相互作用
街の小さな喫茶店は、今日も雨の中。
しとしとと降る雨は、窓に雨粒を生み出し。その雨粒は、つ、と滑り落ちていく。
彼は、その落ちていく雨粒にそっと指をあて、落ちる流跡に合わせて、滑らせていく。
曇ったガラスに、垂直な線が、伸びる。
「ねえ」
彼は、そっとつぶやく。
彼女の好む紅茶の香り。その小さな分子が、彼の嗅覚受容体を優しくなでている。
「この雨粒。君、動かせる?」
尋ねる彼に、彼女は、くすっと笑う。
「そんなの無理だよ」
「どうして?」
「さわれないもの」
その答えを聞いて、彼も、ふふ、と小さく笑う。
「動かす方法、教えようか」
その言葉に、彼女は首をかしげる。
窓ガラスに隔てられた外側。
そこに手を触れることもできないのに?
「この世のすべては小さな粒でできてるんだ」
あ、これはまずい。
と、彼女は思った。
これは長くなるやつだ。
ちょっと物理オタクな彼は、時々、こんな話を始めがちで。
周りの女子たちも、あの人、ちょっと変よね、と距離を置きがちで。
でも、彼女は、案外、嫌いでもない。
だから、時々、暇を持て余したとき、彼の誘いに乗ってゆるいデートくらいのことはする。
付き合ってるのかどうかは、分からない。
「僕がこうしてガラスに触れて、押し返されてるとき、僕の指の粒と、ガラスの粒は、お互いに反発してる」
「でもね、じゃあ、どうして、僕の指に押されたガラスは、バラバラにならないんだろう?」
それは問いの形をとっているけれど、黙って聞いていればいいのだと、彼女は知っていた。
「ガラスの小さな粒の間には、引き寄せ合う力が働いている。だからガラスはバラバラにならない」
「だったら、やっぱり、雨粒を動かすのは無理じゃない?」
時々、こんな相槌を入れてあげる。すると、彼の瞳が輝くのを、彼女は知っている。
「引き寄せ合う力は、相互作用って言うんだ。そして、相互作用は、もっと小さな粒を、お互いに交換し合うことで起きる」
「粒と粒が、もっと小さな粒を交換し合ってる」
「そう。そのもっと小さな粒は、どんなものでも突き抜けていって、自分が渡される相手を見つけ出すんだ」
彼女は、ふうん、とうなずく。
「もし、僕が、この雨粒にだけ届く小さな粒を指先から出せて、もし、雨粒が、僕にだけ届く小さな粒を僕に返してくれるのなら。きっと、雨粒は、動くんだ」
「じゃあ、雨粒と仲良しになればいいのね」
彼女のその言葉に、彼は、ドキリとする。
この後、彼が続けようと思っていた言葉を、何か、先取りされたようで。
「うん、多分、そうなんだ。仲良しになって、いろんなものをやったりとったりできるようになって。この世を構成するすべての粒は、そんな風に、周りの粒から受け取った相互作用で、その飛跡をちょっとずつ、変えてる」
彼は、窓ガラスに、もう一本、『飛跡』を描く。
途中で止め、さっき描いた雨粒の飛跡から、細い線を出す。
あみだくじのように引かれた線は、新しい飛跡にぶつかり、そこで、新しい線が、古い線の方に、ほのかに折れ曲がる。
「小さな粒を受け取って、ほら、ちょっとだけ、近づいた。これが、引力」
そして、古い線と新しい線の間に階段のように小さな線を引きながら、下まで伸ばしていく。二つの線はちょっとずつ近づいていく。
「この小さな粒、素粒子って言うんだ。聞いたことある?」
「もちろん。君の与太話、どれだけ聞いてきたと思う?」
彼女が言うと、彼は、また、くす、と笑った。
「僕の飛跡も、だいぶ曲がっちゃった」
彼の言葉に、彼女は、ちょっと真顔になって、大きく首をかしげた。
「君からとんできた素粒子。君に飛ばした素粒子。僕という素粒子の飛跡はだいぶ曲がっちゃって」
「どのくらい?」
「たくさん。数えきれないほどの素粒子が、僕らの間をいったりきたり」
何かを得心したように、笑みを浮かべて、彼女は、紅茶を持ち上げて、香りを大きく吸い込む。
そっか、今日が、その日なんだ、と。
彼は、同じようにコーヒーカップを持ち上げて、二つの香りの相互作用を楽しむ。
そう、今日が、その日なんだよ、と。
「ねえ、その素粒子に、名前をつけてみて」
「名前なんていらないよ。昔からみんな知ってる」
「……なんて?」
「たぶん、愛、って言うんじゃないかな」
また、つー、と雫がガラスを滑り落ちる。
ふらふらと揺れたその小さな粒は、隣から落ちてきた小さな粒にふれあい、一つになった。




