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第2章 静まり返ったキャンパスと、遮断された「声」

2016〜2020年

【茶の間の陽光】


2016年の秋、ある日の夕暮れ。

進が帰宅すると、リビングからは美智子の屈託のない笑い声が漏れていた。

彼女の視線の先、スマートフォンの小さな画面の中では、派手な金ピカの衣装を纏った男が、軽快なリズムに乗せて「PPAP」と踊っていた。


「進君、見て! これ、すごく面白いわよ」


美智子はピコ太郎の動画を何度も繰り返し再生しては、子供のように声をあげて喜んでいた。

世界中を席巻したそのブームを、彼女はただ純粋に、目の前の「楽しい現象」として享受している。

進は、炒め物の支度をしながらその様子を眺め、ふと目を細めた。

(いいんだ。彼女がこうして笑っている。それだけで、この家は守るべき平穏なんだ)


外の世界で法律の「正解」を説き続け、張り詰めた糸のように生きる進にとって、美智子の無邪気な笑いは、どんな判例解説よりも深く魂を癒やす「救い」であった。

この穏やかな光が、永遠に続くものだと信じていた。


【猛毒の一言】


しかし、職場の空気は、家庭の平穏とは程遠い毒に侵され始めていた。

予備校には元公務員の人事担当者が面接専門講師として常駐していたが、その中の一人が致命的な失言を放ったのである。


「……そんな面接では、君は絶対に受からないよ」


個別指導のブースで、彼は受講生の全人格を否定するかのような冷徹な言葉を投げつけた。

以前から指導の行き過ぎによるトラブルを繰り返していた男だったが、今回の一言は受講生の心を深く折り、その噂は瞬く間に広がった。


大学側からの公式な抗議こそなかったものの、事態を重く見た予備校側は、彼の更迭を決定した。


荷物をまとめ、校舎を去ろうとするその講師に、進は廊下で声をかけた。

「お疲れ様でした」

「……伊崎先生か。私はただ、現実の厳しさを教えただけですよ。あんな甘い受験生たちが、役所で通用するはずがない」


傲慢さを崩さぬまま去っていく背中を、進は黙って見送った。

結果は皮肉なものだった。

「受からない」と宣告された受講生たちは、翌年、意地を見せるかのように全員が第一志望の合格を勝ち取ったのである。


【ライバルの挑発、緊急の沈黙】


だが、この騒動をライバルの予備校が逃すはずはなかった。

他校のガイダンスでは、あたかも鬼の首を取ったかのように、この失言事件が吹聴された。

「受験生を否定する予備校に、未来を預けられますか?」

「合格実績の裏にある、指導という名のハラスメント」

連日、競合他社による徹底的なネガティブ・キャンペーンが繰り広げられた。


事態を受け、本部では緊急の講師会議が招集された。 重苦しい空気の中、責任者が教卓を叩いた。

「ライバル校の挑発が激化しています。しかし、我々が同じ土俵に立って反論したり、相手を攻撃し返したりすることは、かえって我々の品位を貶めることになります」


会議の結果、一切の挑発に乗らず、ただ目の前の受講生の指導に専念するという方針が確認された。

進は、会議資料を見つめながら、先ほど去っていった講師の「受からない」という言葉を反芻していた。


(合格を決めるのは、講師の予言ではない。受験生自身の、内なる火だ)


茶の間の美智子の笑い声。そして、教室での殺伐とした罵り合い。

そのあまりに激しいコントラストを感じながら、進は再び、静かにペンを握り直した。


【舞台の灯が消える時】


公務員試験講師として、伊崎進は一つの「完成」の中にいた。

近畿各地の大学を鮮やかに渡り歩き、プレゼンターが放つ光の矢で、複雑に絡み合う法律の迷宮をスクリーン上に解き明かしていく。

チョークを置き、デジタルを操るその姿は、次世代の講義スタイルを確立した自負そのものであった。

学生たちの熱気、重なり合う筆記音、そして講義の終わりを告げる安堵のざわめき。進は、その渦の中心で、自らの鼓動を感じていた。


しかし、2020年初春。

その眩い日常は、目に見えないウイルスの影によって、あまりにも呆気なく断ち切られた。


【白白と消えゆく予定表】


もともと、緊急時以外に電話が鳴ることはほとんどなかった。

連絡はすべてメールで完結する機能的な日常。

だが、その静かな端末が、これほどまでに残酷な「沈黙の武器」になるとは思わなかった。


春の陽光が虚しく差し込む自宅で、進が見つめていたのは、受信トレイを埋め尽くす【重要】【中止】【延期】という無機質な文字列だ。

「……春学期の学内講座はすべて休講と決定いたしました。講師派遣も見合わせることとなります」


一通届くたび、カレンダーを埋めていた「出講予定」が、指先一つで白地へと塗りつぶされていく。

滋賀、京都、大阪。

各地のキャンパスで待っているはずだった何百もの瞳が、一瞬にして遠のいた。


「仕事が、消えたな……」


独り言のように呟いた進の背後に、美智子が静かに立っていた。

彼女は、画面に並ぶ「中止」の文字をじっと見つめ、それから進の力なく垂れた肩に手を置いた。


「進君。また、あの時みたいだね。1995年の、あの時みたい」

美智子の声は震えていたが、そこには共に災厄を潜り抜けてきた者だけが持つ、奇妙な落ち着きがあった。

「ああ。でも、今度はどこにも逃げ場がない。地球ごと止まってしまったみたいだ」

「…大丈夫だよ。あなたは、何もないところからでも、いつも何かを見つけてきたじゃない」


美智子の不器用な励まし。

進は、その言葉を噛み締めながら、プレゼンターのライトが消えた暗転したステージに一人取り残されたような感覚に耐えていた。


【原稿用紙のささやき、最後の命綱】


講義という主戦場を奪われた進に残されたのは、膨大な量の「論文・作文添削」だった。

かつては教室の最前列で、不安に揺れる学生の瞳を見つめながら直接言葉をかけられた。

しかし今、彼らとの唯一の境界線は、データで送られてくる無機質な原稿用紙だけだ。


一添削あたりの報酬は、教壇に立つことに比べれば驚くほど乏しい。

それでも、この文字のやり取りこそが、今の進にとっての「物理的な糧」であり、社会と繋がるための「命綱」であった。


進は、画面上の解答一行一行に目を凝らす。

「負けるな」などという、上から目線の強い言葉は使わない。

ただ寄り添うように、いつも通りの丁寧な筆致で、

『がんばりましょう』

と書き添える。

それが今の進にできる、精一杯の連帯だった。


夜、独りパソコンに向かう進の耳に、中島みゆきの鋭い歌声が響く。

FMラジオの音楽番組だ。


(中島みゆき『幸福論』)


進の胸中は、複雑な葛藤の中にあった。

自分だけが苦しいのではない。

けれど、モニター越しに伝わる「まだ未来がある若者」への微かな嫉妬や、同じように仕事を失った同業者への、暗い共感と裏返しの安堵。


人間の心の奥底にある「プラス・マイナス」の残酷な計算。

みゆきの歌は、そんな進の醜ささえも暴き出し、同時に抱きしめる。


「……僕も、ただの人間なんだな」


美智子が淹れてくれた冷めかけた茶を啜りながら、進は再び原稿に向き合う。

たとえ世界が止まっても、この一枚の添削の向こう側には、必死に「明日」を掴もうとしている誰かがいる。

その誰かのために、そして自分自身が「恨み」や「妬み」に飲み込まれないために。進は朱を入れる手を休めなかった。


【暴かれた「言葉」の虚構】


コロナ禍という未曾有の静寂が世界を包み込み、教壇という名の主戦場を奪われた進は、かつてないほど濃密な「孤独」という時間の中にいた。

外界との接触が絶たれ、ただ一人書斎で論文添削に没頭し、合間にふと手にした百科事典や歴史考証の資料を読み進めていた、ある午後のことだ。


進の目を釘付けにしたのは、幼少期から己を縛り付けてきた、あの「栴檀せんだん」にまつわる事実だった。


(……そんな馬鹿な)


進は、自分の呼吸が浅くなるのを感じた。

彼を数十年にわたり、「父と同じ無能な大人になる」という呪いの淵へ繋ぎ止めていた、あの鈴木という女の言葉。

「栴檀は双葉より芳し」――。

しかし、植物学の冷徹な事実は、その言葉の根底を無残に、そして鮮やかに覆した。


香木として名高いインドの「白檀びゃくだん」、別名・栴檀は、確かに芳醇な香りを放つ。

だが、その若葉や新芽に香りは宿らない。

成長し、年輪を重ねて初めて、その心材に香りが蓄積されるのだ。

一方で、日本のあちこちに自生する「センダン」は、そもそも香りと呼べるほどの匂いすら持たない、全く別の種類の木であった。


つまり、あの女が放った言葉は、植物としての実態を欠いた、空疎な「ことわざ」という名の借り物に過ぎなかったのだ。


【北条氏政の幻影】

さらに進が追い討ちをかけるように知ったのは、後北条氏四代目・北条氏政にまつわる「二度汁にどじる」のエピソードだった。

食事の際、汁を一度でかけきれず、二度かけて調節した氏政を見て、父・氏康が「毎日食事をしていながら、汁の量も測れぬとは、北条も我が代で終わりか」と嘆いたという、あの有名な話だ。


進は、このエピソードを自身の「無能への恐怖」に重ねて生きてきた。

自分は汁の量を測り間違えるような、父譲りの「不器用な人間」なのではないか、と。

しかし、近年の歴史考証によれば、この逸話は後世の創作である可能性が極めて高いという。

氏政は実際には有能な民政家であり、領土を最大版図に広げた名将であった。


氏政の「無能」というレッテルもまた、後世の人間が物語を面白くするために、死者に着せた虚像に過ぎなかったのだ。


【コロナ禍の恩寵――呪縛からの卒業】


窓の外では、春の風が静かに吹いている。

かつてなら、講義の予定に追われ、自らの内面を深く掘り下げる余裕などなかっただろう。

皮肉にも、目に見えないウイルスが社会の機能を止めたことで、進は初めて「言葉の化け物」から解放されるチャンスを得た。


「……なんだ。全部、嘘だったのか」


進は自嘲気味に笑った。

父に似て無能だという予言も、栴檀の香りも、氏政の失態も。

すべては実体のない、不確かな情報の繋ぎ合わせでしかなかった。

進が怯えていたのは、自分自身の欠点ではなく、他人が勝手に作り上げた「負の物語」という影だったのである。


「栴檀は双葉のときには香らない。若木になって

少しずつ香り始めるんだ」


進は朱の筆を置き、大きく背伸びをした。

父への恐怖、血への嫌悪、そして「人生を舐めている」という他者の刃。

それらすべてが、この未曾有の休講期間という真空の中で、音もなく消え去っていくのを感じた。


教壇という舞台が消えたとき、進は自分自身の中心にある、静かな、しかし確かな「芯」にようやく触れることができた。

もう、何者にも似る必要はない。

栴檀が時間をかけて香りを蓄えるように、自分もまた、この空白の時を経て、自分だけの「正義」を磨き上げていけばいい。


コロナ禍の静まり返った部屋で、進は初めて、自分という人間を本当の意味で受け入れた。

呪縛を解いたのは、皮肉にも世界を止めた災厄だった。

明日から書く論文添削のコメントは、これまで以上に力強く、そして温かいものになるだろう。

自分を縛っていた糸が切れた今、進の物語は、ようやく本当の「自立」へと歩み出したのである。

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