悩ましい話
サミオスがグラノアの配下に下った--。
そのニュースは瞬く間に屋敷中を駆け巡った。
いや、屋敷内に留まらず、城下町から噂として周辺諸国にまで轟いたというから凄まじい。
グラノアはともかく、サミオスは長命であり名の知られているダークドラゴンだ。
今までラミレア一筋だった彼を、一体どうやって口説いたのか。相手はどれだけ魅力的なドラゴンなのかと、誰もが興味津々だったのである。
◇
その日--ラミレア家は慌ただしく、またすこぶる騒々しかった。
「…はぁぁ…あんまり…気が進まないのだけれど…」
「ドラゴンとして一人前になった者は、お披露目を兼ねて皆の前で挨拶するのが慣わしです。これから共に戦うファミリーなのですから、顔合わせは必要でしょう?」
溜め息混じりのグラノアの呟きに、扉の向こう側からサミオスが諌める。
「はぁぁ…」
「…グラノア様ご安心下さい。どこに出しても恥ずかしくない自慢のご主人様ですが、さらにきっちり可愛く盛って差し上げますから」
ニコニコとやたら嬉しそうにグラノアを着付けているのは、侍女服姿のディティである。
その周りをシュタシュタ!と、金色の風がたまに走るのは、小道具を抱え侍女服のエプロンを翻し、影のように残像を残して働くクシャであった。
二人とも、白い肌に侍女服がとても良く似合っている。
「…家族…アグロィも、いるのかしら…?」
「…っ」
ファミリーってウチはマフィアですか?という突っ込みさえ気力が許さない。
グラノアは力なく、それだけを尋ねた。
聞いたディティは息を飲み、痛ましげに目を伏せる。
今のグラノアはあまりにも沈みすぎており、できればそっとしておいてあげたいと思う程だ。
可愛い服で着飾れば少しは浮上するかと頑張ってはみたが、やはりそう簡単にはいかないようだ。
「…もちろんですよ。彼は私共の中では一番上の立場ですから」
雌よりも格下である雄の中でも、群れの主の寵愛を受ける雄は強さを認められた者である。他の雄を統率するトップにあたるのだ。
…立場上は、だが。
アグロィは言わずと知れた、村八分の一匹狼…いや一匹竜だ。
「そう…。なら、頑張るわね…」
投げやりに言い、後は…はぁ…とため息ばかり。
……不味いですね…ここまでへこたれるとは想定外です。それほどアグロィに依存していたとは……
扉に寄りかかり眼鏡を押し上げるサミオスも嘆息する。
既に礼装に着替えた彼は、こうしてグラノアの準備が終わるのを待っているのだ。
約束とは言え本当に常に側に寄り添い、グラノアのための生き字引きであろうとしているのは伝わっているようだが、彼女は全く心を開いてくれない。
暗い窓の外を、サミオスは鬱々とした気分で冷たく睨んだ。
あの好奇心旺盛な白い瞳は、ぼんやりと陰ってしまった。自分を視界に入れても、何の反応もない。
前はあれほどに、闘志を向けて来たというのに。
…時間は沢山ある…ゆっくり溶かして行けば良いと思いましたが、これはいけませんね…
扉ごしにグラノアの溜め息を聞きながら、サミオスは冷えきった顔でスイと腕を組む。こんな仕草も優雅である。
だが、考えていることはなかなかに物騒だった。
このように隙をさらす者に私が仕えたと思われるのは心外です…。こんなに腑抜けでは、襲われても対処出来ない--
実は、そういうこともあるのだ。
一人立ちしたばかりの若い雌を、力押しで物にしようとする馬鹿がたまに現れる。
今ならまだ力も弱くたいした群れも持たないとなれば、好機と思うのだろう。
だがまあ、よほど自信があり骨抜きにさせるくらいなら話は別だが、そうそう上手く行くものではない。
それでも--もしかしたら、グラノアなら。
そう考える雄は、おそらく…いる。
サミオスは冷たい表情のまま、歯噛みした。何しろ、手段は違えど自分もそうした算段から配下になったのだから。
我が主はとても小さく、幼い子供なのです。まだまだ分別も甘く、教育しなければならないことは山ほどあるというのに…。
魔力だけは上手いこと遺伝したのか、それはそれはお高いグラノアだが、サミオスから見れば使い方はまるで分かっていないことも多い。
現にこうして魔力で服を作ることも出来ず、着付けてもらっているのだから。
人の姿になれるドラゴンは、変化しても対応できるよう魔力を織った衣服もどきを身に纏う。
だが細かい作りは苦手なため、気に入った生地や凝ったデザイン、特殊な性能などが欲しければ購入して身につけることも多い…要はいきなりドラゴンに変化しなければ良い話である。
とにかく、グラノアには早く成長して貰わなければならないのだ。
だというのに、当の本人はやる気がなく、心はどこかへ飛んでいる。
サミオスは瞑目すると、悩ましげに眉を潜めた。
ーーグラノアの配下となったあの日。
サミオスの最初の奉仕は、とりあえず自分の上着を人の姿に戻った彼女に羽織らせることだった。
ドラゴンの姿のグラノアは、あまりにも目をひく存在だったため、もう一度人の姿に変化してもらったのだ。
あのままで出歩いたなら、それだけで配下希望の輩が殺到するのは間違いなく--本人に自覚がないのは、良くも悪くも悩ましい。
それ程までに、グラノアはまだ幼いながらも強烈な魅力を放つ雌のドラゴンだったのである。
渋々ながらサミオスの上着に袖を通すグラノアを見て、下腹部からぞわぞわと胸まで這い上がってくる、えもいわれぬ恍惚感に--サミオスは絶句した。
にわかには信じがたいことだが…本気になっている自分を感じて。
…よもや、とっくに諦め枯れ果てたとばかり思っていましたが…。私は、どうやらまだ雄のようだ。
眼鏡を押し上げる指は、もう震えてはいない。
だが冷たい表情の裏では、らしくなく熱く震えている心に心地好ささえ感じていた。
…さて…どんな淑女に育てましょうか…。元々がこれ程ならば、いかようにも…。
眼鏡の奥の赤い瞳はそんな夢想に浸り、薄い唇からはムフフと声が出そうになっていたのである--。
ところが、だ。
悠然とグラノアを部屋まで送ると、そこにはアグロィがいた。
背中にアロを貼りつかせ、当然のようにグラノアの使用人に茶を出され、ゆったりとくつろいでいる変わった雑種の男。
アグロィは、素肌にサミオスの上着を着た顔色の悪いグラノアを見て一瞬気色ばむも、すぐにいつもの無表情に戻った。
そして、甲斐甲斐しく世話を焼き始めたのだ。
奥で着替えさせ、ベッドに座らせ、ディティに紅茶を頼み、クシャに入浴の準備を指示し、おでこをくっつけて熱を確認……
ああ、とサミオスは納得できた。
この男は、恐ろしく手が早かったのだったなーーと。
自分がグラノアの配下になって浮かれ妄想したことなど、とっくにアグロィが実践していたではないか。
サミオスを含む雄の全員が、グラノアの育児を放棄したのだ。
その間にこの男は、着々と彼女を自分好みに育てたに違いないーー。
全てをアグロィに押しつけたつもりになってあぐらをかいていたのだ。誰よりも早く配下にしてもらい、他を出し抜いたと思っていたのだ。
我ながら、なんと奥手なのかと呆れ果ててしまう。
…いや。たかが5年…これから彼女の信頼を得れば、十分巻き返すチャンスはあります。何しろアグロィは…
「ーー…………アグロィ殿。あなたにはまず言わなければなりません」
「ーー何か御用ですかな?話はグラノアに聞きますから、サミオス殿はお帰りに…」
「私は、グラノア様の配下にさせていただきました」
「………なにっ?」
被せるように言い放ったサミオスの言葉に、アグロィは驚いたように顔をあげた。
そのまま、こちらを凝視する。とっさに真偽を図れずにいるのだろう。
その訝しげな表情に、ようやくこの男の素の顔が見れそうだな。と、僅かに持ち直した気分が徐々に高揚して行く。
アロが背中から、そんなサミオスを首を傾げて眺めていた。
「馬鹿なことをおっしゃいますな…グラノアは子供ですぞ。自分の群れなどまだ早い」
「決して早くはございませんよ?グラノア様はつい先程、一人前と認められました…ならば配下を持つのは至極当然の流れ。最初に私を受け入れて下さいました」
優越感を隠しもせず大見得を切られ、アグロィは今度こそ愕然とした顔でサミオスを見、次いでグラノアへ視線を移した。
「…お父様…少しお話が…」
「グラノア様、違いますよ。アグロィです」
「…アグロ…ィ…」
すかさず訂正を入れられるグラノアの顔色は、どんどん悪くなってくる。
アグロィは、密かに目をすがめた--グラノアの顔は自分も良く知る、くしゃりと歪めて泣き出す一歩手前の表情だったからだ。
何かをやらかして後悔している時に、よく見せる。
「本当…なのですな、グラノア様」
「ーーーーっ!」
瞬時に理解し受け入れたアグロィは、確認するかのように、重々しくけれど優しげな眼差しで、グラノアに頷いてみせた。
対するグラノアは、アグロィの言葉に息を飲み、ただ愕然と固まっている。
ーーおそらくは、本当なのだ。
グラノアは、サミオスから認められたのだ。ならば一人前と言うのも、きっとその通りでーー。
何しろ、ラミレアが信頼を置くこの男は、何人ものドラゴンを教育してきた長命の教育顧問。その彼が合格というのなら、一人立ちしたという意味でもある。
…そういうことならば切り替えねばなるまい…。
遅かれ早かれ、こうなることは覚悟していたのだ。
アグロィは、ゆっくりと胸に手をあてた。
「…グラノア様、おめでとうございます。このアグロィ、心から誇りに思いますぞ」
「………。」
…そんな顔をするな…お前は良く頑張ったのだ。まさかこの短期間でサミオスに認められるとは思わなかったがな…さすがはグラノアだ…。
実際アグロィは、本心からそう思っていた。
本当に自分の娘なのかと、たまに自信がなくなる程に。
グラノアはいつも、前向きだった。
たまに腐っても、ちゃんと立ち直って巻き返そうと、自然と努力をするのはつくづく大したものだと思う。
自分にはひっくり返っても真似などできないことを、ふいに思いついてやってのけたりもする。
創作魔法を使ったり、魔力感知を物にしたり、茶菓子でラミレアの病を看破してみせたり、アロの孵化を促したこともそうだーー。
ーー上げたらきりがないくらい、彼女には驚かされてばかりだった。
今さら、他のドラゴン達が苦手にしているこのサミオスを従えたとて、なにを驚くことがあろうーー。
アグロィは、あっという間に受け入れたーーそれこそが、アグロィの生き方でもある。
足掻いてもどうにもならないものは、とっとと受け入れるべきなのだ。
信じられない物を見るように茫然としているグラノアを尻目に、サミオスは満足そうに眼鏡を押し上げた。
「グラノア様はご立派になられました…アグロィ殿も二人を抱えてさぞや大変だったことでしょう。あなたの役目は終りました。グラノア様は、これからは私にお任せ下さい」
「…よろしくお願いいたしますぞ、サミオス殿」
サミオスの優雅で美しい礼を受けて、アグロィも慣れた仕草で返した。
そんな二人の男の姿を、グラノアは終始無言で見つめていたのだったーー。
◇
…思えば、グラノア様を蔑ろにして話を進めてしまった感がありますね…アグロィを離すことばかりに重点を置いたのは悪手でしたか…。
決して大きな失敗ではなかったが、今のグラノアの様子を見れば、明らかな失敗である。
何とか彼女を元気づけられる手段はないものか。
サミオスは悩ましげな像のように、顎に人指し指をくの字に添え思案していた。
「…えと…サミオス?」
思考の海に浅く素潜りしたところで、グラノアの可愛らしい声がかかった。
…名前で呼ばれたのだ。他の何者もこれに優先できることはない。
「はっ!こちらにございます」
凛として礼をする…扉に向かってだが。
「…その…知恵を…、貸してくれますか?」
「………ーーアグロィを、群れに引き込むおつもりですか…?」
「……っ」
「大変に難しいです…ラミレア様が離しますまい」
何となく嫌な予感に先手を打てば、向こう側では息を飲む気配。
やはり…と、サミオスはひとりごちた。
せっかく追い出した男を呼び戻すなど、冗談ではない。
大体、ラミレアからは優れた種雄として認められているアグロィなのだ。
ただの一兵であるサミオスが、ラミレアからグラノアに乗り換えたのとはまるで意味が違ってくる。
…だが。
「ですが…グラノア様が望むのでしたら…。それで貴女が満たされるというのでしたら、私は喜んで地獄にも飛び込んで見せましょう…なんなりと」
少しの迷いも淀みもなく、サミオスは言いきってみせた。
存外、言葉にしてみれば清々しい気にもなるから不思議である。
今のは間違いなく、グラノアの心にも響いたはずだ。
扉に阻まれて見えないのを良いことに、サミオスはフッと鼻から笑みを漏らし、眩い仕草で眼鏡を押し上げた。
「アグロィを私の群れに?そんなことも出来るの…サミオスは本当に凄いのね…」
「…は?」
若干近くなった声からすると、出入り口近くに寄ったのだろうか。
グラノアの感嘆混じりの言葉に、サミオスは目を丸くする。
「私が思うに、お母様は、お父さ…アグロィのことを本当に好いていらっしゃるのではないかな」
「………。」
「でも、お母様はツンデレだし…アグロィにどうやったらそれを感じて貰えるか、考えてもわからなくて。サミオスは私よりずっと二人のことを良く知ってるでしょう?」
よもや、変化球が飛んできた。
ぼんやりと放心してるかと思えば、そんなことを考えていたのか。
もちろん、様々な手を読んだつもりでいたサミオスだったがーーこれは全く予想だにしない相談事である。
眼鏡を外すと、それを胸の内ポケットにしまう。
サミオスは眉間に寄った皺を伸ばすように、人指し指でグリグリしながらグラノアの意図を理解しようと試みたーー。