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彼女は約束の時間に少し遅れてやってきた。もう陽がだいぶ傾いて、東の山が夕焼けに赤く燃えている。真奈はこの前と同じ席でコーヒーを飲みながら時間を潰していて、まるで一昨日のそのままつづきのようだった。
八重葉はこちらを見つけると軽く手をあげた。
「やあ、ごめん。ちょっと野暮用でさ」
「わたしもさっき来たところだから」
冷めたコーヒーにミルクを開けながら真奈は応えた。八重葉は向かいに座り、ブレンドを注文すると、意味ありげに視線をよこした。
「それで八重葉、きょうは――」
「この街はなんだか僕らの町に似ているなって思うんだ。初めてここに着いたときから思ってた。そうは思わない?」
真奈から窓の外どこか遠くに視線を向けて八重葉は言う。なんだか居心地が悪くて、真奈は椅子の上で何度も腰の位置をなおさなければならなかった。一度外した腕時計を付け直そうとしてうまく場所が定まらないときの感覚に似ていた。遠くを見る八重葉の横顔は、口の端がわずかにゆるんでいる。
彼女には何が見えているのだろう、燃える山並みだろうか、それとも窓に映り込むわたしたちだろうか。あるいはもっと遠くの。
「八重葉?」
「ねえ真奈。ボクもいちおう、ちゃんと考えてきたんだよ。どういう答えを出せばキミが満足してくれるかなって。キミがどういう答えをいったらボクは満足するかなって」
「わたしにはあなたが何を言ってるのかよくわからない」
「考えてわかったのは、ボクはキミがどんな答えを出したとしても、それを喜んで受け入れるだろうということだ。そしてきっとキミもボクがどんな答えだってそれを正解だとしてくれるだろうなと思った」
注文していたブレンドコーヒーが来て、一口だけ口をつける。
「けれど、じゃあ何を言ってもいいんだとなると、それはつまらない。とてもつまらないと思うんだよ。だってそもそも答えのないものなんだ。だったらせめて良い正解を見つけたいじゃないか。そうじゃない?」
「良い正解?」
正解に良いも悪いもあるのだろうか。正解、真偽というのは、文字通り正しいか誤っているかで判断されるもののはずだ。真実と虚偽。正答と誤答。そこに善悪がつけいるのは不純なことのような気がする。
「そうじゃない、つまり僕らはその真偽を正しく確かめるすべを持たないわけ。それが問題なんだよ」
例えばだよ、と前置きして八重葉は言った。
「あの日、僕らふたりは在りもしないものを殺して、何かを埋めて、何かに追われた。さてここ一人の女の子を新たな登場人物としてくわえるとすると、彼女にはどの役が相応しいだろうか?」
殺される役か、埋められる役か、追う者の役か。
さあどうだい、と八重葉は問う。
彼女がなぜ微笑んでいるのか、真奈には全然わからなかった。
◇
寝袋に詰めるのは簡単ではなかったが、難しいことではなかった。窓から庭に落として、ゴミ袋に包み、上から寝袋を重ねる。姿勢を変えさせるのに少々手間取ったが、それだけだった。寝袋は大きな芋虫みたいな形になった。
そこまでやって、さてこれをどう始末しようか、わたしは途方に暮れた。
細切れに捌くとか、燃してしまうとか、知識だけはあってもどれも実用的とは思えなかった。自宅の庭に埋めるなんてのも論外だ。ふと視線を上げるとわたしたちの町を取り囲む山々が目に入り、そのなかに捨ててしまえばと思いついた。あまり念入りに場所を考えても面倒が多いし、近くにはふさわしい場所もない。山の適当な場所に埋めてしまうのは、難しい技術もいらないし手軽そうに思われた。しかし、運ぶにはやはり一人では厳しいものがある。リヤカーが一台あるけれど、この寝袋を載せて運ぶとなると簡単ではなさそうだ。
彼女に言うべきだろうか。
いや知らせてはならない。
現実的な計算と神聖な信仰が秤の上で大きく揺れる。彼女にこんなことを教えてはいけないという思いは、一度生まれると野火のように広がった。彼女に知られてはならない。気高い彼女にこんな汚いことに触れさせてはならない。やはりわたしだけで全て始末してしまうのが一番なような気がする。
思案を巡らせているうち、彼女にまとわりつく忌々しいあの子のことを思い出した。残骸を弔うのは好きなはずだ、いつもやっているんだから。
われながら良いことを思いついたと、わたしは薄く笑った。この芋虫は、とりあえずいまは物置に隠しておいて、あとであの子に頼んで山まで運ばせよう。わたしは庭を芋虫を引きずって横切り、物置の中に力任せに押し込んだ。
うまくいったと、安堵して息を吐いたとき、背後から声がした。
彼女の声だ。帰ってきたのだ。彼女に知られてはいけないという思いが再び大きく燃え上がった。どうしようかと迷い、どうしようもないと現実的な計算が冷静に告げた。何処にも逃げ場なんてなかった。声はもうすぐ近くまで迫っている。
わたしは物置のなかに飛び込んだ。じっと息を潜めていると、少しずつ彼女の声が近づいてくる。どうやらあの子も一緒にいるようだ。何と言っているかはくぐもって聞こえなかったけれど、少し興奮してはずんでいるような、なのに寂しげな、おかしな様子だった。声が近づくにつれてわたしの心臓の音も大きくなっていく。
なんで? なんでこっちに来るの?
庭には物置しかなくて、彼女はふだん全然近寄りもしないのに。わたしはいよいよ息を詰めて全身を耳にして外の様子をうかがったけれど、鼓動がうるさくってまともに聞こえはしなかった。
足音が物置の前で止まる。彼女の声がする。
もう言葉まで聞き取れるほど近かった。
「ここに死体を隠したの」
え?
死体だって。どうして彼女が死体を知っているのだ。わたしはまだ誰にも言っていないのに。彼女にだって知らないはずなのに。それにここにはさっき押し込んだばかりなのだ。私以外にはまだ誰も知らないはずなのだ。
彼女は物置の戸に手をかける。
「あれ、重い。ちょっと錆びちゃってるみたい」
わたしは泣きそうになりながら内から足で戸をしっかり押さえた。
どうして。どうして。どうして。でも泣いたらバレてしまう。物置のなかは真っ暗で逃げ場がなくて、ほかにどうしていいかわからなかった。
ふと、目の前の寝袋に手が当たった。
逃げ場だ。
そう思った瞬間に厭な感じが背中を走った。どんな理由があったって、寝袋に死体と一緒に入るなんて御免だった。けれどいつまでも戸を押さえているわけにもいかず、寝袋の口を開けて、すべり込める隙間を探った。
空っぽだ。
さっき重い重い男の死体を詰めたはずの寝袋のなかは、真っ黒いがらんどうだった。周りよりもなお暗い暗闇がぽっかりと口を開けている。もう全然。さっきから一体全体どうなっているのか。まったくわけがわからなくって、わたしは混乱しすぎて流していた涙さえ止まってしまっていた。
「おねがい、一緒に引っ張って」
彼女があの子に言うのが聞こえる。戸はより大きな音でガダゴトと揺さぶられる。もうこれ以上、ひとりでは抑えきれない。
「せーの!」
わたしは物置の戸を抑える足をぱっと離すと、そのまま寝袋の暗闇に飛び込んだ。
◇