10.家族
温かくもやさしい、それでいて力強いうねりを感じた。
くるくる くるくる
まるでつむじ風のよう。
…これ…知ってる…。なんだっけ?ああ…こねてから、お腹に入れると熱くなるんだよ……。
ほぅぅ
腹の底から息を吐く。
空気が肺に送り込まれたのを感じ、わたしはまぶたを押しあげた──。
長い長い…とても長い夢を見ていた気がする。多分、悪夢だと思うけれど。
わたしがそう思うのも、無理はない。だって、心臓はバクバクしているし、体は強ばって上手く動けないのだから。
目は開いているつもりだが、辺りは闇一色。でも、じっとり汗ばんだ額には、風を感じる。
まだ夜?……というか、ここどこ?
いつもわたしが休む部屋ではなさそうだ。まさか外なのだろうか。
口を開きかけて──ふと思い出した。
そういえば、前に似たような夢を見たことがある。
ええと…。わたしはまだ、話せなかったんだっけ。設定も場面も凄かった…でも、そんなに怖くなかったんだよね。
そう、あの夢は怖くなかった。お母様は別として。
だからか分からないが、今この状況で、わたしはちっとも慌てたりもしなかった。知らぬ間に外で寝ていたなんて、とんでもないことのはずなに。
風が、動いている。見えないが、移動しているらしい。
耳元でゴーゴーと鳴るのは、電車の音ではなく、風の摩擦によるものだ。
大丈夫…怖くない。
うるさいが、大勢の人の喧騒に比べたら静かなものだろう。ひとまず緊迫した空気もなく、わたしはホッと力を抜いた。
そのまましばらくぼんやりと闇を見つめていれば、暴れていた鼓動が落ち着いてくる。取り巻く風が、気持ち良い。
〈おお…グラノアよ…私がわかるか?〉
…え。
ドキリ。と心臓がはね上がる。
おずおずと掛けられたその言葉は、どっしりと重く悲壮な響きを含んでいて。
ええ-…やっぱり夢?…いやいや、お願いちょっと待って。いま気持ちを落ち着けるから!
〈グラノア…グラノアよ…ああ、すまなかった…〉
呼吸が、乱れる。
──…お父様だ…しかもドラゴンバージョンだぁぁ!嘘でしょう~!?
認識した途端、わたしの頭の中は大混乱に陥った。
〈グラノア…お前を守ったつもりでいた愚鈍な私を、恨んでくれてかまわん…。どう償えば良いと言うのだ……〉
お父様の悲痛に震える言葉と一緒に、心も流れ込んでくる。
わたしが目覚めたことに対する、歓喜。
血が吹き出そうに痛い、後悔。
重い、潰れそうに苦しい、自責の念──。
頭の中が整理出来ないまま、これらの感覚を次々とくらったわたしは、つられるように滂沱の涙があふれ出した。
くっ…なんて重いんだお父様!これ全然止められる気がしないよ…!
お父様の代わりに泣けとばかりに、後から後から、とめどなく吹き出してくる涙。目が溶けてしまいそうだ。
とりあえずお父様よ。落ち着いてくれ。
「あっあうぅー…」
ダメだ…やはり言葉にならなかった。うん、知ってた。
わたしは愕然としながら、涙をこぼし続ける。むろん、赤ん坊の体で。
…夢では、なかったというのか?
…これは、現実。
…多分、あっちは…あれが、夢だったのだ。
混乱しながら、わたしは思い出した。全てを、思い出してしまった。
わたしは────死んでしまっていたのだ。
とっさとはいえ、自分が動いての結果である。あんなことになろうとは、みじんも思っていなかった。
目から大量の水と共に、口元からは嘲笑がこぼれる。
相変わらずなんだなあ…わたし。
どうして忘れていたのだろう。こんなにも鮮明に、最後を思い出せるのに。ああ、胸が痛い…ちょっと考えて、後悔していることに気づく。
せめて赤ちゃんは確実に助けてあげたかった。あれでは中途半端すぎて、危険なままだったんじゃなかろうか。
ベビーカーって、結構あちこち突起があるからなぁ。電車に引きずり出されてないことを祈るしかない…。
覚悟なんて、欠片もなかった。そんな大層なことを考えていたなら、もうちょっとましな動きが出来ていたはず。
そう、何も考えずに飛び出した──つまりは、自分の責任というやつで。
ゴーゴーと、風が勢いよく耳元をすぎて行く。
あああぁぁ…昔から、先を見据えて考えなさいって、よくお母さんに言われていたっけ…。
目先の収入や生活ばかりを取り繕うわたしを心配する、母の顔が浮かぶ。
でも、最後はいつも応援して見守っていてくれた、芯の強さを伺わせる笑顔。
「姉ちゃんってさ。わりとなんでも出来るのに、意外と不器用だよね」「子供好きなのに、結婚しないの?」
愛妻家で子煩悩だった弟は、わたしにも早くいい人を見つけて結婚しろと言った。
幸せになって欲しいと。
「職を変えるのは良い。でも、仕事で身につけた技能は次に活かせるようにつなげろ」「俺はそうしてやってきたんだ。お前にも出来るはずだ」
一人で1から始めた仕事で人を使う立場にまでなった父は、自分の経験則を語った。
新しい職場で疲れたわたしに、成長すれば次が楽になるものだからと。
ああ、ひとつ思い出したら、次々と溢れてくる。刹那的な生き方のわたしには、耳の痛かった記憶ばかりだ。
涙は、ボロボロと落ちて風に散る。
ごめん。ごめんよ、いきなり逝ったりして。…わたしは本当に馬鹿だったね。みんなの言う通りだったよ…。
もう、自分の顔も名前も思い出せない。
だというなのに、お父さんとお母さんそれに弟の、心配を押し殺した表情だけは、はっきり覚えているなんて。
もう戻れない今だから、わかる。
家族は、ものすごくわたしの将来を気づかってくれていたのだ。
そんな家族を苦手に感じていたわたしは、どれだけ鈍感だったのだろう。
…こんなことなら、もっと頻繁に顔を見に帰ればよかったな……。
見守る視線に居たたまれなくなり、それぞれの価値観を押し付けられるようで、いつしか避けるようになった実家。
…二度と、会えない人たち。
わたしは声も出さず、ダラダラと涙をこぼし続けるしかできなかった。
(すまない…すまない、グラノア…。どうか泣いてくれるな…これから私が、お前の目となろう…。私を土台に生き抜くのだ……)
お父様の心の声が伝わってくる。
うう、切ない…お父様の思いが切なくて、ますます泣けてきちゃうんだよう…。
だいたい言うことが大げさだし、そこはかとなく物騒だ。どれだけ自分を追いつめているのやら。
けれど、わたしはなかなか泣き止むことができないでいた。もう少しだけ、泣かせて欲しかったのだ。
風は、変わらずゴーゴーと過ぎて行く。
ん…?気にしてるのは…わたしの…?
ふと。
気づいたのは、お父様がしきりに心の中で謝罪しているもの。
わたしは、自分の顔にそっと手を乗せた。短い指で、瞼をなぞる。
起き上がりながら、改めて辺りを見回してみても──一面の、闇。
風は感じるが、それだけだ。この間と違って、顔を覆う物はない。
なのに、まったく回りが見えてこないなんて。
わたしは顔を擦ると、前にも増してがっちり貼り付いていたお父様に意識を傾けた。
「………お…だうぅあう?」
〈おお、私を呼んでくれたのか?…不安だろうが案ずるな。これからは私がお前の目となり、世界を伝える…なにも心配はいらない〉
さすがお父様。意味のない音を羅列してしまったのに、ちゃんとわかってくれましたか!…ちなみに、お父様と呼びかけたつもりだ。
いやだからね?目になるとか、そういう重いのはいいですから……と、いうか。
「…あぅ?」
──あの、わたしの目は、どうしちゃったのでしょうか?
〈うむ……まずは、お前は元の姿に戻るのだ…〉
へ、元の姿?…また急になんのこと?
首を傾げるわたしに、お父様は小さく頷く。かと思うとおもむろにブレスを吐いて、体内の魔力を渦状に練りはじめた。
〈…動いているのはわかるな?…次はマギアだ〉
「……う~?」
ええ、動いてるのはわかりますけれど。どうしたいのだろう?
わたしの戸惑いは伝わらず、今度は魔法を吐くお父様。この鋭い風の音は、真空刃嵐だと思う。
見えないからか、その力の動きはまるで決められたダンスを踊るように、委曲を尽くして伝わって来る。
くるくる くるくる
おお~…、さっきのブレスよりも渦を細かく感じ取れる。ただ回るだけでなく、緩急が激しいようだ。
ああ、なるほど。
ただ燃える息を吐くブレスと違って、真空を風で挟み紛れこませている魔法だ。それなりの技量が必要なのかも知れない。
へぇ…どんな魔法かを意識して作ってるのが、よくわかる…。単純に結果をイメージするだけでは、出来ない芸当なんだね…。
わたしが初めて使った魔法は、銃をイメージしたものだ。
でも、弾は特に風とか氷とかそういうことを意識していなかった。だからよくわからない光の粒になってしまったのかも知れない。
気づいてしまえば、面白かった。つい前のめり気味にドラゴンの体内に集中する。
なにより、お父様の渦巻く力は、温かくて心地好い──。
そんなわたしにお父様も気づいたのか、今度は満足そうに頷いてくれた。
すごい。見えてないのに、ちゃんと感情が見える。
あの仮面みたいに無表情な顔や、表情の分かりにくいドラゴンの顔が、目に入らないのも良かったのだろう。
お父様って、意外と感情豊かだよね。すごく熱いハートの持ち主だし。
〈…次は、人の姿に変身する〉
フワリと速度を落とし、お父様はゆっくり降下し始めた。
同時に、細く絞られ、巨体を覆うように巡りだしたのは魔力の糸。
やがてちょっとしたドームのような塊になると、脳裏に人の姿のお父様が浮かんだ。わたしの良く知る、格好いいお父様だ。
ひょううぅぅぅ…
耳に届く風の音が変わった。冷たかった高度の空気が、地表の温いものに入れ替わる。
けして留まらない渦巻く魔力につき従うように、風が逆巻く。滑るように降下するお父様の体が、ふわりと一瞬、浮いた気がした。
すと…ん
気づけば、もうそこは空ではなく。
わたしを抱いたお父様が、まだ濡れているわたしの頬を、武骨な指でそっと拭う。地上だと思うが、景色は見えない。
やっぱりね…うん、何となくわかっていたよ。
「…だぅぅ…」
がっかりして、わたしは肩を落とした。ヒトの姿のお父様が見えなくて寂しい。
固くて熱い腕を抱きしめて、わたしは安心感を噛みしめる。
「…わかったか?うむ、偉いなグラノア…次は一緒にドラゴンに戻るのだぞ?」
は、ドラゴンに…戻る?一緒に?
ああ、そういえば、そうだった。お父様もお母様も、巨大なドラゴンに変身する。
あれが…本来の姿なのか……ほんら…ぃい────っ!?
わたしは文字通り固まった。
ドラゴンの両親から生まれた自分も、やはりドラゴンだということくらい、わかっている。
いや、わかったつもりでいて、正確には理解できていなかったようなのだ。
ドラゴン…わたしの本来の姿が、ドラゴン……いや本当ですか!?
今更といえば、いまさらなことではあるが。
わたしは、自分がドラゴンとして生まれ変わったという事実に、ここに至ってようやく気がついた瞬間であった──。
◇
グラノアがなぜか酷く動揺している。見て、アグロィは小さく笑みをこぼしてしまった。
寝顔も可愛いかったが、やはりこうして表情豊かな様は、この子が生きていると感じられる。
瞳の色は確かに違うが、何が変わったというのだろう。
グラノアはグラノアでしかない。
「…緊張しておるのか?…大丈夫だ」
アワアワしているグラノアを、アグロィは目を細め、優しく撫でてやった。
なんと賢しい子なのだろうか…。グラノアは、間違いなく私の魔力を感知している。
盲目となったから故なのか、もしくは元々の授かり物かは知らぬが……これならば、いずれ視界は確保出来るだろう。
『魔素感知』──という技能がある。
全ての生き物、もの言わぬ木や石、水や空気、色に至るまで。
この世界のありとあらゆる物が、魔素を備え、微弱ながらそれを放出することで、存在感を保っているという。
魔力操作に長けた者は、離れた場所の微細な魔素をも感知することができるという。それをもって、視力に頼らず遠く離れた土地の様子でさえ〈見る〉ことが叶うというものだ。
──これは〈千里眼〉と呼ばれ、このアンダーグラウンドではザクシロア王国の王のみが有する創作マギアのひとつである──
何も〈千里眼〉ほど遠くを感知する必要はない。
辺りの様子を、視力の代わりに魔素を感知して〈見る〉ことができるのならば……
アグロィは、スッと背筋を伸ばした。
「さあ…共に本来の姿に戻ろう。…力を抜くのだ」
「……………ううぅ」
そっと抱きしめ、言い含めるように囁いてやれば、腕の中で、小さな赤子が呻いた。
伝わったのだろう。ほんの一瞬、強ばったグラノアは、目を閉じると弛緩して────
◇
そう、あれはまるで蚕の繭だ。
蚕は、生涯のほとんどの時間を食べることに費やす。ひたすら食べ続けて、あの質と量の絹糸を吐くわけだ。
そう思うと、お父様ってやっぱり凄いよなぁ…。
それが、お父様の変身から感じたわたしのイメージと感想である。
渦巻く大量の魔力に包み込まれたお父様は、絞られるように容量を一気に変え圧縮されたみたいだった。
それを、解き放つというのなら…糸をほぐす必要があるだろう。
蚕の繭は、茹でて柔らかくしてから糸を巻き取っていくが、そんなことをしていては時間はかかるし目も回る。
いやいや。確か蚕自身は、口から溶解液を吐くんだっけ?
…うっぷ…わたしは人間だ。ここは文明の利器、ハサミでしょう!
中身を取り出したければ、繭を切って破けば良い。覚悟を決めたわたしは、目を瞑った。
鱗が艶々と黒光りして美しい、お母様……。
銀混じりで引き締まった体の、お父様……。
子育てする生き物の大半は、親こそが手本である。そこはわたしも異存はない。
他でもドラゴンは何体も見た。あのようにゴツゴツと厳めしい、見かけばかりが偉そうな姿は、正直御免だ。
どうか、どうか──せめてお父様のようにスマートな…そしてあんまり怖くないドラゴンでありますように──!
一応、生まれ変わったとはいえ、元は地味で冴えない無害を目標にしていたお姉さんなのだ。…お姉さんなのである!
命を狙ってくる、岩のような刺々しい鱗のドラゴン達。あれを見てしまったら、その姿にはとても良い感情など持てやしない。
余程でない限りは受け入れるつもりでいるが……祈るくらいは許されると思う。
きっちり巻かれた繭のような魔力を、バツン!と一気に切りさいた───その瞬間。
「う…ぁあああぁ……っ!」
光が。
見えない瞼の裏に、溺れそうな光がいっぱいにあふれ返った。
暗闇にいたのにこんな光の海に放り込まれるなんて、魔法は本当に予測不能だ。
──っ、お父様……そばに、いるよね…っ?
わたしは夢中で、お父様の気配にすがる。
メリメリという音と共に、解放された魔力が本流となり風が逆巻き空気が歪む。
──銀混じりの黒い鱗に覆われた、巨大なダークドラゴンが現れた───お父様である。
その隣で。
…ひ…ひえぇぇぇ…怖いよ~…。変身なんてわたしには無理だったんだわ……。
わたしは、情けなく地に這いつくばっていた。
予想外の眩しさにびびりすぎて、お父様に抱きつこうと思ったのに、変身の膨張に弾かれたのだ。
何しろ、見えない。
光が鎮まり、視界は元の闇に戻っても、わたしの心臓は不安でドコドコ喧しいままだ。大体、自分がどんな格好をしているのか、ちゃんとドラゴンに変身できたのかさえわからないのだ。何となく解放感はしっかりあったので、何かしらは起こったはずだけれど──。
〈キュ…キュィイー?〉
お…お父様?
〈──……な…グラノアか……ッ!?〉
隣に感じるお父様を呼ぶも、口元の感覚がどうも妙で、おかしな音が出てしまった。それに、聞こえたお父様の声も何だか様子がおかしい。どうもうわずっているような。
〈キュィイ──ッ、キュキュンッ!??〉
う…わああぁぁぁ、わかってる!やらかしてるんでしょ!?あの光、なんか変なことになっちゃってるんだよね!?
お父様から感じる、焦り。それに気づいた途端、どっ!と不安に襲われた。
立ち上がろうとして飛び起き、つんのめってバタリと倒れた。気持ちが追いつかなくて、挙動不審に陥ってるのだ。見えもしないのに走ろうとして転び、ばたばたと体をばたつかせ。何やら浮遊感と共に羽音も聞こえる。
「──まっ待て!グラノア、落ち着くのだ…っ!」
〈キュィ…キュゥン?〉
あ…あれぇ?
ぐいと力強く抱きすくめられた感触。ああ、これは逞しいお父様の腕だ。いつの間に人の姿になったのか。
よく知るぬくもりに抱きついて、わたしはほぅと息を吐く。
と…騒がしい心音が聞こえた。
え、お父様…だよね?すっごくドキドキしてるけど…どうしました?
なぜか、心拍数がやたら高かった。これがドラゴンのデフォルトなのだろうか。
そんなことよりも人心地つけたわたしは、へにゃりと体の力を抜いた。
人の体温と心臓の音って、こんなにも気持ちの良いものなんだね。
耳元の響きに意識を向ければ、すっかりと落ち着くことが出来た。お父様は、わたしの清涼剤に違いない。
「しばらくじっとしておるのだ…っ!動くでないぞ…っ!?」
〈キュアァ?〉
へ?なんで?
わたしは落ち着けたのに、お父様はそうでもないのか。
なぜか必死さが滲んで聞こえる声に、わたしは首を傾げるしかなかった。