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第3章 オルゴールの旋律と、名前を授かった日

【止まっていた時計が動き出す】


数日後、進と美智子は街の喧騒から少し離れたビルの一角にある、メンタルクリニックのドアを叩いた。

清潔感のある待合室に一歩足を踏み入れると、そこには外界の毒気を抜くような、穏やかな空気が満ちていた。


絶え間なく流れているのは、オルゴールの音色だ。

流行歌や少し懐かしいニューミュージックの旋律が、金属的な響きを排した優しい音の粒となって、二人の肩の力を抜いていく。


「美智子さん、これを……」

進に促され、美智子は受付で渡された厚めの記入シートに向き合った。

「子供の頃の様子」

「忘れ物の頻度」

「対人関係での違和感」

美智子は、これまで「自分の至らなさ」として心の奥底に封印してきた記憶を、一つひとつ丁寧に手繰り寄せ、質問に答えた。

それは、自分の過去を「罪」ではなく「事実」として整理する、初めての作業だった。


シートを受付に提出すると、40代くらいの落ち着いた女性スタッフが、静かにそれを受け取った。


【40代の女医と、記録される独白】


「伊崎美智子さん、診察室へどうぞ」


呼ばれた先には、穏やかな眼差しを湛えた、40代くらいに見える女性医師が待っていた。

「初めまして、美智子さん。今日はよく来てくださいましたね」

進も同席した。

女医は、美智子と進を交互に見ながら、ゆっくりと話し始めた。


診察が始まると、女医は美智子が書いたシートに目を落としながら、ゆっくりと問いを重ねた。

「お買い物の計画を立てるのが難しかったり、片付けの途中で何をしていいか分からなくなったりしますか?」

「……はい。いつも、頭の中が霧がかかったようになってしまって」


美智子の言葉に頷きながら、女医の指はリズミカルにキーボードを叩き、診察内容をパソコンのモニターに刻んでいく。

進は、その無機質な打鍵音の中に、美智子がこれまでの人生で流してきた「説明のつかない涙」が吸い込まれていくような、不思議な安堵感を感じていた。


女医はキーボードを叩く手を止め、椅子を回して美智子を真っ直ぐに見つめた。

「美智子さん。まだ今日一度お話ししただけですので、確定的な診断を下すことはできません。ですが……」


一呼吸置いて、女医は告げた。

「これまでのお話を聞く限り、発達障害の特性、その疑いが非常に強いと思われます」


その瞬間、美智子の表情がふわりと緩んだ。

「障害」という言葉が、今の彼女にとっては救済の響きを持っていた。

(私は、怠けていたんじゃなかった。努力が足りないんじゃなかった。ただ、そういう仕組みを持って生まれてきただけだったんだ)

重い荷物をようやく下ろした旅人のように、彼女の瞳に光が戻った。


「次回、さらに詳しく検査をして、これからの過ごし方を一緒に考えていきましょう。次回の予定はいかがですか?」

女医の問いに、美智子はしっかりと頷き、次回の予約を済ませて診察室を後にした。


【時代遅れの男と、新しい風】


ロビーに戻り、会計を済ませて椅子に腰を下ろした時だった。

待合室に流れていたオルゴールの曲が変わった。


挿入曲:河島英五『時代遅れ』

オルゴールには歌詞はない。けれど、進の脳裏には、かつて何度も聴いたあの不器用な男の歌が、鮮明な言葉となって浮かび上がった。


「……いい曲だね、進君」

隣で美智子が小さく微笑んだ。


進は、診断書を握りしめて立ち尽くしていた自分と、家事ができずに責められ続けてきた美智子の姿を、その旋律に重ねた。

効率や数字を求められ、歯車として完璧であることを強いられる現代。

そこに適応できず、弾き飛ばされた自分たちは、世間から見れば確かに「時代遅れ」なのかもしれない。


けれど、不器用でもいい、

目立たなくてもいい。

自分たちの特性という「盾」を正しく持ち、似合わぬ無理をせず、ただお互いの心を見つめ合って生きていく。

それは、かつての「栴檀」の呪縛からも、今の「適応障害」という重圧からも、二人を解き放つ新しい生き方の宣言のように聞こえた。


「行こうか、美智子さん」

「うん」


クリニックの自動ドアが開くと、そこには夕暮れの柔らかな光が広がっていた。

進は、美智子の手をしっかりと握った。

時代遅れの男と女は、自分たちの歩幅で、新しい明日へと歩み出した。


【時代を味方にできた者とできなかった者】


クリニックを出た後、進は仕事に急ぐ。

こんな日も進は仕事をした。

会社員ではないので、仕事は不定期だ。

終わるのは22時近くになる。

ただ、疲労感は少ない。

進は、講師の仕事を、趣味の延長のような感覚でやっていた。

好きな仕事は、何時間やっても全然疲れない。

逆に、嫌な仕事は拷問のようにキツい。

こういうのも、発達障害の特徴らしい。

進も、美智子が発達障害と認定されたら、自分自身もきちんと診断を受けようと考えていた。

「まずは美智子からだ。少し時間はかかるかもしれないが、じっくり時間をかけて認定してもらおう」

そうすることが、美智子の生きる自信と誇りを取り戻すことになる。

進自身も、これで生きやすくなる。

時代は、進と美智子に味方した。

進は思う。

たぶん、実の父・俊郎も発達障害だったのだろう。

母・千夜子が憎んだ、進の祖母・智代もそうだ。

能力に凸凹がある人は、昔は疎外されて終わった。

人生を選べなかった。

現代は、違う。

人生を選べるのだ。

進は、この時代に生かされていることに感謝した。

そして、その土台を作ってくれた母にも、心から感謝の気持ちになっていた。

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