11.渇求
…サアァァァ…
常に暗いアンダーグラウンドの森中に白い光が広がった。
首を傾げるグラノアの動きに合わせ、瞬く銀の粒子がこぼれ落ちる。幼く小さな体が、ほわりと闇に浮かび上がった。
まさか…グラノア、なのか?
渋味の混じったダークドラゴンは、目を眇めた。
艶やかで煌めく黒い鱗は、見覚えがある。雄達を魅了して止まない、美しいダークドラゴンのロルド・ラミレアと同じだ。
だが、硬さよりもしなやかさが見てとれるスラリとした細めの肢体は、まだ小型の魔獣程度。抱き上げればすっぽりと腕に納まるそのサイズなら、楽に拘束できるに違いない。
幼さの見える大きな瞳は無機質な白だが、逆に目をひく。その濡れた輝きは幼く、何とも無垢だ。
──そして。
グラノアが動く度に、ふわふわと銀の粒子となって漂うのは、白光の魔力。それが常闇の森の木々の間を流れ霧散していく様の、なんと儚げなことだろう。
これが…グラノアの、真の姿とは……。
らしくもなくアグロィは、ドラゴンの巨体で茫然と立ち尽くした。今まで、小さな赤ん坊の姿に騙されていたことを知る。
弱い存在である人の、見るからに庇護欲をそそる赤子の姿ならば、弱々しく見えるのは当然であると考えていた。
なぜだ…なぜグラノアばかりがこうなる!
弱々しくとも─ドラゴンの姿になりさえすれば。
目が見えずとも─あのラミレア様の娘なのだから。
そう自分に言い聞かせ蓋をしてきた、いくつもの不安。今それが、唐突に具現化してしまった。
この常に暗く寒いはずのアンダーグラウンドで、温もりさえ放つ異質な魔力。やわらかそうなうすい鱗。
不安そうな顔でよたよたと、真っ直ぐ歩くこともままならない不安定さ。
その姿はふんわりと淡く輝き、目立つことこの上なくて。
──ありえない。
強者の権現たるダークドラゴンとしては、ありえないのだ。
ああ…この子は、長生きは出来ないだろう……襲ってくれと、その全てからして誘ってしまう…。
これほどに人目をひいては、闇にまぎれることは出来ない。加えて、頑強さの欠片も見えない小さく儚い風情ときては…もはや、なすすべもないのでは。
呆然としたのは、一瞬だった。アグロィはすぐさま人形になりつつ、背のマントを外す。
〈キュウン?(お父様?)〉
「…屋敷へ戻ろう…。大丈夫だ、私がついている…」
今だかつてなく穏やかに微笑むと、アグロィは自分の魔力で作った黒いマントで、グラノアを包みこんだ。
光の粒子が外に漏れないのを確認し、小さく安堵する。
魔力で包み隠せば誤魔化せるようだな…。
人目に触れさせてはならない──腕の中にいるこの存在は、正しく弱点そのものだ。
しかも、群れの中心たる雌。果たして、どれだけの影響をもたらすのか……。
〈キュアア…キュキュィイン?(ヘンシンできた?…なんかおかしくない?)〉
「ああ、大丈夫だ…ちゃんとドラゴンに変身出来ている。…もう心配はいらない」
ピタリ。とマントの中身が動きを止める。
「…む、どうした?」
〈キュルルル…!キュンキュンキュアアー!?(うわああ、すごい…!わたしのいいたいことがわかってる!?)〉
「うむ…?そうだな、何となくだが理解は出来る。そんなに驚くことだったか?」
なぜか成立する会話に、グラノアがマントの中でのけ反った。ぷるぷると震える黒い塊を、アグロィは苦笑混じりに優しく抱え直す。
「今までも何となく聞き取れていただろう?何もかわりはない」
そうだ。今までと何らかわりはしない。自分が、グラノアを守り隠すマントになれば良いだけだ。
今回、視力を失いはしたが…むしろ側にいる理由になる。かえって好都合かも知れない。
「ふむ…」
〈キュルル…キュウウウ~(ううっ…おとうさま~…)〉
「ああ…お前も私と話したかったのだな……私もだ。話したいことは沢山ある」
そうだ。今までは隠してきたものを、この子にならば──いや、むしろ必要なことだろう。
アグロィは力強く立ち上がり、大股で踵を返した。
早く──一刻も早く。私の全てを、我が子へ注がねば。
「──まずは、お前のこれからを考えよう。私も共に行く」
〈キュウ。キュウン、キュキュキュウ……(うん。おとうさま、ありがとう……)〉
「──っ!?」
瞬間。
グワッ!!と、アグロィの心拍数が跳ね上がった。
何とか歩みを維持出来ているが、それはもうロボットのようにただ足を動かしているに過ぎない。
懸命に平静を装いながら、アグロィはハクハクと口を開いた。
「なにが…、なぜだ…?」
〈…キュウン。キャアキュキュル、ギュル、ギュルルン?(…ずーっとね。おれいをいいたかったの。ようやくつたわってうれしい…このあいだのたたかい、おとうさますごかった。けが、だいじょぶだった?)〉
ああ。
ああ…やはりこの子は。
素早く辺りを警戒しても、人の気配も、獣さえいなかった。先の咆哮やらブレスやら魔法やらを、放っていたのが幸いしたようだ。
「私は大丈夫だ…怪我など気にする程もない。…お前が無事で、本当に…ああそうだな…。本当に、良かったと思う……」
勘違いでも、願望からくる幻聴でもない。あの日、グラノアから気遣われた時の衝撃は、こういうことだったのだ。
アグロィは、左手で顔を覆った。見える口元は歪んでいる。
自分はずっと、この言葉を求めていたのだ。
感謝され、認められることを。
知らなかったのだ。
こうして気遣われることの、心地よい温かさを。
黒いマントの包みに、アグロィは顔を埋めた。サラリと流れた長い白髪から覗く浅黒い耳が、いつになく赤黒かったのを、マントに包まれ目の見えないグラノアには、気づかれていない。
やがて森がきれると、はるか遠くに巨大なロルドの城が見えた。
アグロィは静かに前を向く。
「生きるのだ…グラノア。私を糧にし、このアンダーグラウンドを生き延びてみせてくれ」
〈ギャ!ギュルアアア~!(それ!だからおもいんだってば~!)〉
「うむ?私は重くはないが?」
賑やかな黒い包みを抱えて、アグロィは大きく跳躍した。
ザザザッ
黒い森の木々が、風に大きく揺られる。丸い月は、青みがかっていた。
竜王の魔力に包まれた空は、しだいに夜へと変化し始めている。
そう。きっと、変化する時分だったのだ──。
◇
「アグロィ──子作りをするのじゃ!!」
「ははっ!ぇ!?い、いえ…その、しかし…」
とんでもない会話が聞こえて、うとうとしていたわたしは思わずパッチリと目が冴えてしまった。
うわぁ…子供が寝てる横で、ナニをやらかすおつもりで?ほらほら、お父様も困ってるじゃないかね。
夜。
お母様のお部屋にあるベビーベッドの中で、本来の姿になったわたしは解放感いっぱいに安らいでいた訳だ。
なんだか不思議な感覚。
自分の中では、赤ん坊の姿こそが、今のわたしのあるべき姿のつもりでいたのに。本当は違っていたのだと、つくづく痛感する。
目が見えない不安を上回る、この気持ちよさ。心の安定っぷり。
うん…夜はドラゴンになって眠らないといけないらしいが、いつもこの姿でも良いくらいだ。
…ダメだと言われたけどね。なぜだ。
「このような子ができるというのなら、どんどん励むべきじゃと思わぬか?のう、そう思うじゃろう?」
「お、落ち着いて下さいませ!…次の産卵まで数百年は空けるのが通例では…うっ」
どさりと沈むベッド。くっつくように隣り合うわたしのベッドにも、振動が伝わってくる。
ひえぇ…お母様がすごく積極的だ!声もいつにも増して艶っぽいし、本気だよこれ…お父様っ、頑張れ!
わたしは良く聞こえるよう、潜っていた布団を少しだけ押し上げた。
いや、変な趣味とかないよ!ちょぴりね、こっそり。
やはり二人の子供としては、両親の仲は気になるのだ…大好きなお父様を応援したい。
お母様の気配が、高揚してるのが、わかる。ちょっと息が荒く感じるのは、やる気になっているからだろう。
対するお父様は…え、押し倒されてるのはわかってたけど、何だか縮こまって小さくなってるような…そんな魔力だ。
うわ、一瞬の僅かな水音。お母様、もしや舌舐めずりしましたか、今?
「ふふ…子がある程度育つまでは、次の産卵など余裕がなくて出来ぬからな…じゃが」
サラサラと軽いものが滑り落ちる音がして、ベッドがゆっくりときしんだ。はぁ…と熱い吐息が聞こえたと思ったら、ちゅる…と艶かしい音と、時おり漏れる色っぽいくぐもった声。
はうぅ!気配だけなのに、音の暴力ですよこれは…!
なにも見えない。
見えないのに、迫るお母様の色気が凄まじくて、わたしは鳥肌ものだ…いや、実際は鱗が逆立っていることだろう。
必死で身を引いていた様子のお父様が、息を飲んだのがわかった。
なんだろう。この、ジンと頭の奥が痺れるような、かすかな甘い匂いは。
しばらくすると、お母様のうっとりした声が聞こえた。
「ふふ…グラノアは良い子じゃ…現にそなただけで回っておるではないか。のう?」
ぶる…と、ベッドを伝ってお父様が震えたのに気づいて、わたしまで息を飲む。
組み伏せられているだろうお父様の気配が、何だか苦しそうだ。
「…っ……ラミレア様も、お人が悪い」
「なぜじゃ?妾は事実を言ったまで。…グラノアは、そなたがおれば大丈夫じゃろう?………魔力操作といい、姿といい、このようなドラゴンを妾は知らぬ。この子はきっと、強い群れを作るじゃろう…間違いないわ」
えへへ、わたしが良い子だって。良い子だなんて言われると、照れ臭い。
確かに、お父様がいればわたしはいつでも安心感に包まれる。でも、まなみ操作?とは何だろうか。それにわたしのこの姿は、やっぱりどこか間違ってるらしい…これは練習が必要だ。あと、わたしが強い群れを作るとはどういうこと?
「──っ…私の魔力は下の下であることは、ご承知でしょう?…くっ、こ、これ以上は、御身に…触ります、ぞ」
「くくく、なんという顔をしておる。強みなど時代によって変わるものじゃろう?それに妾の魔力は潤沢じゃ…そなたの力になろうものを、相変わらずつれないのう」
くつくつと小さく笑ったお母様は、けれどもわたしには嬉しそうに聞こえた。
ぷちゅ…と、再びの水音攻めが。お父様の唇に吸い付いたようだ。
うわわわわぁ…口がっ!お母様の小さいはずのお口が、すごい迫力で仕事してます!おかしいよね?筋肉質で体の大きなお父様の方が、なんで飲み込まれそうに聞こえるんだろね…?
もうわたしは、ドキドキしすぎて訳がわからない。いけないと思っているのに、耳に意識を集中することを止められない。
音をたててお父様を解放したお母様は、ふふふ…と怪しく微笑んだ。その笑い方が、こう…なんというか、欲しくて欲しくてたまらないという欲が、溢れている。
ああ…お母様は、本当にお父様が好きなんだな。と、わたしでもわかった。
そう思ったら、体が動いた。そっと布団を下げて、静かに寝たふりを再開する。
うん…大丈夫だよ。わたしはただの赤ん坊。何にも知らない赤ちゃんなんだ。二人が隣で愛し合ったって、気づかないふりを貫いてやろうじゃないか。
そう気を反らせば、あれだけ生々しく感じ取れていた二人の状況が、ほとんどわからなくなった。
「そう考え過ぎるでない…そんなそなたじゃからこそ、妾は……くくく。グラノアに近しい兄弟もおれば頼りになろう?……遠慮するでないわ」
布団越しにお母様の声がしたと思うと、ふわりと匂いが強まった気がした。
◇
ぶわり─と、匂いが強まった。あらがうことの許されない、ドラゴンの雌の匂い。
ぐう…これほどの匂いでは、最低でも7日はおさまらぬ…ラミレア様は本気だ。まさかグラノアの横でこんな浅ましい真似をすることになるとは……
もう観念する他はない。
すでに息の上がりはじめているアグロィは、腹をくくって隣を見やった。
横のベッドには膨らみがある。身じろぎもせず、すやすやと眠っているのだろう小さなドラゴンが中に居る。
「ふむ…そうじゃな。グラノアには再び眠っていてもらおうか。そなたもその方が集中できよう?」
アグロィの言いたいことを察したのか、ラミレアは左手を軽く振る。
黒い霧のようなものが風を伴い、小さなベッドを覆うも、それは一瞬。強力な睡眠微風のマギアで、よりいっそう深い眠りに入ったのがうかがえた。
解除しない限り、グラノアは目覚めないだろう。
「…ラミレア様に、感謝を…くぅっ」
「ふふふ…妾が邪魔されたくなかったのでな…来い、アグロィ!」
──ビリリリ…ッ、ビリッビリリリリリリ!
ラミレアの寝室から、音にならない咆哮が轟く。重厚な扉が、振動に細かく震えた。
グラノアの耳には、音も何も届かない。
あの状況で爆睡したのかい、わたしはっ!?と叫んだのは、数日後に目覚めてからの話である。
◇
そんな激しい夜の、とある別の寝室でのこと。
「あのアグロィが、やっと奴隷を連れてきたそうですわね…ライオス」
扇からチラと顔を出したのは、美しく口を弓なりにするエリアーデだ。
深紅の瞳も、満足そうに細められている。
「は、はい…。そのようで…」
「よくやったわ…。今夜はあのはぐれモノも部屋に戻っていないみたいですし、わたくしも軽く挨拶してさしあげて来ようかしら」
楽しげにつぶやくその様子に、ライオスが汗を吹き出した。
「いえっ、それはなりません…っ。」
「…あなたの用意した者なのでしょう?」
わからない。という風に小首を傾げる。
確かに、上司のさらに上司が、実は第三分家の第一継承者だとわかれば、現場の士気は変わってくるに違いない。
だが、慌てるライオスはどうにも顔色が悪かった。
「…その…、奴隷商人からアグロィが買い上げたという報告がなくてですね…」
「…は?」
ピシリ…と何かが固く浮き立つ音。
「で、ですから…あの、やつめは城下町の奴隷市には、やって、来なかった…と…」
「………………………………つまり?」
ビキビキビキ!…さらに増えたようだ。
「…どうやら、王都まで出向いて購入してきた…よう、でして…」
ズゴゴゴゴ…と幻聴が聞こえて来るかのような迫力で迫るのは、凄まじい殺気。
それを清楚な顔で優しげに微笑みながら、静かに滲ませて見せるエリアーデの額には、いく本もの青を通り越した黒い筋が見える。
間違いなくラミレアの娘であるといえるその姿に、ライオスはぶるりと巨体を震わせた。
だが、どこか頬が高揚しているのは、何を期待してのことなのか?
寒い夜は、更けて行った。