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「声に出さない自分の言葉を、エルフが相手まで運んでくれるんです」
数刻後。アルヴァンは邸宅の居間で一生懸命説明していた。
邸宅は都に来たとき滞在するためのコールディング家の持ち家で、いま説明している相手はコールディング侯爵夫人だった。
とりあえず聞いてくれてはいたものの、侯爵夫人の反応は薄かった。
夫人の関心事は、貴族の奥方たちとの茶話会につけていくショールをどれにすべきかということに絞られていた。
「悪いけれどアルヴァン、さっぱり意味がわからないわ」
全体にビーズを散らしたものがいいか、縁取りだけのほうが都らしくて垢抜けているか。
二枚を手にして迷いながら夫人は息子に言った。
「えっとつまり……実際にしゃべらなくても、伝えたいと思った言葉が相手に伝わるっていうことで……」
「わたくしたちはみんな、立派な口を持っているのよ」
息子が忘れているようなので、母はそれを思い出させた。
「なぜ、わざわざエルフに伝えてもらわなければいけないのかしら。しかも気に入ったら買い取ってほしいだなんて。いくら貧しい兄妹に同情したといっても、軽はずみに預かってくるなんて感心しないわ」
そう、たしかに同情した。
自分と同じような年頃の男の子が、妹を抱えてお金に困っている。食べるものにも飢えている。
できることなら、なんとか力をかしてあげたい。
アルヴァンは自分自身がエルフを欲しいわけではなかったが、大人に訴えることで都合がつくなら、できるだけやってみようと思っていた。
「でもね、お母様。近くにいれば自分の口で言えるけど、遠くにいる人とはおしゃべりできないでしょ? エルフは離れた場所にいる人とでも会話できるようにしてくれるんです。すごく便利だと思って……お母様のお役にも立つんじゃないかと」
たとえば、母がいまから出向く茶話会の場所からでも、家で留守番している息子に向かって声をかけることができる。
茶話会が長引いたときなどにいちいち伝令を頼まなくても、帰宅の遅れを知らせることができる。
貴族の奥方たちとの会合があまりに盛り上がったため、うっかり帰宅を忘れそうになった過去のある母は、若干心を動かしたようだった。
だがそんな調子のいい芸当をエルフがするわけないと思うのは、良識ある大人としてしごく当然でもあった。
「ばかばかしいことを言うものじゃありません」
夫人は大人にふさわしい態度を見せて、子どもをたしなめた。
ところが、これがばかばかしくないのである。
最初はばかみたいだと笑ってしまったアルヴァンも、ナジャ──少年の名はやはり異国風だった──の言うとおりにためしてみて、事実と確認したのだから。
まず自分の掌にのせたエルフに自己紹介して、持ち主が自分なのだということをエルフに納得してもらう。
声を伝えたい相手には、もうひとりのエルフを持ってもらう。
つまりエルフはふたり必要で、ひとりだけでは伝言できない。
それと肝心なのはね、と、ナジャは根気強く説明した。持ち主とエルフの身体が、うんと近づいていることなんだ。
肌に触れているのがいちばんいいけど、直接じゃなくて服の上からでもいい。身体にくっつけて持っていればポーチの中でもいい。
とにかくお互いができるだけ密着していること。
じゃあ、いまからやってみるよ。
おいらがあんたに呼びかけるから、聞こえるかどうかたしかめてみて。
言うなりナジャは駆け出して、路地の角を曲がり見えなくなってしまった。
小さな妹がそれを追いかけ、あたふたと走り去っていく。
鶏がらみたいに細いその背中を、アルヴァンは突っ立ったまま見送っていたが、直後に腰が抜けるほどの驚きがやってきた。
ナジャの声が、鼻先と感じるくらい近くで響いたのだ。
【おーい、聞こえる?】
声を発しているのは、掌の上にすわっているエルフだった。
どう見てもそうとしか思えない。
エルフの口が動くたびに、少年の声がたしかにそこから飛び出してくるのだから。
【返事してよ。あ、声出さなくてもいいよ。伝えたいと思えばちゃんと届くから】
「き……きこえ」
思わず声に出したあと、アルヴァンは心の中だけで答えた。
【聞こえるよ、ほんとに聞こえる。ぼくの声も届いてるの?】
【もちろんだよ。ね、面白いだろ? だから買ってよ】
【で、でもあの、ぼくお金持ってなくて。さっき使っちゃったから】
【あ、そうなんだ……じゃあうちに帰って親に頼んでよ。エルフもつれてっていいからさ。大人だってきっと欲しがると思うんだ】
その言葉どおり──。
エルフの口から息子の声を聞き取り、驚くべき伝達能力を確認したコールディング夫人は、ばかばかしいという意見をとりあえず撤回した。
人目につかないよう銀襴のベルトポーチにエルフをひそませ、そそくさと送迎馬車に乗り込んでいく。
ただし。買い取るかどうかは実際に使ってみてからよ。
そう言い置くのはもちろん忘れなかった。
そういうわけで、午後のひとときをアルヴァンはエルフといっしょに過ごした。
といっても遊んでいたわけではなく、机の上の算盤で取り組んでいたのは計算問題の数々である。
今回、都を訪れたのは姫君の誕生日を祝うためだったが、王都の大学生たちから教えてもらう勉強も、大事な日程のひとつになっていた。
優秀な学生たちの話を聞く貴重な機会だったのだ。
ただそれもきのうまでのことで、今日は一日好きなことをしてもいいという両親からのお許しが出ていた。
だから散策を楽しんだのだが、自主的に学習しようと思うところが、アルヴァン少年の志と熱意の現れだった。
レントリアの貴族の息子にふさわしい、立派な大人になりたい。この国のため人々のため、きちんと役立つ立派な大人に。
だから……エルフにみとれて、ぼうっとしてちゃだめなんだ。
アルヴァンは算盤に集中しようとしたが、どうにも気が散ってちっとも解答にたどりつかなかった。
なにしろエルフが腕にとまって、じっとこちらを見上げているのだから。
鳥かごにいれておければいいのだが、密着しなければいけないらしいので、こうしてしかたなくとまらせている。
しかし、気になる。いつ、この口が開いて母の声が飛び出してくるのかと思うと、色のうすい唇ばかりをみつめてしまう。
エルフは嘘のようなおとなしさで、腕に腰をおろし続けていた。
アルヴァンはなんだか居心地が悪くなり、話しかけてみた。
「アピ、お母様はまだ何もおっしゃっていない?」
エルフは無反応だ。あれ? この子はアピじゃなかったっけ。
「ピア?」
言い直すと、相手はわずかにうなずいた。
ナジャによれば、彼はこのエルフの能力を妹といっしょに偶然発見したらしい。
森でエルフの群れを相手にしゃべりかけたり遊んだりしていたとき、自分の声が自分の口以外の場所から響いてきて仰天したそうだ。
兄妹にくっついて街まで出てきたピアとアピに、ほかの人の身体にもさわれるのかとたずねたところ、意外にも素直にやってみせてくれた。
そこで兄妹はふたりを仕込み、見世物小屋で芸として披露することにした。
客のひとりにアピを持たせて、舞台の端に立ってもらう。ピアを持ったナジャのほうは反対側の端に立つ。
アピの口からナジャの声が、ピアの口から客の声が聞こえてくれば大成功。
客は驚き拍手喝采、銅貨もたんまり。
エルフを見世物に……その話を聞いたとき、アルヴァンはあきれると同時にわけのわからない抵抗感を覚えた。
見世物小屋自体が違法すれすれだし、そんなところでお金をたんまり、などと言われても感心できるわけがない。
それに理屈ではないのだが、妖精のような魔性の存在は、人間が好き勝手に使ってはいけない気がする。
というより、多分、好き勝手には使えないのだ。
ナジャは「仕込んだ」と表現したが、エルフたちが言うとおりにしてくれたのは、仕込まれたからではなく単に彼を気に入ったからではないのか。
あるいは単なるきまぐれか、退屈しのぎの好奇心。
いずれにしても、思い通りに操れる存在だとは思えない。
アルヴァンは、目の前にいる従順そうなエルフをじっとみつめた。
真っ白な肌も長い髪もたしかにきれいだけれど、瑠璃色の瞳は完全な無表情で、よく見ると白目の部分がほとんどないに等しい。
小さいからいいようなものの、これがもし人間並みの大きさだったらけっこうこわいかもしれない。
エルフの血の色は目の色と同じだと言われているけど、ほんとかな。
アピの目は深緑だった気がするけど、たしかめた人がいるのかな。
真剣に考え込んでいるとき、突然ピアが口を開いた。
【アルヴァン、いま何をしているの? もしかしてお勉強かしら】
アルヴァンは椅子から転げ落ちそうになった。思わず背筋を伸ばして叫ぶ。
「はいっ! もちろん!」
【まあ、感心ね。安心したわ、がんばりなさいね】
ピアは口を閉じ、コールディング夫人の声は途切れた。
息子は胸をどきどきさせながら、しばらく次の言葉を待っていた。
どうやらこれでおわりらしい。ああ、びっくりした。
とりあえず、母は忘れずに使用を試みてくれたようだ。
驚いたと同時に安心もしたので、アルヴァンは勉強に心を戻すことにした。
ええと、次は割り算だっけ。苦手だなあ。でも何問か続けて解くと、こつがつかめてくる気がする。
ところが。つかんだと思ったこつは、二回目の呼びかけで簡単に吹っ飛んだ。
【アルヴァン、なんのお勉強をしているの? 歴史なら王族の家系図をおさらいしないといけないわね。この間いくつか抜かして答えていたようだから】
「い、いまは算術です、お母様」
またもあせって答えると、母の声は残念そうな響きを帯びた。
【あら、わたくし算術はあんまり……家系図なら教えてあげられるのだけれど】
「お母様、お茶会は?」
【ちょっとお部屋の外に出ているの。ねえアルヴァン、傍系のほうまでしっかり覚えなくてはだめよ。いずれあなたの親戚になるかたがたなのだから】
「ま、まだ決まったわけじゃありません」
【そうだったわね】
声が途切れ、息子はまたもしばらくピアの口元を凝視していた。
コールディング家はレントリア有数の名門である上に、リデルライナ姫と年頃の釣りあう跡取り息子──アルヴァンだ──に恵まれていた。
それで名誉にも、姫の婚約者候補として白羽の矢が立っているのである。
白羽の矢は三本ほどあり、ただいまそれぞれの家が息子の教育に必死になっていた。
だがたしかなのは、もしアルヴァンが婚約者に選ばれなかったとしても、将来、国政に関わる地位につく可能性は大変高いということだった。
つまり、役に立つ大人になりたいと願うアルヴァン少年の熱い志には、本人が思う以上に現実的な意味があった。
けして子どもの夢物語ではなかったのだ。
それはともかく、コールディング夫人の志もまた息子に負けてはいなかった。
彼女はその後も、大事な息子と交信することに力を注ぎ続けた。
【算術は進んでいて?】
【もうそろそろおわったかしら?】
【ときどき休憩することも必要よ】
【甘いパイがあるからあとで食べなさい】
こ、これは……! アルヴァンは青くなった。
もしかして大変なものを母に渡してしまったのではなかろうか。
【聞いて、アルヴァン。ターナー伯爵夫人が、候補者三名の中でいちばんお姫様にふさわしいのはあなたにちがいないと言ってくださったの】
「うれしいお言葉ですけど、ほかのかたがたもすばらしいから……」
【なんて謙虚なんでしょう。伯爵夫人も感心なさっているわ】
「え?」
【いま、皆さまそばにいらっしゃるのよ。おしゃべりするエルフなんてはじめてだと、とても喜んでくださって】
母がエルフを見世物に……しかも自分の声まで筒抜け。
頭がくらくらしたアルヴァンは、腕のエルフをあやうく投げ捨てるところだった。
捨てなかったのは、まだ借り物だったからだ。
親が気に入ってくれたら買い取ってほしい。だめならしかたないから返して。
三時の鐘が鳴る時刻に、会った場所で待ち合わせしよう。
ナジャはそんなふうに言っていた。
でも、こんなものをお母様がいつも持っていたら、ぼくの生活はいったい……。
いやいや、ナジャのためには買い取ってあげたほうがいいんだ。おなかをすかせた妹だっているんだし。
ぼくがちょっと我慢さえしていれば……。
悶々としているうちに、ふと生理的な欲求が高まってきた。
エルフと離れる口実としてはうってつけだ。
いくらなんでも個室にまでピアをつれていかなくてもいいだろう、いいはずだ。ピアだって嫌がるに決まっているし。
「お母様、ぼくちょっと」
そこでアルヴァンは、エルフをそっとつかんで机の上においた。
それから個室に行くため部屋の外に出たが、出るなり通路に集まっていた女中たちと鉢合わせした。
みんな、あいまいな顔つきで笑っている。
ちなみにアルヴァンは、心の中だけでなく思い切り声を出しながら会話をしていた。
人というのは、思っていることと実際に伝えることとを、発声するかしないかで区別しているものなのだ。
黙ったまま会話するなんて至難の業なのである。
だから自然に大声を出していたわけなのだが、女中たちから見れば、ひとりしかいない部屋の中でしゃべっているあやしい少年ということに……。
婚約者候補の評判、大丈夫かな?
アルヴァンは個室で疲れをいやしつつ、必要以上に時間をとって考えた。
それからしぶしぶ部屋に戻り、何問か割り算を解いて気を取り直したのち、ようやくエルフをつまんで腕の上にのせた。
のせたとたん、エルフの口が大きく開いた。
【アルヴァン! このエルフこわれちゃったみたいよ、全然しゃべらないの】
「え? えっと」
【もしかしてわたくしに反抗しているのかしら。あら? それとも、まさかあなたがわたくしの声を無視しているの? そうなの?】
「あ、あ、あの」
かん高い母の声が響きわたった。
【はっきりお答えなさい、アルヴァン!】
アルヴァンは腕を大きく振り回した。
ピアは両手で彼の袖をつかみ、飛ばされないよう必死でがんばっていた。