレンは駐車場へ向かった。そこに自家用のメタリックパープルのワゴン車を停めてあった。片隅にあるそれに歩み寄ると、着ていたシャツジャケットのポケットからリモコンを取り出した。それを車のドアに向け、ロックを解除する。カタッと音がした後彼はそのドアの取っ手に手を伸ばし、その中に長身を滑り込ませた。
レンズがグレーのサングラスをかけ、地味な一般人に見える格好が完成した。羽織るシャツジャケットはダークグレー、中に着たカットソーは白、それに黒のカーゴパンツを合わせていた。しかし格好は地味でも、シルエットはモデル体型のままだ。かといってキャップを被ると怪しい気がしたので、それはやめておいた。
そこへふいにどこからか歌声が鳴り響いた。彼の携帯電話からだった。彼がそれを手に取るとメールが届いており、発信先を確認すると
“Melanie”
その名前の主――メラニーとは、彼とあの邸宅で戯れていた女性の中の一人だった。その後に続くメッセージを見て、彼の表情は凍り付いた。
“事故に遭わないように気を付けてね
ハーレムの天国で待ってるわ”
後ろめたさがあった彼は、よからぬ想像を膨らませた。それを断ち切るために携帯電話の電源をOFFにする。これでもうあの歌声(着信)に惑わされることはない――そう思い。
繁華街に出ると気分転換したくなった。途中にあったデパートの駐車場に車を停め、彼はそのデパートへ入店した。地味な格好とはいえ193cmの長身ともなれば、さすがに目立つ。彼はオーラが出ないよう、“目立たない物静かな一般人男性”――という設定で役作りをして歩き出した。背中は少し曲げて猫背気味にする。
時々利用するカフェに入った。
そこは落ち着いた雰囲気の店なので、大きな声を上げて騒ぎ立てるような連中もいない。彼は注文したベーグルとエスプレッソを受け取り、それが乗ったトレイを持ってなるべく目立たない端よりの席に落ち着いた。サングラスを外して食事したかったが、店内の若い女性客の一人が、気のせいかちらちらと見ているようなので、用心して外さなかった。やがて気まずくなってきた彼は、急ぎ気味にベーグルとコーヒーを喉に流し込み、席から腰を上げた。すると
「すみません!」
声がかかった。彼は顔を向けずに、サングラスの奥にある目をそちらに向けた。
先程ちらちらと見てきた女性だった。
「あの……グレン・シャノンさんですか?」
彼女は近寄って、彼のサングラスの奥に見える目を覗き込んだ。彼は顔を逸らす。
「いいえ、違います……」
「嘘? そのサングラス透け透けで見えてるし、顔そっくりなのにぃ〜」
「……」
彼はバツが悪くて渋面になり、踵を返した。
「あ、待って待って待って――! こっそり、これにサインちょうだい?」
そう言って彼女は慌ててバッグの中から手帳を取り出し、それを広げた。
「ここっ」ととびきりの笑顔で、ペンと一緒にそれを彼に向けて差し出す。
「違います」と言いたいグレンだったが、また断ると面倒なことが起きそうなので、素直にサインして彼女に渡した。
「わぁぁ〜最高!……」
その感嘆の声を背にグレンは足早に店を出て行った。
数十分後、彼の乗った車は繁華街を抜ける高速道路を走っていた。行き先はイリノイ州の田舎町。あの邸宅とは1300km以上も離れた場所だった。高速道路を抜け、やがて一般道路に入るとその住宅が並ぶ通りを進んで行く。目的地まであと数百メートル弱の地点までやって来た。彼が向かうのは最近見付けた中古の物件で、そこを新居にする予定だった。今日はその視察に来たのである。
その時、空から何かが舞い降りてきた。
「?」
それは空中をダンスをするようにひらひらと揺れていた。そして
「わっ!?」
フロントガラスの運転席側にペタッと張り付いた。彼は急いでワイパーを作動させて退けようとするがうまくいかず、仕方なくハザードランプを点滅させ、車を脇に寄せて停車した。
「!?」
車から降りると民家を囲む柵が目前だったのでひやっとした。次にフロントガラスに張り付いた物に手を伸ばすと
「あ……っ!」
指先に鋭い衝撃が走った。顔を引きつらせ、咄嗟に手を引っ込める。
「何だ……?」
どうやら張り付いていたのは、青くさらさらとしており、化学繊維の切れ端のようだった。今のはそこから発生した静電気らしい。彼は悪態をつき、そっと指で摘んでそれを剥すと
「B級ホラー映画か何かの演出みたいだな」と苦笑を漏らし、また車に乗り込んだ。
やがて目的地のすぐ付近までやって来た。角をまがるとその家に続く道が目に入る。門の手前に停車して車を降りると、その門を抜けて敷地に入った。玄関へと続く通路を進んで行くと、その脇には赤や黄色の花々を植えたレンガ作りの花壇があり、四件連なる家屋の窓からはブーケや鉢植えが飾られていた。この落ち着いた雰囲気とそこの居住者が老人や中高年だということが、ここを選んだ決めてとなっていた。来てみるとやはり気に入った。ほどよい静寂が心地良い。長い間女性に囲まれて暮していた彼が、それから解放された瞬間だった。
「おや……どなたかな?」
背後から声をかけられ振り向くと、白髪と金髪が混ざった薄毛で茶色いチェックのシャツにゆったりとした毛糸のニットを羽織った老人の姿があった。腰が僅かに曲がっており、いかにも老爺といった風体だった。そのひ弱そうな老爺を見たあと、グレンの表情は徐々に凍結していった。
「メラニー、何してるんだ……?」
老爺の背中にサバイバルナイフが突き付けられていたのである。そのナイフを握るのは先程のメールの送り主で、グレンとあの邸宅で戯れていた女性の中の一人だった。
「あなたこそ、こんな所で寄り道かしら?」
メラニーは冷静な声音とは裏腹に、煮えくり返るような憎悪を眼に宿してグレンを見据えていた。サバイバルナイフを握る手に力がこもり、わなわなと小刻みに震える。
――これは何かの演出か?
劇中であれば、主人公はそう嘲笑い、あざやかな技や発想で難を乗り切るだろう。彼は今までそういった役柄を華麗に演じてきた。
しかし、これは現実だった。彼は混乱のあまり、
「冗談だろ?」と苦笑する自分を想像するが、実際にそんな言葉など出なかった。まるで劇中より芝居くさい台詞を吐く。
「落ち着け。落ち着くんだメラニー……!?」
台本がないと彼はヒーローにはなれなかった。技もなければ知恵も働かない無力な庶民でしかなかった。こんな状況をどう対処すればよいのか分からない。ろくな効果も発揮しない言葉しか出てこなかった。
「さぁ、そのナイフを捨てるんだ。そう……そうだ。そのまま地面に……」
慎重に穏やかな口調で指示する彼に合わせてメラニーが動く。表情を強張らせながら、ゆっくりとナイフを握った手を徐々に下ろしていく。
「そう、それでいい……」
グレンは肝を冷やしながらその動きを見守った。
「それを地面に捨てて……」
メラニーがナイフを手から離し、それが地面に転がる。その後彼女は放心したようになり、ぎんぎんに目を見開いた。グレンは危険物を取り扱うかのように用心に用心を重ね、次の行動に備える。
「あぁ……!」
メラニーが嗚咽を漏らし、その口を掌で覆った。グレンは、今だとばかりに彼女に向かって両手を大きく広げる。
「メラニー、もう大丈夫だ。おいで?」
泣きながらメラニーがその腕の中へと翔けていく。
「?」
しかし彼女を受け止めたグレンの表情は凍結した。眼球はむき出しにしたように開ききり、身体は痙攣し始める。そして彼が探るように、手の位置を徐々に彼女の背中から自分の方へとずらしていくと
「……?」
生ぬるい物が手を濡らした。それに触れた彼の心拍数が上昇する。目だけを動かしそれを探ると、目線の下に何かが刺さっているのが見えた。彼の右腹部に突き刺さったもう“一本”のナイフ。それを握る手は赤く染まっていた。
「メラニー……何故……?」
すると彼女はニヤリとした。
だが彼を刺した時の反動で自身の手にも傷を負っていたため、その顔は徐々に引きつっていった。ナイフを濡らす血液はその血とグレンの腹部から出た血液と、どちらの物か分からなくなっている。
「……」
彼女の手が緩み、そのナイフからゆっくりと手が離される。そして彼女は地面に頽れた。
「ふふ……」
地面から上目遣いにグレンを見詰め、不気味に笑う。
「あ……っ」
グレンも力尽きたように頽れ、その身体が地面に近付いていく。膝と手を突き衝撃を和らげはしたものの、地面に身体の側面を強打して、間もなく気を失った。
「あっははは!――」
メラニーは気が触れたみたいに哄笑した――
が、突然ぷつりと何かが切れたように彼女もまた気を失った。
◆カルマだ。
女は怖い。甘く見ていると痛い目に遭うぞ。
おっと、刺された後だったな。くっくっくっ……
もっとも人間に私の声は聞こえないが……
イーーッヒッヒッヒッヒッヒッヒッ
ヒッヒッヒッヒッヒッヒッヒッヒッ
ヒッヒッ――――――――――――……!