9.真っ白
闇に沈むザクシロアの空は、昼も夜もない。
作り物らしく一定に揃えられた瞬く灯火は、地上の星空を単純に模したもの。
その合間を縫うように何かが動くのを、気配に聡い者ならば気づけたろうか。
それは、一体のドラゴンだった。
寒空に溶けきれずわずかに姿が視認できるのは、どうやら鱗が黒一色ではないからだろう。
よく見れば、頭の上には小さな弱々しい赤ん坊もいる。
その組み合わせもだが、どちらもが、ザクシロアでは目をひく存在で──半端な者は、この地には珍しい。
〈見えるかグラノアよ…ここがお前の住む世界だ…〉
寒空でそう語りかけるのは、渋みの入った鱗を持つダークドラゴンのアグロィである。
今は先の襲撃された時のような鋭い滑空ではない。まるで散歩でもしているかのように、ゆるゆると空を漂う。
〈…ここは、たしかに…お前には生き難い世界かも知れぬな…。だが、案ずることはない。お前が生きる努力を、怠らなければ良いのだ…〉
腹に響く、ともすれば頷いてしまいそうな力のある低い声。しかし、どこか懇願も混じっていて。
…それでも、グラノアは動かない。
〈お前には、その程度の努力も難しいことはあるまい?…私も力を貸そう。ラミレア様もだ…〉
だから──だから、どうか。…絶望してくれるな。…あきらめてくれるな。
身じろぎもしない頭上の気配に、アグロィは、赤い瞳を細めた。
ぎゅう、と大きな手で拳を握る。
私はまだ、お前と…こうして共に生きたいのだ…。
アグロィにとって、初めて持った執着はグラノアだった。
命令ではなく、初めて自ら進んで戦う選択をしたのは、グラノアのため。
救いのない暗い世界で、アグロィは自分の生きる意味を、初めて見つけたのだ。
必ず、守る──お前は、私か守るべきものだ。
ふと、嘲笑が漏れた。
大丈夫だと。守るのだと。
震える幼子に言って聞かせたはずが、約束を破ったのは、自分ではないか。
スイと頭を下げると、アグロィは溜めの姿勢をとる。
〈灼熱の吐息!〉
ブアァンァァーーーァァア!!
〈暴風刃嵐!〉
ズシャアァァァアーーー!
何もない暗い空で、突如、ブレスを吐き、マギアを放つ。
風が渦巻き空気は裂かれ、天を焼き火の粉が舞う……
その光景は、見える敵はおらずとも緊迫した空気をはらみ、何事かと見上げた者達は、震えながら蜘蛛の子のように散るのだった。
◇
…話は、二時間ほどさかのぼる。
「ただ今戻りました、ラミレア様」
「アグロィか…待ちかねておったぞ…」
黒い絨毯の走る広間の中央に座するは、偉大なるロルド・ラミレア。
謁見の間には側近などおらず、その身が歩く要塞のようなダークドラゴンは、何事も単身で過ごすのが普通だ。
広い部屋に一人きりで俯いたラミレアの顔には陰がかかり、アグロィから表情が見えない。
だが…。
アグロィは静かに身構えた。
何故かその背後に、赤い炎と「悶々」という文字がおどろおどろしく踊って見える。
…ふむ。意を決するか…。
密かに息を吐き、腹に力を込め…単純な問いを口に乗せた。
ここ数日の気がかりであり、そしてラミレアが聞いて欲しそうな素振りでいる、それを。
「…グラノアは、いまだに?」
…ピクリ
微かに震えたかと思うと、ラミレアはゆらり立ち上がる。
「………そうなのじゃ……。散々心配させおって…グラノアめがぁぁ──ァグゥウオオオォォオオオオ──ウゥゥ!!!」
突如、広間に響き渡る──ドラゴンの咆哮。
深紅の瞳孔から光を放ち、腹の底から絞り出されたそれは、暴風を巻き起こした。空気は魔力を帯びて波立ち、超音波となって壁を削る。
────ついに怒りを爆発させた。
不安や心配を通り越すと、ダークドラゴンは本性に忠実になるようで──
─心配?…ラミレア様は、そうおっしゃられたか!?
爆発とも言える嵐の中心で、アグロィは息を飲む。
冷徹非道の暴君主であるラミレア様が。
いかに血を分けた我が子とはいえ、見るからに弱いグラノアを、心配しただと?
ジャキ!
──シュラッ
唐突に鋭い爪を伸ばしたラミレアに対し、アグロィも素早く剣を抜く。
「遅かったではないかぁ──っ!なぜ側にいなかったのじゃアグロィ!!──妾がっ!!!──どんなにっっ!!!──……どんな思いでぇぇええっっっ!!!!」
「──っ…申し訳ございませぬ…!」
鋭く飛びかかるラミレアを、アグロィは半歩身を退きかわす。
交差の瞬間、怒濤の早さで爪と大剣が打ち交わされた。
はた目にはただ、高い金属音を鳴らしながらすれ違っているようにしか見えない。剣撃音は、実に38回。
クルリと身を回転させ軽やかに着地すると、ラミレアはその足で床を蹴り、さらに飛び込んで来た。
「聞こえぬわっ!グラノアがっ、そなたがいない間にぃいっ!!」
「っくぅ!?グラノアが、──っつ!…どうかされたのです、かなっ!?」
キュイン──ッ、ガキンッ!!…キンッ!!!
派手に飛び回り力いっぱい腕を振るうラミレア。激しい打ち合いにも関わらず、アグロィはその場から動かず防戦一方である。
当然であろう。
ラミレアは由緒正しい王家の血族であり、ロルドなのだ。
例え伴侶たるゴイスとはいえ、アグロィは格下であり、ただの兵。
逃げるのは容易いが、それも不敬にあたるというから話は厳しい。
主に刃を向けるなど言語道断ではあるが、この場合、弾くくらいは許されるだろう。
何しろラミレアの爪は、ドラゴンなど容易く切り裂く。
「グラノアの……目がっ!!」
「…目が?」
ザザッ
突然、ラミレアは動きを止めた。
はぁふぅはぁふぅ…
互いに見合ったまま、ひとまず呼吸を整えあい。
「…薬師を呼んだのじゃ…」
「……結果は、芳しくなかった…と?」
ぽつりとこぼしたラミレアの様子に、アグロィは察した。
グラノアは、目覚めない。薬師に見せたが、きっと原因はわからなかったのだ…と。
思わず、苦い顔をする。
「……フン。相変わらず話が早い…そなたも来るが良い」
「…畏まりました」
シュルンと爪を納めたラミレアを見て、アグロィも腰に履いた鞘に大剣を仕舞った。
ラミレアは、否定も肯定もしなかった──どういう意味だろうか。
アグロィは静かに目を細めたまま、広間を後にした──。
「………っ」
見てアグロィは、立ち尽くした。
ラミレアは、静かに腕を組む。
ラミレアの部屋まで移動すれば、ベッドの上には赤子の姿。出かける前となんら変わりはないその光景。
アグロィはすやすやと愛らしく穏やかな寝顔に、ホッと息を吐いた。
先のラミレアの話で容態は重くなっていると想像しただけに、やや気が抜けてしまったようだ。
だが。
ラミレアがその顔に手を伸ばし、何気なくその先を見やって…文字通り、頭の中が真っ白になってしまったのだ。
「………………薬師は、なんと…?」
「治す手段はない、と言っておる…」
治らない──?
聞いてもなお、意味が頭に入って来ない。
「…生まれて間もない内に強い光を見ると、こうなるそうじゃ」
「────な…、まさか………」
「………」
愕然と見開かれたアグロィの目には、目の前のラミレアの姿はおろか、グラノアでさえ映っていない。
かわりに浮かんでいたのは、あの日の惨状だ。
襲撃された夜──グラノアに向かっていくつも放たれた、強大な魔法と激しい爆発、凄まじい閃光。
あるいは、頭上という至近距離から見たであろう、自分が吐き闇を焦がしたあのブレスか───。
そのどれもが、目も眩む鋭く強い光ばかりだった。
闇での生活に特化した幼い瞳を焼ききってしまうには、十分の威力だったのだろう。
息をのんで動けないアグロィの様子に、ラミレアは険しい表情のまま目を瞑った。
彼に心当たりがあるというのなら、そういうことなのだろう。ラミレア自身、グラノアの前で強烈なブレスを吐いているのだ。
この際、どちらが原因だったかなど意味のない話は必要ない。
グラノアの、大きくて、顔以上に表情を映す、あの深紅の瞳は。
ラミレア譲りの美しい瞳は、もはや見る影もなかった。
それは、透明なラインで縁取られた、無機質で真っ白なものに変わり果てていたのである──。
「…だが、目覚めさせる手立ては、お主が知っておると聞いたのじゃが…」
「…………───それは、どういう?」
グラノアを目覚めさせる──。
その言葉に、白い海に沈んでいたアグロィの意識が、素早く反応した。
とっさに浮上するも、自分が知っているはずもない。
怪訝に見やれば、ラミレアは真っ直ぐこちらを見つめていた。先程までの、不安や怒りといったものに揺れていた姿は、すっかり消え失せている。
「グラノアが初めてマギアを成功させた時の状況じゃ。魔力を見事操った時と同じことを試してみるがよい」
「────!?」
「なんでもガルルグが言うにはの……」
ラミレアは、薬師ガルルグから聞いたことを話し始めた。
魔力の活性化が問題であること。
今の姿ではなく、ドラゴンに戻れば緩和されるかも知れないこと。
きっかけは、おそらく複雑な魔力制御を行い魔法を使ったこと。
───…ならば、その時と同じ状況を作り、まずは魔力の制御を思い出させるのが近道では。
そう、ガルルグは結論づけたのだ。
一瞬でもそれができたなら、ドラゴンに変身させてしまえば良い──
…なるほど。そこまで割り出し解決法まで示してくれたのか…。
さすがはガルルグである。
ただの薬師とは何か違った空気を持つ、おっとりした男の顔を思い出す。彼には感謝しかない。
すぐ踵を返し、行動に移そうとして─思い出す。
アグロィは振り返ると、改めてラミレアを見つめた。
「…む、なんじゃ?」
「ラミレア様…失礼いたします」
言うやいなや、ふわりと腕を広げラミレアを抱き締めた。
深紅の瞳を大きくしている相手に気づかないふりをし、そのまま、耳に唇を寄せる。
「…お一人にしてしまい、申し訳ありませぬ…」
答えを知りながら、自分では解決できずアグロィを待つことしかできなかったのだ。そんなラミレアのやるせなさは、いかほどだったろう。
どれだけ心細い思いをされたのだろうか…。恐らくは、一人で悩まれたに違いあるまい…。
何しろラミレアが我が子を心配する気持ちは、アグロィにも伝わっている。
その思いは、自分と同じだ。
ぎゅう。と、抱く腕に力がこもった。
このような考え方や行動ができるダークドラゴンは、このザクシロアではアグロィだけだ。
故に、ラミレアはアグロィを手離さない──こうして気遣われる心地好さというものを、知ってしまったがために。
照れ臭そうに耳まで赤く染め、ラミレアはアグロィの背中にそっと腕をまわした。
「ふん…先程、お主と打ち合ってすっきりしたわ。良さそうな奴隷がおったのじゃろう?」
「はい…しばらくは教育が必要ですからな。私の部屋に置いておりますが…ラミレア様も気に入って下さるに違いありませぬ」
それは半分本当だが、半分は嘘だ。
エルフのディティは、まず病を完治させねば仕事にもならない。
娘のクジャには、立場というものを理解してもらう…これは、母親であるディティに任せておけば問題なかろうが。
そして多分、ラミレアが気に入るというのは本当だ。
何しろ、ダークエルフの血が混じるロルド・ラミークには、煮え湯を飲まされていた。
ダークエルフといえば、地上に住むエルフに対して強烈な敵対心を持つのは有名な話。そのエルフを囲うとなれば、ロルド・ラミークへのほどよい当て付けにもなろう。
「ふむ…。まずはグラノアを見事目覚めさせよ。全てはそれからじゃ!」
「…必ずやご期待に応えてみせましょう…」
心なし名残惜しそうなラミレアから体を離したアグロィは、真面目な面持ちでグラノアを抱き上げると、静かに暗い外へと連れ出したのだった──。




