8.薬師ガルルグ
ぶるりと小さく身震いすると、ガルルグは腹をくくった。
背後からは、隙なく注がれる鋭い視線──息も止まりそうに重い、深紅の重圧。
早く用件を済ませて、さっさと帰れば良いんかのぅ…
可愛いナムリが、治療院で頑張っている。
その笑顔を思い浮かべ、縮みあがる我が身を無理に奮い立たせた。
意に反してカチカチ鳴る歯を噛みしめる。口の中はとうに干上がり、喉を鳴らせば貼りつくようだ。
ダークドラゴンの威圧は何度か経験しているが、これほどまでの重みは初めてじゃのぅ──と、どこか感心さえしながら、ガルルグは眠る赤ん坊へ一歩踏み出したのだった。
◇
広大なアンダーグラウンドに点在する王国のひとつ、ザクシロア。
ここは数ある国の中でも圧倒的に広く、自然豊かな土地柄である。
いつでも暗く荒れ、場所によっては霧に閉ざされた海。
表向きは緑豊かだが、一歩入ると瘴気を吹き出し襲い来る森。
底なしの流動する毒の沼。
草木の一本も見られない岩山。
吐く息も氷と化して落ちる凍てついた砂漠。
このように多種多様な厳しい自然に対応した、様々に特化した多数の種族が住み分けているのだが、他国ではこれほどの種族を受け入れてはいない。
これもまた、ザクシロアの懐の深さとも言えるだろう。
第3分家のロルドが治める領土は、山と森が多く水も豊かで、比較的住みやすかった。城下町は、王都に比べれば見劣りするものの、それなりに栄え人も多い。
ただ、領主が純血のダークドラゴンであるゆえだろう。
王都や他の街と違い、民のほとんどに多かれ少なかれドラゴンの血が流れているようだ。もちろん異種族もいなくはないが、奴隷か特殊な職業の者のみだ。
そんな城下町で薬師をしているガルルグは、竜人族である。
薬師の仕事は主に、ドラゴンのための薬を調合し、時には治療をすること。
だが、種族に関わらず広く患者を受け入れているガルルグは、ザクシロアでも有名人だ。
何人もの弟子を持ち、その腕もさることながら、職を生かした情報通。
ガルルグがその博識ぶりを買われ、権力者から呼ばれるのは、よくあることであり、薬師という職を基盤から支える商売でもある。
だから今回も、そうしたことだと思っていた──の、だが。
──先日のラミレア様のお屋敷襲撃事件のことかのう…。ロルド・ラミークの手によるものと、すでにご存知かと思ったが…報復の相談か、または理由でも聞きたいんじゃろか…
長い白髪を頭の上で結わえ、やはり白い髭を顎から垂らし、時おり曲がった腰をトントンと左手で打つ。
いかにもな老人風な体つきで、しかしその顔は皺一つなく、おっとりとした青年のもの。
「先生、治療院の方は終わりました。往診に行かれますか?」
「…いや、ロルド・ラミレアから呼ばれておってのぅ…。往診はドーバとシブキ、お前達に任せても良いかの?」
「「もちろんです!お任せ下さい!」」
「うむ…一応、儂も診察カバンと薬草くらいは持って行くかの…」
ポリポリと頭を掻きながら、辺りを見回した。
そんなガルルグの手元に、黒い皮のカバンを押し付けるのは弟子のドーバ。
「先生のはこちらですよ。薬草も見繕いますか?」
「ああ…うむ。そうじゃな頼むかのぅ」
聞いたもう一人の弟子シブキが、さっさと皮袋に薬草を干した束を数種類、さくさくと放り込んで行く。
彼らも揃って腰が曲がり、白髪であった。そして、尖った耳──つまりは、年老いたからのものではなく、竜人族の特徴である。
二足歩行ではあるが、やたら太い腿につま先立ちで歩く様は、爬虫類のそれであり。手指も太く、4本しかない。
生真面目でおとなしめなこの種族は、器用で頭の良い個体が多く、薬師という、目立たないが細やかな作業と膨大な知識が必要なこの職業は、昔から竜人族が担って来たのである。
──…例外もあるが。
「おとうさん、おでかけするの?」
ひょこっと、作業場の出入口から覗かせたのは水色の頭。おかっぱに切り揃えられた、綺麗な水色の髪の女の子だ。
そのまま、とてとてとて…とやって来ると、ガルルグの太股にぎゅうと抱きつく。
「おおナムリ…すまんが、すぐに出なくてはならんでのぅ。みんなと留守番じゃの」
「ん…わかってる。きをつけて…?みんなのおてつだい、してる」
たどたどしくも、その少女の言葉はガルルグや弟子達を労いたわるものだ。
ガルルグは頬を弛ませ、少女──愛娘ナムリの、水色の頭を撫でた。
この娘はきっと、稀代の薬師になるだろう。そういう『心』を持っておる…。
薬師とは、知識だけ頭に詰め込んでみても、それを扱う者の心構えによって、生かす生かせないが分かれてくるものだ。
『相手を労り、思いやれること』
アンダーグラウンドでは非常に稀有なその気質こそ、薬師にとって得難く、重要なのだ。
この娘が儂のところに来てくれたのは、僥倖じゃったのぅ…
感慨深げにしばし見つめてから、そっと頭から手を離した。
この少女、ナムリの腰は曲がってはいない。つま先立ちでもなければ、耳たぶも丸く、指も五本ある──
…幼いながら、処置はなかなか的確であったしのぅ…。あれが母親かどうかはわからんが、ずいぶんと長く患っておったようじゃった。この子が一人で診ていたなら、素晴らしい才能じゃ。
病に冒された魔族の女。藁をもすがるつもりでガルルグの治療院に来たのだろうが、すでに手遅れだった。
ただ、連れていた子供だけは最後まで諦めることなく、必死に介抱していた姿が思い出される。
水色の髪に隠された首もとには、黒い鱗。ドラゴンとの混血の証。
だが、心根は弱者に寄り添うもので、暴君の気配はない。
不思議なこともあるもんじゃ…儂は、ナムリを手放したくないとさえ思っておる。ふふ、この儂がのう…。
ガルルグはその子供を側に置くことを決めた。
子供らしい大きな瞳は、常に思慮深く揺れている。周りを気づかい、貪欲に薬の知識を求める姿。
竜人族でも、ここまでの才覚を持つ者はいない。
「そうか。では行ってくるかのぅ…ナムリもほどほどにのぅ」
「ん。いってらっしゃい」
そんな風に、愛らしい笑顔に手を降って、ガルルグは治療院を後にしたのだった…。
───っ!…………………………………なるほど…。
瞬間、息を飲み。
次いで集中し始めると、ガルルグは目を細めた。小さな手を取り、脈を診ながら、納得せざるをえないと思う。
かの強大なロルド・ラミレアが、直々に自分を呼びつけた。
「これから目にし判明したことの全ては、この場限り忘れろ」…とは、威圧も込めた脅しに他ならない。
薬師として名を知られているガルルグは、その名に守られていることを理解している。
だというのに、震えるほどの威圧を受けたのは、なぜか。
安らかに眠るこの小さな赤ん坊は、様々な噂の絶えないロルド・ラミレアの13番目のお子だった。
たぐいまれな雌が生まれたという噂。
最弱と言われ、身内から遠ざけられているという情報。
他領から求められ、争いにまでなったその元凶。
訴えられた竜王様は、それらを見過ごそうとなさった存在。
しかし、母たるラミレアが後ろにはりつくようにこちらを伺っているのを見れば、真相が見えるというものだ。
ラミレア様が、こんなお顔をなさるとはのぅ…。
突き刺さるような視線に、ガルルグはゆっくりと振り返った。
「…どうじゃ?」
息をひそめるようにガルルグを伺うその顔は、どこか見覚えがある。
そうだ。ナムリを引き取り、娘として育てる決意をした自分と重なるのだ。
ああ…これこそ、親の顔なのだろう。
ラミレアは腕を組み、険しい面持ちで仁王立ちしていたが、合点の行ったガルルグは、とたんに解れていく心内に驚いていた。
子を案じるこのダークドラゴンに、まさか自分が親しみを覚えるなど。
きっとラミレアは、本心からこの娘を心配している。意を決して、伝える他はない。
「…ラミレア様。このお方の中で今、魔力がものすごい勢いで巡っておられますのぅ…元々、あなた様のご息女ですからの。ダークドラゴン特有の膨大な魔力を保持しておられながら、この凄まじい巡りは…小さくやわらかな人の姿の赤子には、厳しいばかりでしょうのぅ…」
「──なにっ?」
聞いたラミレアは、自らも慌ててグラノアの反対側の手を取り、魔力を伺った。
クワッ!と深紅の目を見開き、身を乗り出す。
「確かに巡っておるが、これは普通ではないのか?」
「はい。まだこれだけの魔力を操るには、幼すぎましてのぅ」
その剣幕に思わず後退りするも、ガルルグはラミレアの親心を知ってしまったのだ。
何とか力になれないかと、さらに診察を続けてみる。
「……ドラゴンのお体でしたら、そこまでの負担にはなりますまいが…このお方は、この姿でお生まれになってから、ドラゴンになったことは?」
「──まだ一度もじゃ」
──ふむ。
ガルルグは、グラノアの口の中を覗きながら、内心で首を傾げた。
いくら人の姿で生まれたとはいえ、まだ一度も本来のドラゴンに戻らないというのも、不思議な話である。
大体、今はこうして不調をきたして、昏睡する程に弱っているはず。変化を維持できずに元に戻る方が正しいのだが。
つまり──この状態になってなお、常に魔力を練り消費しているという訳で。
「…もしや…何か、魔法を使ったことがおありで?」
「──ある。妾は見ておらぬが、襲撃された時に見たこともない創作したマギアを放ち、一人仕留めたそうじゃ」
「なんと…っ!?」
驚愕の二文字を顔に貼りつけて、口を開けてしまいそうになったガルルグだったが、ふと、真顔になって思案する。
…きっかけはそれか…!いきなり魔力が活性化されて、おそらく体が追いつかなくなっとるんじゃのぅ……
とはいえ、一度はそこまで操ってみせたというのなら、救いはある。目覚めさせるための糸口になる可能性は高い。
他に、見落としはないだろうか──
根っからの薬師であるガルルグは、先の驚きよりもまずは目の前の患者である。
くまなく診察を進める内に、やがてグラノアの瞼を押し上げ覗き込むと、唇を引き結んだ。
「…む。どうしたのじゃ?」
「ラミレア様…このお方の瞳は、何色でしたかのぅ…」
「ん?…妾と同じ目をしておるが…」
「………こちらに」
ラミレアをグラノアの頭の方へ招く。
ガルルグの手には、ほの暗く光る石を先端にはめ込んだ、手のひらサイズの杖のようなアイテムが握られている。それで良く見えるようにかざしながら、もう一度、瞼をそっと押し上げて見せた。
「───な…っ!!?」
「……」
あのラミレアが、他人の前でこのように狼狽えた姿を見せるなど、かつてあっただろうか。
だが、同じく子を持つ親となったガルルグには、今なら理解することができる。
愕然と目を見開いたまま、動けないでいる彼女に…淡々と伝える他はなかった。
「…生まれて間もない時期に、強い光を直視されたりした場合に起こりうるものですのぅ……あれだけの騒動の最中にいたというのならば、仕方のないことですのぅ…」
「…………………──これで、見えるのか…?」
「……残念ながら…」
絞り出すようなラミレアの疑問に、ガルルグは痛ましそうに首を振った。