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さらに数刻後……。
コールディング夫人を乗せた馬車が、予定より早く邸宅に戻ってきた。
アルヴァンが迎えに出てみると、馬車から現れた母の顔は意外にも憔悴していた。
怪訝に思っていると、御者が近づいてきて銀襴のベルトポーチを差し出した。
中からアピの小さな白い顔がのぞいている。
先ほどからエルフの交信がとだえていた理由は、夫人がアピを身体から離したためだったのだ。
「アルヴァン、残念だけれど」
と、彼女は疲れ切った声で言った。
「エルフを買い取ることはできないわ。持ち主の子に返していらっしゃい」
アルヴァンは驚いた。母は絶対に欲しがるだろうと思っていたのだ。
どんなに高くても買うだろうとすら思っていた。
「でも、お母様」
「とにかく返してちょうだい。わたくしにエルフは必要はないわ。というより……」
彼女はため息をついて息子をみつめ、両手をもみしぼった。
「それを持っていると、わたくし何ひとつ手につかないのよ。あなたのことが気になって気になって、しゃべり続けたくなってしまうの。そんなのは自分のためによくないし……何よりあなたのためによくないわ、アルヴァン。あなたがだめになってしまう」
助かった、というのがアルヴァン少年の心からの気持ちだった。
よかった、お母様のご英断だ。
ベルトポーチから出てきたアピが、アルヴァンの肩にすわっているピアの上でひらひらと舞い始める。
でも、この子たちを買い取ってもらえないとなると、ナジャがどんなにがっかりするだろう。
そうだ、お父様は? もしかしたらお父様のお仕事に役立つかもしれない。
「わかりました」
と、アルヴァンは言った。
「じゃあぼく、お父様のほうにお話してみますね。家で使わなくても外のお仕事で……」
そのとき、アピが向きを変えて再び夫人の方向に戻っていったのは、ただの偶然だったにちがいない。
エルフたちの波長が急に変化したのも、単なるきまぐれか退屈しのぎの好奇心、まさにそんなものだったのだろう。
アピの羽がぶるっとふるえ、虹色の光がその表面をよぎったとき、ピアの羽の上でもまた同じことがおきていた。
思わずアルヴァンが肩先を見やったとたん、エルフの口から母の声が飛び出した。
【アルバートがこれを持つですって? そんなことになったら、わたくし一日中あのかたに見張られてしまうじゃないの。とんでもない話だわ】
ついで、母の肩先にとまったエルフから、アルヴァンの声が飛び出した。
【お母様、お父様はそんなに暇じゃありません】
いまの声は、断じて相手に伝えようとした声ではない。
心に秘めておくはずのもの。誰にも聞かせてはならない声だ。
エルフたちがふわりと舞い上がり、自由きままに羽をひらめかせて飛び始めた。
母と子はしばらくみつめあっていた。
「さっさと返していらっしゃい」
と、威厳をみせて母が言った。
「はい、もちろん」
息子は即答した。
待ち合わせの場所に向かいながら、アルヴァンの足取りは重かった。
手にはエルフをおさめた鳥かごをぶらさげている。
ナジャがエルフたちを売る気になったのは、見世物小屋が衛兵の摘発を受けたからだという話だった。
けっこうあくどい商売をしていたので、しかたないといえばしかたないのだが、家族全員がそこに雇われていたため、一家そろって路頭に迷ってしまった。
いま両親は住み込みの職を求めてあちこち回っているが、自分も長男としていくらかでも稼ぎたい。
たとえエルフを手放してでも。
だって妹なんか、最近ゴミあさりして食べ物探しててさ。あんまりみつけられないようだけど。
そんなナジャの言葉を思い出し、アルヴァンは自分の無力さがふがいなかった。
仮にも婚約者候補のひとりだというのに、困っている小さい子の手助けもしてあげられないなんて。
ゴミあさりなんかしていたら、きっとそのうち病気になってしまう。
ずいぶんやせていたから、もうすでに病気なのかもしれない。
石畳を敷きつめたおもて通りを歩いていると、ときおり大人たちに混じって、まだ幼い行商人たちが行き過ぎた。
働いて稼いでるんだ……。
頭の上の平たいかごに、花をいっぱい入れて運んでいる花売り娘は楽しそうだったが、アルヴァンは彼女を複雑な思いで眺めた。
待ち合わせまでけっこう時間があるし、自分もああやってエルフを売って歩いたほうがいいのだろうか。
迷いながら角を曲がると、前から来た少年とばったり顔を合わせた。
浅黒い肌の少年はびっくりしたようにアルヴァンをみつめ、ついで鳥かごを見て失望のため息をもらした。
「だめだったんだ。おいら期待してたのに……」
「ごめんよ」
アルヴァンはあやまった。
「気に入ってもらえなかったの?」
「うん……でもね、しかたないんだよ。だって心の声まで聞こえちゃうんだもの。会話ができるだけだと思ってたのに」
「え?」
少年は驚いたように目をみはり、かごの中のエルフたちを見下ろして唸った。
「なんだ、調教不足かあ……それじゃ、しかたないや。返してよ」
鳥かごをさげているアルヴァンの右手に向かって、少年の手が伸びてきた。
指が触れそうになったので反射的に右手をひくと、ナジャは両手で鳥かごをはさんで自分のほうに引き寄せた。
「あーあ、妹にお土産でも買って帰れるかと思ったのになあ」
アルヴァンは家のお菓子を持ってこなかったことを後悔した。甘いパイが残っていたのに。
いまからでも取りに戻ろうかと思ったとき、もっと喜んでもらえそうな場所があることを思い出した。
「そうだ」
声をあげてナジャを見る。
「ねえ、プラムは好き? おいしいプラムがいっぱいとれるとこに連れていってあげる。好きなだけとっていいから、妹さんに持って行ってあげてよ」