クレイモアの邂逅・2
カチン…
最後の一本を鞘に納め、アグロィは目を細めた。
その眼差しにいつもの鋭さはない。
堀の深い浅黒い横顔は、相変わらず武骨だが端整なもの。そこにはまった真っ赤な瞳は、闇に沈んだ寒いザクシロアにありながらどこかゆるりとした温かさを感じさせる。
これこそがアグロィ本人の素の表情なのだが、少々思案気であった。
「ふむ…」
静かに左手の物を布の上に置き、そのまま顎に手を添える。
傍らには、大きな空の皮袋で遊ぶアロがいる。実に愛らしく楽しげに、中から顔を覗かせていて。
その中身だった物は、丁寧に手入れをされアグロィの手元に並べられている、この数本の剣である。
「…グラノアに剣を持たせるならあれが良いかと思ったのだが…失っていたか…」
「クゥゥン?」
つぶやきに反応して、アロはくりくりとした大きな目を石造りのテーブルに向けた。
それなりに名の知れた剣士となりつつあるというのに、意外にもアグロィの所持する剣は少ない。
何もこだわりの一本を大切にしている……という訳でもなく、むしろ購入数は多いのだが。
ただ、ドラゴンのパワーに耐久力が追い付かず、使い捨てになりがちなのは致し方ないだろう。
ーー決して、ぞんざいに扱っている訳ではないのだ。
様々な形状の長さもバラバラなそれらを見るだけでも、アグロィの剣技がいかに柔軟かが伺える。
波打つ刀身が揺らめく炎のような大剣のフランベルジュ。
先の方は両刃で途中から片刃という、湾曲して長いファルカタ。
真っ直ぐだが分厚く片刃で身幅が広く、その重量で叩き切るような作りのファルシオン。
剣というより拳で殴るように突き刺すことに特化したジャマダハル。
赤と青にそれぞれ輝く、魔力を帯びた双剣などなどなど…。
いずれも確かな業物であり、アグロィ自身が惚れ込んで手に入れた逸品ばかり。ここまで来ると、節操なしとも言われそうだ。
そんな剣が潰れるのは、大抵が戦の時だ。
また闘いの最中、変化を繰り返す内に収納した鱗からこぼれ、気づかず落としてしまうこともある。
使いやすく好みの剣ほど失うのは早いーー故に、アグロィは自分の所持する多くはない剣を、意外にも把握出来ていなかったのだ。
そんな自分に若干飽きれつつ、つい口をついた独り言…に対し、律儀に返答をしてくれるアロ。
アグロィは思わずと言った風に吹き出した。
「ぷっ…お前達は、私に一人の時間を作らせないつもりなのか?」
「クアァァー!」
「…ああそうか。…もう言葉を理解するのか…お前もグラノアと同じく複雑な心を持っていそうだな…」
なぜか得意気に胸を張るアロの頭を、撫でてやる。
アグロィの眼差しはひたすらに優しく、父性というよりもはや母性に近くも見える。
まあ…それもあながち間違いではないのだから、ややこしい。子竜アロを卵の時から一人で育てるアグロィは、父であり母でもあるのだから。
ーー…一人にしない…アグロィの側から離れない…。
そんなグラノアの誓いは、意図せずアロが引き継いでくれているようである。
このラミレア家の中にあって、数少ないアグロィが気を抜くことの出来る場所…すなわち自室で、唯一信頼の置ける存在である剣の手入れを行うということ。
常に張りつめ味方のいない四面楚歌な生活を続ける彼にとって、そんなささやかな平穏こそ大切な時間である。
だが一番は、やはりーー
ふ…と、三日月型に口が緩む。
自分の手から離れ独り立ちを認められたグラノアは、もはや共に出歩けるような存在ではなくなってしまった。
ラミレア家どころか、アグロィの知る雄の中ではピカ一であるサミオスを見事に従え、他の雄を寄せ付けないーーそれでもう十分だと、納得しようと思っていた。
ーーだが、アグロィはすでに、知ってしまったのだ。
この寒く孤独な暗い世界で、絶対の安らぎと温もりの存在を。
いたわりあい、互いに高みを目指し、認め合うことの心地好さを。
ただそれだけのことが、永い間、自分が求めて止まなかった本当の心の拠り所であったことに、気づいてしまった。
知らなければ、まだ良かった。知ってしまってからではーー手離すのは苦痛でしかなく。
…さすがはグラノアだ…良くも思いつくものだ。
要は方便だったのだろうと、アグロィは思う。
戦い方を覚えたいのはもちろんだろうが、本音は恐らく、アグロィの側にいたかっただけ。
……そう考えるのは自惚れだろうか。
何しろ、剣には終わりがないのだからーー
思わず左手で口元を隠すも、アロは全く気にするでもなく、自分の体より大きな袋に夢中で。
窓の外は、相変わらず夜のように暗かった。
◇
右手には、ほんのりと淡く輝く白光の玉。
左手には、ゆらゆらたゆたう青白い炎。
「…治してあげる。大丈夫…ここから出られるわ」
どこもかしこも闇に塗り潰された世界でーー両の手の魔光に照らされ、ふわりと幻想的に浮かび上がったのは、細く小さな幼女だった。
幼い声だとは思ったろうが、想像以上だったに違いない。思わず息を飲む気配と、殺気が霧散して行くのを感じる。
うん…まあ、確かに子供だしね…。きっとガッカリしたわな…
さもありなんとばかりに、グラノアは小さな頭をうんうんと頷いてみせた。
正面では、なかば腐りかけた巨大な犬のようにも見える生き物が、驚愕に固まっている。
この巨大な毛玉は、尾まで入れるとバスほどもあるだろうか。
それがクルリと丸くなり、小汚ないがちょっとした小山を作っている。
グラノアがめいっぱい腕を広げてみても、前足一本すら抱えきれない太さである。
………狼…なのかなぁ?これだけ大きくて言葉も話せるとなると、普通の魔物ではありえないんだよね……。
この世に生まれ落ちてもうすぐ6年。
いまだ世の理に疎いグラノアだが、アグロィと共に自国のみならず広いアンダーグラウンドを飛び回ってきた。
それなりに魔物を見たり狩ったりもしている。
視力を確保するための魔力感知の訓練では、そんな魔物の姿形だけでなく魔力パターンなども詳細に『見』ながら教わってきたのだ。
ーー…上位種?
〈…そうだグラノア。魔物にも様々な種族がいるが、それぞれに上位種と呼ばれる種がいる。下位種よりも強く頭も良い…最たる上位種ともなれば体は大きく、我々のように知性が高く誇り高い種族であることがほとんどだ。まあ人形に変化し言葉を話すような種族は最上位種だと思って良い〉
ーーあ…なるほど。そういえば、なんでわざわざ人形になったりするの?
〈うん?生活するのに便利だからだろうな。住まうのにそれほど場所をとらず、服や装備も楽しめる。人種は弱いが、だからこそあの姿は合理的な活動をするために特化した結果なのだろう〉
ーー…ほほぅー…(私は前世で人だったんだけどね…)あ!じゃあ、私は最初から人形で合理的だったのね!
〈…む………。(脆すぎて育てるのは容易ではなかったがな…)〉
あれは、迷いの森でのやり取りだったろうか。
アグロィはあちこち出掛けては、ありとあらゆる魔物をグラノアに見せてくれた。
〈知らずとも問題はないかも知れんが…〉と言いつつ、その特異な生態や動き、毒や攻撃手段などの注意点についても、それはそれは丁寧に教えてくれたものだ。
ダークドラゴンである二人に、そこまでの情報が果たして必要か首を傾げてしまうところではあるが。
何しろ、グラノアの視界は魔力感知によるもの。であるならば、魔物の特性なども関わってくるかも知れない…そう考えてのことでもあり。
ともかく、アグロィは実に色々なことを知っていた。彼の幼少期から暗殺者としての時代まで、その知識が正に命綱でもあったのだから、グラノアにそれを渡そうと思うのは自然とも言える。
対するグラノアの方はと言えば、そこは初めての魔物のこと。やはり熱心に学び、一語一句聞き漏らさぬよう真面目に覚えたことは言うまでもない。
一度聞けば、大抵の内容は覚えてしまう驚異の記憶力も、ドラゴンの体故にだろうか。
人間だった頃の受験時代にこの頭脳があったならと、思わずにはいられないが…
もちろん、集中力を切らさないことが前提の能力ではある。
あの、ふいに途絶えた会話の後の、何とも言えない気分まで思い出してしまい、グラノアはしんみりとした。
そうだよね…赤ちゃんは人間の中でも最弱な存在だもん。最強のドラゴンの手で育てるには加減とか難しかったろうし…つくづく…アグロィには苦労かけたなぁ…。
人間でさえ、小さく柔らかすぎる赤ん坊の世話は大変に気を使う。
ここは早いとこ自分も強くなり、アグロィを安心させねば。気を取り直して、改めて目の前の狼擬きを眺めてみた。
真っ黒な石…何の結晶なんだろ?結構な大きさだけど、割れちゃってるなぁ…。
顔には、ヒビだらけのあまり見かけたことのない真っ黒な石が、額の辺りに鎮座していた。まるで大きな瘤のようにも見える。
ボロボロの汚れた毛に包まれた体に視線を移し、グラノアは目を閉じる。魔力感知の範囲を狼擬きの体内に合わせ、集中し出した。
…あー…。…ひどいな。
グラノアは眉根を寄せる。
内臓が見える訳ではないのだが、傷みや損傷があれば魔力の流れが異常を伝えてくる。
巨大なこの体には、見た目以上に健全な部分の割合が少なかった。
おまけに酷い脱水症状を起こし、ほとんど体力も残されていない。
元々ある本人の細胞や生命力を使って、傷や病を癒し身体を補うのが治癒魔法である。いかに効果があろうと、これではあまり無茶なことは出来ないだろう。
「…とにかく私も本気出すから、あなたも頑張るのよ?」
「……ーーーっ!?」
決意の籠った幼い声は、しかし優しく闇に染み入った。
乾燥で瞼はめくれあがり、赤黒く変色した粘膜がドロリと包む灰金色の半眼を…狼擬きは初めて見開く。
もう声にさえならないほど弱りきった彼の驚きは、それだけに留まらなかった。
繰り返すようだが、アンダーグラウンドには治癒魔法を使える種族はいない。
地上に住むそれも一部の者のみが扱える魔法なのだ。だが、その地上の生き物達の魔力量は、総じて少ないのも知られている。
ふう、と1つ息を吐き、グラノアは白と青に発光する両の手を向かい合わせにした。
いつもの調子でのほほんとやりたいことをやるグラノアは、日本人のゆきであった時から本質は変わらない。
…回復魔法系だけは沢山練習してきたし…。体力さえサポートしてあげれば…何とかやりくりしないと。
いつでも一点集中型のゆきは、こうと決めたらとことん拘って飽きるまでやり尽くすタイプである。
多様な資格も取得してきたおかげもあって、仕事にはそれほど困らなかったが…転職してばかりだったのは、短期間で納得し、満足するかもしくは見切りをつけてしまうからであるーー飽きやすいとも言うべきか。
…私だって成長してる…多分。…とにかく、最後までしっかりやり通す!
出来る限りの手を、工夫して打つのは変わらない。
ただ、それで成功しても失敗しても、終わるべきではないーー…一度死んで生まれ変わったグラノアなりに、身を持って痛感しているのだーー仕事にしろ家族とのつきあいにしろ、何事にも『覚悟』は必要なのだとーーー。
右手の白く光る玉の中に、左手のうすら青白い炎のようなものがするりと押し込まれる。
やがて、淡い黄色の粒子が辺りにキラキラ溢れ出した。
ぶつぶつとひとりごちながらも、両手の微細な魔力調整を怠らない。
白光の治癒魔法に、青白い炎のように見えたのは解毒魔法。
体の腐りかけた瀕死の毛玉を見て、この2つを合わせてみることを思いついたのは、我ながら良いセンスではないかと思う。
…パワーが上がった?…ぶっつけ本番だけど、魔法は行けそうね…後は…
グラノアはまだ知らなかったのだが、黄色い粒子は状態解除回復魔法に変化した証拠である。
緻密に練られ、しかしドラゴンの膨大な魔力に物を言わせ圧縮に圧縮を重ねて作られた右手の球体からは、あり得ない程のおびただしい粒子が溢れ落ち輝いていた。
果たして、単なる回復魔法であったとしても、これではどれ程の威力になるのか計り知れない。
よしーーやるわよ!準備は良い!?
微かに喉を鳴らしたグラノアは、軽く深呼吸した。
他人を助け、命を失った経験があるーー回復魔法を云々以前に、躊躇する自分を否定出来ない。
大丈夫…ちゃんと、先のことも考えてる。腹も括ったというか…覚悟だってしてるわ。気になったからっていうだけじゃないーーーー…私はーー元は人間だから。
そう。人間だったのだ。
強大な力を持つダークドラゴンに生まれはしたが、だからと言って前世をまるっと捨てたくはない。
人間のゆきだって、一生懸命だった。
胸を張って素晴らしい人生だったなどとは言えないが、だからこそ積み重ねて来た想いもあるし、やり直せるなら出来る限りのことはしたい。
ゼロスタートではないーーーグラノアにとって、そこは大切にしたいところなのだ。
助けたいと思った気持ちは、本物で。それを実現出来るだけの、手段も能力もきちんとある。
ーーならば、動くべきでしょう!!!
グラノアは、思いきったように腕を伸ばし身を乗りだした。
グジュリ…
「……?」
強い腐敗臭を撒き散らす巨大な口の中に、その細い腕ごと押し込んだ……何もない『左手』の方を。
ーー……?…?
てっきり回復魔法をかけられると思っていたのだろう。
初めて見るそれに驚いた様子であった狼擬きは、それがまだグラノアの『右手』で光っているのを不思議に思う。
が、次の瞬間。
「うご……っっ!!!」
汚れた毛が、ふるりと逆立った。
口の中いっぱいに広がるのは、アンダーグラウンドでは貴重であるーー清涼な水。
なんてことはない。これはただの水魔法である。…が、アンダーグラウンドにおいて攻撃力のない魔法は、ほとんど見かけないものでもある。
「ただの水よ。安心していいからね」
グラノアの声など、もはや聞こえていない。
最初は、動きの鈍い喉をただ通り抜け食道を滑り落ちて行くだけだったそれを、やがてゴキュゴキュと音を立て必死に迎え入れ始める。
正しく無我夢中。息をするのも忘れていたかも知れない。
お……ぉお…おおおおお…………っ!!
いくら飲んでも、飲み足りないーーそれくらい、渇ききっていたのだ。
ほとんど無表情だった顔が、鼻筋に皺が寄っている…歪んで恐ろしい見た目だが、これは多分「歓喜」に違いない。
そんな狼擬きを若干引き気味に、けれど心配気に様子を見ながら、グラノアは1つ頷いた。
よし…これなら行けそうね…内臓は多少でも動いてるみたいだし…
大量の水を巨大な喉に注ぎ込みながら、グラノアはついに『右手』を動かす。
ほんの小さな手首の運動である。
クイ…と、仄かに黄色の粒子を振り撒く魔力の塊を上に放ったのだ。
ふわふわー…
それは緩く漂うように、たゆたゆと上昇して行く。
やがて特に目立って抉れた左側のこめかみにある大きな傷の辺りまで来た途端、しゅるりん!ーーとかき消えた。
何の抵抗感もなく、吸い込まれたのだ。
その一瞬を、グラノアは見逃さない。
間髪入れずペタンコの胸を大きく反らし、めいっぱい息を吸い込んだ。
ー〈聖なる光の吐息〉ー
コォォォォォ………!!!
小さく可愛らしい口から吹き出すのは、白銀の炎。
頭の中に浮かぶのは、赤ん坊の頃に見た…ラミレアが人形のままブレスを吐いた、あの光景。
吐息のようなブレスが、キラキラ輝きながら散り拡がるーーその真ん中で、手先は制御を手放さぬよう真剣な眼差しで魔力を操り、さらに高めてみせる。
今、ブレスの威力は必要ない。サミオスに教えてもらった正しい使い方を忠実になぞっている。
治癒魔法がより効率良く発動出来る空間を、この深淵に作りあげているのだ。
…私はもう、後悔しない…助けて良かったのよ……!!!
………………グルオオォォォォオオオーーーーンン……
漆黒の谷に、地の底から這い上がるようなそら恐ろしい遠吠えが響き渡る。
それは、実に五年ぶりの神喰狼の咆哮であった。
◇
……ーーー。
サミオスは静かに顔をあげた。
次第に弱まる、グラノアが置いていった〈光の玉〉をチラと見上げる。
「…まさか…………生き残りか…?」
それは、小さくも底冷えするような冷めた呟き。
同時に、ぶわっ!!と闇色の霧が辺り一面に吹き出し、メリメリと空気が震える。
瞬間。霧を割るように、筋肉の盛り上がった凶悪な肢体の巨大なダークドラゴンが飛び出した。
上空の仄かな光はすでに朧気な様子で、辛うじて明かりを灯している程度。もはや光源としては用を成すのは難しい。
サミオスドラゴンは腕を伸ばすと、黒い鱗に包まれた逞しい拳にそれを握り込み、その場でぐるり巨体を一周させる。
〈ーーこちらか…〉
ある方角に向けると、鋭い爪の間から微かに仄かな光が漏れる。ほんの微細な照度の変化だが、魔力の供給元…グラノアがいる方向を示しているのだ。
鋭く、スイと細まる冷たい眼。
そこには、隠しきれない苛立たしげな光が宿っていた。
グラノアが、魔力供給の追いつかない事態に陥っているか、または魔法維持を放棄していることを〈光の玉〉は物語る。
それを気に入らないとばかりに、フン。と鼻を鳴らしたサミオスだったが、ふと、意外そうに瞼を一度だけ揺らした。
…ほお…気づかれているか。…かなり腕がたつ…。
ブワァアンッッ…!!!
冴え渡る真冬の夜空のような、キリとした静かな怒りに任せ翼を広げた。途端、谷間を揺する程の旋風が巻き起こる。
ハリケーンのように暴れるそれは、彼の熱気を纏う闇色の霧を拡散させ、深淵を走り抜けて行く。
しばらくそれを睨んでいた巨大なドラゴンは、地を割り抉る勢いでいきなり踏み込んだ。
ドオオォォォーーー!!!
闘気が空気を震わせる。
悠然と漆黒の体を浮かせたサミオスは、そのまま、闇に飲まれるかのように突撃するのだった。