実のない話。
アジサイの青紫って、水に滲んでみえる。
手袋をした男は、葉っぱ付きのあじさいを、面白そうに眺めていた。市場から取り寄せたそれは立派で、小ぶりながら団子のような形になって咲いている。
男が言った、青紫色のがくは互いにひしめき合いながら上を向いている。実際にあるアジサイはがくの中央部で咲く小さな花だというから、それで不便なんてないんだろうが、本当に窮屈そうに見えた。自分よりはるかに背の高い男の手が大きくとも、それとは関係なくずっしりとした存在感があるのだ。
「水に、ですか。それは植物として、そうなって当たり前じゃないですか」
「紙をね、色水にちょっとだけ浸した時に似てると思わない? リンドウやスズランとは違った趣があっていいよ」
「趣ですか。まあ、アレンジメントするにも、私は洋より和向きだと思いますよ」
そうかな、と不思議そうに呟いた男は、まるでアジサイと相談するように首をかしげた。がくのいくつかは男の動作を受け、小さくうなずいたように見えた。頭でっかちなので揺れているだけだが、男は嬉しそうに、ねえ、と笑っている。
そうかな、という問いに対してうなずくのは、否定か肯定か。仮にうなずいたのだとしても、私の言葉に頷いたのではないか。そもそもうなずいたと判定していいものか……無視するのに限るか。
男が嬉しそうにこちらを向いて、ほら、と言うのに、最後の選択肢はほぼなくなったが。
「でも実際、花は植物でしょう。滲んだ色なんて、実際は珍しくないとも思いますけど」
「例えば?」
「コスモスなんてどうですか。たまに濃淡のはっきりしたものがありますよね。それより多種多様ですと、ポピーなんかはいい例でしょう。あれは品種改良で花の縁だけ色が違うのとか、とかく色々ありましたよね」
品種改良なんて、と小さく呟いたのが聞こえてきたが、論点は滲んだ色に関してであったはずだし、苦し紛れだろう。それ以外は認めない。面倒だから。
「ああ。早く仕事終わらせましょう。私、この後はスズランの担当なんです。押してるんですよ」
「いきなり対応がおざなりになったね」
ちょっと残念だよ、という声は無視する。押しているのは本当にことで、予備が欲しいとせっつかれているのだ。それだって前もって定数はこちらが用意しているのに、だ。白く可憐な花は愛らしく、欲しい気持ちはわかるのだが、もう少し考えて使ってほしい。アジサイだって、そういった要望で急遽必要になった。
私のもつアジサイは緑色をしている。所々が白く、周辺の緑は縁側が濃い色をしていた。青味が強く、いわゆるビビットカラーのアジサイに比べると、緑色は薄い膜でも張ったかのようなパステルカラー。優しい雰囲気は、アジサイを中心にしたアートフラワーなら補助色としていい仕事をしてくれそうだ。
鋏を手に、アジサイの茎を全体の半分ほどまで切る。店頭で売るのはばら売り用だから、こういった時は少し手間に感じる。
「怖い顔してると、眉間に皺ができるよ」
「もうとっくに作ってますから、ご心配なく」
男は肩をすくめ、処置の終わったアジサイを水の入ったバケツに挿す。その手で追加入荷したアジサイを、梱包された箱から取り出す。箱には敷き詰めるほどでないにしろ、それなりの量のアジサイが入っている。こちらは赤色で、青紫と同じく、色味が濃い。
すずなりになっているがくの中央部はちらほらと花が咲いていた。がくに良く似た色の五枚の花びらと白い雄しべは、こちらを手招いているように可憐だ。
男はそのうちの一つを丁寧にとって、また眺めている。小さな花を見つめる顔は、魅入られたもののそれだった。
「仕事してくださいね。大事な仕事なんですから」
「ああ、うん。でもやっぱり、アジサイってかわいいよねえ……あ、あの仕事終わったの? そろそろ取りにくるんじゃないの? あのお客さん」
「先程から実のない話ばかりして。手を動かしてくださいよ。それと私の仕事、把握してるなら、きびきび働いてくださいよ」
「上司にそういうこという?」
「上司だから、言わないと部下のことなんてわかってくれないでしょう」
お互いに呆れた視線を交わして、ため息も同時に吐きだす。
いやだ、変なところで似てしまった。
「ご希望通りにアレンジメントをしてみたのですが、いかがでしょうか」
「綺麗ですね。カサンブランカに芍薬に……バラも添えていただいて」
「小振りのバラですと、こうやってバランスをとるのにちょうどいいのですよ。色もたくさんありますし、薄桃色を使ってみました」
私の言葉をどれだけ聞いているのか、お客は胸の中に納めた花束を、視線で愛でていた。
花が大きいカサブランカは白。芍薬も白……お客の要望だから、これはまあ当然なのだが、真っ白の花束は少し味気ない。なので、少しだけ色を入れてみた。それもほんのりと色がついている程度なのだけど、お客の反応は悪くなかった。純白のイメージは人によって犯しがたいものがあるようで、色を入れるのは嫌がられたりもするのだが。
それでやろうという考えになる方がおかしいのか。
黙考するまでもなく、そういうことなんだろう。幸いにしてお客は気に入ったようだし、次は気をつけよう。覚えていたら、だが。
「お代は以前の希望金額どおりですので」
「ありがとうございます。妻も喜びます。本当に、本当にありがとう」
目尻に皺の濃い、シミと皺だらけの痩せた手をした男は、大事そうに花束を抱えていた。決して小さくない花束を、胸に寄り掛からせるようにして、空いた手で花びらを触りたそうにしている。そうすると花びらが取れて全体のバランスは損なわれてしまうが、気に入ってくれたのなら、それはそれでいいだろう。
かわいがってもらえるのは、とてもいいと思う。大事にしてもらって枯れた花はきっと存在がなくなる時にも、綺麗に消えることが出来そうだから。
「よき日を」
「ありがとうございます。あなたも、よき日を」
お客はそう言って、店を出ていく。にこやかな顔をして、外へ出てからも背を伸ばして闊歩する姿。それを見送って、受け取ったお代をレジに押し込んだ。あの客が帰ってしまえば、もう当分はだれも、客は来ないのだろうと思いながら。
閑古鳥のなく店なんて、早く辞めてしまいたいとも思ったが、あの上司は中々毒虫だ。殺虫剤で退治してからでないと、辞めさせてもらえそうにない。
「それにしても、実のない話だったなあ」
大きく背伸びをしてから、しんとした店の中を後に、あの男のいる地下へと逃げた。
読了、ありがとうございました!