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「どういうつもりなのかな」
「どういうつもりって?」
ちょうどシャワーを浴びたところで、八重葉からの連絡があった。身体にのこった水滴をタオルに吸わせながら真奈は応えた。
「なんだかキミはこの十年でだいぶ変わってしまったみたいだ。当たり前なのかもしれないけど」
「それはあなたのほうよ、今日のあなたは十年前とは全然ちがった」
「ボクは昔のまんまだ。変わったのはキミだ」
「わたしは全然変わっていないわ。あなたと同じよ」
「じゃあボクが変わってしまったのかもしれない」
「そんなことないわ」
「ほんとにそうかな」
十年のうちには色々あるから、と八重葉がちいさくつぶやくのが漏れ聞こえた。
「でも、だってわたしたち、あの喫茶店ですぐにお互いのことがわかったじゃない」
「ボクはどんなにキミが変わってたってすぐわかったと思うよ」
「じゃあわたしが変わってたっていいじゃない」
わかったよ、と溜息をつくのが聞こえた。電話口の向こうで掌を天に向けてる格好をしている八重葉の姿が見えるようだった。本当は、八重葉は全然同じじゃない。今日みたいな八重葉を真奈は知らない。
でも十年という時間のうちには色々なことがあるし、真奈だって昔と同じではない。もう高校生の女の子ではない。それに彼女の前からいなくなったのは真奈のほうなのだ。十年前も。今日も。
八重葉はすねたような声を出して真奈をなじった。
「まさかまた置いて行かれるなんて思わなかったから、ちょっと焦った」
「でもこうしてまた話している」
「そう、今度は連絡先がわかったからね」
真奈が残したメモのことだ。「ごめんなさい、どうしても急いで帰らなきゃいけないような気がしたものだから」
「それはもういいさ。君はこの街にどれくらいいられるの?」
「一週間の予定だけど」
「明後日は会える?」
下着を着けながらスケジュールを思い浮かべた。
「大丈夫だと思う」
「じゃあ明後日の夕方、またあの喫茶店で会おうよ。そのときに今日のつづきをやろう」
「つづき?」
「つまり、ボクらはあの日何を埋めたのか、あるいは何に追われていたのかついて」
「ねえ八重葉、わたしほんとにそんなつもりじゃなかったのよ」
どうしてこんなことになってしまったのだろう。真奈は頭を振って嘆息した。
なぜあのときに簡単に認めてしまわなかったのだろう。本当なら、あそこでわたしと八重葉は一緒になれるはずだったんじゃないかという気がする。もちろんそれは突飛な夢想だけれど、もしかしたら。ひょっとしたら。今頃わたしたちは一緒にいられたかもしれないのに。
それなのに、どうかしらね、などと意地を張って。
でも、と言い添えて八重葉はひとりで話をすすめる。
「ボクも考えるから、ちゃんとキミも考えてきてよ」
「考える? 何を?」
「あのとき僕らは何に追われていたのか」
そう告げる声は少し楽しそうに震えていた。
ボクはあの日埋めたのは何だったのかを考える。だからキミは、ボクらが山で何から逃げたのかを考える。これで公平なのではないか。明後日また会ったとき、考えた回答をお互いに交換し合おう。そうしたら、今度こそキミからお礼をもらうよ。
八重葉が言ったのはおおよそそのようなことだった。
「でも、それって答え合わせができるものかしら」
「それは僕らふたりしか知らないんじゃないかな」
笑いながら「それじゃまた」と八重葉は電話を切った。
真奈はベッドに身を投げて考えた。
あの日わたしたちは何を埋めたのか。
あの日わたしたちは何に追われていたのか。
誰にその答えがわかるだろう。どちらももうはるかに遠く過去に流れさってしまった。彼女との日々はいつまでも色褪せることなく思い描けるが、流れさってしまった事柄まで手繰り寄せることはできない。誰にもできないだろう。そもそも、それはわざわざ考えるべきことなのか。答えも真相も、どちらも互いに気づいているのに、それをわかった上で一体何を考えろというのか。
手帳を開いてスケジュールを確認する。明後日また会う時間があるとはいっても、仕事できている以上、暇なわけではない。手帳をバッグに放り投げて、ゆっくり瞼を閉じた。もちろん自分で選んだ仕事だから嫌ではないが、だからといってすべての疲労がやり甲斐として喜びに変換されるわけではない。単純に疲労は疲労として、澱物のように積もり、よどんでいく。
胸にたまった息を吐き、下着のまま眠りに落ちた。
また、遠いあの日の夢を見る。
◇
わたしは物心つく前から彼女と一緒だった。わたしは彼女であり彼女はわたしであった。彼女は気高く、時には傲慢でさえあった。そこにはなんの迷いも躊躇いもなく、それがありのままのわたしたちだった。わたしたちと周りの世界とはほんの薄膜で隔てられており、外で起きるすべてのことはわたしたちとは一切関係ないことだった。誰かが、いや何かが生きているということさえ、わたしたちにとっては世界に満ちるノイズでしかなかったように、わたしには思えてならない。
何かが生きている、植物が昆虫が動物が人間が、生きているとはどういうことなのだろう。それが知りたくて、わたしたちは生きているということに触れてみたくて、くりかえし生命に触ってみようと試みた。圧し潰し、踏みにじり、切り開いて、蠢く内奥から生命のようなものを探り出そうと何度も何度もまさぐった。
結果からいって、そんなものは何処にもなかった。
いつも途中で飽きてしまうわたしの代わりに残骸を弔うあの子は、わたしにとってはちょっと邪魔な子だった。
薄膜の向こう側という意味では、母もまたノイズの一種に違いなかった。世界と隔てられる前から母とわたしとは薄膜で隔てられていたのだということを思えば、その隔たりはむしろ世界とよりも深刻なものかもしれない。唯一へその緒でつながっていたという不可避な生物学的事実だけは、悔恨の極みという他ない。
そういうわけだから、母が父の知らないところで誰と何をしようとも、それもわたしにはどうでもいいことだった。不義理とか不道徳とかいうことは、生命の問題にくらべればまったく取るに足らないことでしかなかった。言ってしまえば、いまだに母親から生まれたいうことさえうまく飲み込めないわたしにとっては、やはりそれもノイズでしかなかったのだ。
けれど生まれるというのは生命の問題だ。だから母親も生命の問題のうちである。大事なことはそれだけだったが、母が見知らぬ男性と生命の問題をやりとりしているということに関して、だからわたしは、耐えがたい無関心と苦々しい好奇心の狭間で身体をふたつに引き裂かれていた。彼女はいつも無関心を選んでいたから、わたしは残った好奇心を受け持った。
その狭間にあるうちは、かろうじて何も起こらずに済んでいた。わたしは誰にも会いたくなかったし、それは向こうも同じだったろう。三角形は、それはじつに心細い辺によって支えられていたけれど、なまぬるい安定のうえによどんでいた。
三角形はひとつの頂点を欠くことでたやすく崩れる。
それがあの日起こったことのすべてだ。
ことは呆気なく終わった。
わたしはそれはもっとつらく痛いものだと思っていた。絶対に自分からしたいなんて思ったことはないし、またすることになるとも思ってはいなかった。でも彼女がそういったものをすべて捨て去ろうというのならば、わたしがそれを受け持つしかないではないか。
それはわたしの抵抗もよそに終わった。血も出なかった。
激しく荒れ狂うノイズのなかで、気づくとわたしの足元にそいつは倒れていて、もはや動くことはなかった。もうそれは一言も発さぬ大きな生命でないものだった。握っていたハサミを取り落とし、カーペットの上で金属が軽快にわらった。
とにかくその場を離れなければならなかった。よろめきながら風呂場に向かい、こんなのはいつもと一緒だ、大したことではないのだと唱えながら、何度もわたしはえづき、排水溝をつまらせた。シャワーで無理やり流して、そのままお湯を頭からかぶった。シャツがべったりと体に張り付いて、はじめて服を着たままだったことに気がついた。
どれくらいの時間、そこに座り込んでいただろう。わたしはずっと、排水溝に吸い込まれる水の流れをぼんやりと見ていた。シャワーはわたしの肌の上を流れて、汚いものをみんな洗い落としていく。なかったことにしようとする。そこに残るのは表面の汚いものが剥がれ落ちてあらわになった汚い私だけだった。
そのうちに動転していた意識の混濁も少しづつ晴れてきた。自分が何をしたのか。現在どういう状況にあるのか。そしてこれからどうすべきなのか。
思考が冷静さを取り戻し、またわたしは世界から離れていく。そこで起きることは本質的にはわたしには関係ないことなのだ。そこには生き物でなくなったモノに対する基本的な無関心しか存在しない。これからどうすれば良いかというのは実際的な問題に過ぎず、それだけがわたしの手元に残った課題だった。
わたしはシャワーを止めて濡れた服を全部ゴミ箱に投げ捨てて、部屋で新しい服に着替えた。部屋には動かぬものが横たわったままだったが、さっきまでは服を剥がれるだけでもひどく抵抗していたのに、いまでは裸でいてもなんとも感じなかった。新しい下着と新しいシャツと新しいスカートをつけると、わたしは庭の物置から大きなゴミ袋と寝袋を引っ張り出した。
◇