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正式名称はパステナーシュ。
石造りの高いアーチが美しい市門には、紋章とともにその名が刻印されているし、市壁にも一定間隔で飾り文字が彫り込まれて、人々の目をひいている。
それでも、その長い名前で王都を呼ぶ者はあまりいない。
都、と口にすれば、思い浮かべる場所はただひとつだ。
小国ながら豊かで平和な治世が続くレントリアの中心地として、都は気品と優美さをたたえ、女王陛下のお人柄を映し出すにふさわしい場所だった。
おごそかで格調高くありながら、けして華美ではなく冷たくもない。
洗練された美とそこで暮らす人々の営みとが、ごく自然に寄り添い共存している街。
たとえば中央広場の清潔さと、そこを行き交う人々の活気や熱気。
広場に面した大聖堂の荘厳さと、誰にでも門戸を開く親近感にあふれた姿勢。
街角のところどころに立つ衛兵の目は毅然としてきびしいが、反感を呼ぶものではなく、それが秩序を守るために必要不可欠な眼差しであることを、子どもたちにさえ納得させている。
こういう調和のしかたをなんとかして真似できればいいんだけど……と、衛兵に礼儀正しくお辞儀しながら、いつものようにアルヴァンは考えた。
アルヴァンが生まれたのは、ここから荘園を四つほどはさんだ場所にある城だ。
彼は生まれ育った土地を愛していたが、ふだんはすてきだと思っている地元の城下町を、都に来たとたん急に色あせたもののように感じてしまうのが残念だった。
こうして家並みひとつをとってみても──アルヴァンは石畳の大通りにつらなる家々を眺めた。
どの家も切妻屋根でそろえているのは地元と同じだが、破風を飾る装飾の繊細さは大違いだ。
はめこまれた陶製のタイルは大きさをあわせてあるばかりでなく、よく見ると隣家同士が意匠をつらなりあわせてできている。
葉のもようを描いたタイルがはまる家の次には、蕾のもようのタイルの家。次は三分咲き、五分咲き。
満開、そして散っていく花びらに紅葉する葉、葉をおとした枝々……。
色合いも、絵にあわせて少しづつ移り変わっていく。
地元なら、お城の壁を飾ってもおかしくないような気のきいた装飾が、都ではあたりまえのように民家にあるのだ。
「あのタイル、とってもきれいですね」
アルヴァンは少年らしい人なつこさで、衛兵に話しかけてみた。
こわい顔つきの衛兵は、予想通りにっこり笑って答えてくれた。
「大きくなったら、おぼっちゃまもお城にいらっしゃるのでしょう? そうしたらいつでもご覧になれますよ」
「そうできたらいいんだけど」
アルヴァンは生真面目に答えた。
父である侯爵は王家とも親しい間柄の大領主で、跡取り息子をともない、しばしば都を訪れることを心がけていた。
そのたびにあちこちで息子を紹介してまわるので、衛兵にとって、もはやアルヴァンは顔なじみの子どもなのだ。
もちろん、いま衛兵が言ったお城というのは郷里の城のことではない。
アルヴァンは家並みから目をはなし、さらに遠方を振り仰いだ。
なだらかな丘の上に建つ王城。
陽をあびて輝く外壁、いくつもの高い塔、ひるがえる国旗。
女王陛下がおすまいになるレントリア城の誇らしい姿は、都のどこにいても眺められない場所はなく、人々の心の支えとなっている。
衛兵にもう一度会釈して歩き出しながら、アルヴァンは再び考えた。
やっぱり最大の違いは、あのお城だよね。女王陛下や殿下たちがいらっしゃる場所のお膝元なんだもの。 それにふさわしい街を作ろうとし、そこで暮らすのに恥ずかしくない住人であろうとするのは当然だ。
誰に命じられなくても、すべて自然に質が高くなっていくものなんだ。
そろそろ邸宅に戻らなければと思ったとき、街角から優雅な合奏が聞こえはじめた。
音楽好きのアルヴァンとしては聞き逃すわけにはいかず、あわてて吟遊詩人たちの近くの場所を確保した。
歌い手がひとりにリュートがひとり、弦を弓で弾きならすフィドルにバグパイプまでそろった豪華さだ。
たとえ単なる街角だったとしても、王都で下手な演奏を聴くことはめったにない。
城近くの街区では特に、まるで審査でもあるかのように腕前のたしかな者たちだけが集まってくる。
楽器にあわせて流れ出したのは、アルヴァンの耳にもよくなじんだ歌だった。
前半でアデライーダ女王陛下とエルランス殿下の治世をたたえ、後半で三人のお姫様のすこやかさを祝福するその歌は、庶民にも貴族にも親しまれてアルヴァンもお気に入りだった。
今年で五歳になられたリデルライナ様と、四歳になられたセレスティーナ様。
小さなエセルシータ様は、二歳の誕生日を先日迎えられたばかり。
誕生祝いの宴で、王城に招かれた賓客のうちのひとりだったアルヴァンは、姫君たちの愛らしい姿や声を思い出してほほえんだ。
同時にこう思わずにはいられなかった。
いつかぼくの名前も、こんなふうに歌ってもらえるようになるのかな……?
けれど、ちらりと頭をかすめた考えは、次の歌の陽気な旋律にかき消されて、あっというまに消えてしまった。
数曲を堪能したあと、彼はまわってきた帽子の中にとっておきの銀貨をいれた。
名残惜しく思いながらも、人垣を抜けて帰宅を急ぐことにする。
軽い散策のつもりだったのに、予想以上に時間をかけてしまった。
早歩きになった彼は、近道をしようとしてふだんは入らない狭い路地を曲がった。
そのとき、ふいに後ろから声をかけられた。
「ねえ、これ買わない? 安くしとくよ」
異国風のなまりがある子どもの声だ。
振り向くと、浅黒い肌の少年が鳥かごをかかげながら寄ってくる。
濃い色の髪は、波打つというよりちぢれているという言い方のほうが合いそうだった。
その後ろには、同じような外見の幼い女の子がくっついていたが、ふたりとも一目で貧しいとわかる古ぼけた身なりをしていた。
まずかったかな、とアルヴァンは思った。
子どもにしては高額すぎる銀貨を入れたところを見られたのかもしれない。立ち止まらなきゃよかった。
アルヴァンはもう十歳だったので、いくらレントリアが豊かな国だといっても、そこに貧しく恵まれない者たちがいることをちゃんと知っていた。
たとえ都であったとしても、いろいろな階層の人々が暮らしていることも知っていた。
それに、父親が常日頃言っている言葉も覚えていた。
街というのは、物乞いや異国の旅人たちを拒否せずに受け入れるくらいの自由さがなければ、停滞してしまうものなのだ。
だから貧しい子どもたちに驚いたわけではないのだが、さすがに自分の外見を彼らと比較すると気がひけた。
仕立てのいい服は新品だったし、それを着ている身体は栄養が行き渡り、いささか育ち過ぎなくらい育っている。
少しぽっちゃりした頬はバラ色で、誰が見ても貴族の息子であることが一目瞭然にちがいない。
急に心細くなった。こんな狭い路地じゃ助けも呼べない。
無視して歩き出そうとすると、少年は一段と近づき、鳥かごを目の前に突き出してきた。
思わず中を見たアルヴァンは、今度こそしっかり足を止めた。
かごの中にいるのは鳥ではなかった。
妖精だ。かげろうのような二対の羽、腰よりもさらに長い白金の髪、ひらひらと淡い薄衣。
かごの底にすわってこちらをみつめかえしている、エルフがふたり。
エルフを飼っているなんて……。
驚きのあまり持ち主のほうを見ると、少年は得意そうに胸をそらしてみせた。
「きれいだろ?」
さらに驚いたことに、彼はかごを開けるとエルフたちを外に出した。
エルフたちは逃げもせず、透きとおった羽をひらめかせながら少年の肩にとまる。
エルフが人に慣れている? そんな話、聞いたこともない。
妖精を見たのははじめてではなかった。郷里の森でも、出会ったことがないわけではない。
レントリアは魔物の討伐に力を注ぐ国だったが、エルフやコボルトなど小さな魔性の生き物については、自然に対象からはずれていた。
人畜無害がわかっているので、たとえば珍しい蝶などと同じような扱いになっている。
ただ、蝶は人にとまることもあるが、エルフはたとえそばにきても決して触れてこないものだと思っていた。
少年は触れるどころかエルフのひとりを軽くつかむと、アルヴァンに向けて差し出した。
両手で受けとめてみると、エルフは掌の上にちょこんとすわって静かにアルヴァンを見上げた。
「わあ……」
アルヴァンは声をあげた。
「よくなつかせたね。きみのエルフなの?」
「その子、アピだよ。こっちはピア」
ピアとアピ。名前があるんだ……それすらも意外だった。
はじめまして、ぼく、アルヴァン。よろしくね。
声に出さずに言ったのに、エルフはまるで聞こえているかのような間合いでうなずいた。
「ねえ、買ってくれない?」
少年が再び言った。
いくらなの、と思わずたずねかえすと、500パシュという答えが返ってきた。
「500?」
アルヴァンは驚いた。どこが安いんだ。上等な毛皮でも買えそうな値段ではないか。
「なんでそんなに高いのさ」
「高すぎるかな」
少年が心もとなそうな顔をする。
深く考えて値をつけたわけではなく、単にふっかけただけだったらしい。
「でもエルフにさわれるんだよ? しかもたださわれるだけじゃない。芸もできるんだよ」
「芸?」
すると少年は、大事な秘密を打ち明けるように顔を近づけてささやいた。
「声に出さない自分の言葉を、エルフが相手まで運んでくれるんだ」