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その婚約破棄、事実無根につき却下します

作者: 夢見叶
掲載日:2026/03/24

 五つの罪状のうち、四つは嘘だった。


 残りの一つは——私にも、分からない。



「——マルグリット・レーヴェン!」


 夜会の大広間で、名前を呼ばれた。


 第1王子リヒャルト殿下が、シャンデリアの直下で仁王立ちしていた。金の飾緒がついた白い礼服。その隣には、銀髪の聖女アネリーゼが涙ぐんだ顔でこちらを見ている。ドレスの裾を両手で握りしめ、今にも倒れそうな風情を——作っている。


 嘘だ、と思った。


 あの涙は嘘だ。けれど今の私には、それを証明する手段がない。


 赤い帳面は照査室の机の上だ。持ってきていない。今夜は夜会だったから。殿下の隣で笑っているだけの、婚約者としての私でいればいいと思っていたから。


 ——信じていたのだ。7年間の婚約者を。


 手元のグラスをテーブルに置いた。グラスは既に空だった。注がれていたのは白葡萄酒——殿下のお好きな銘柄を、7年間の癖で選んでしまう。そういう自分が、今は少し痛い。


「お前には五つの罪がある!」


 殿下の声が広間の空気を震わせた。300人の貴族が息を呑み、視線が一斉に私に集まった。


 聖女が嗚咽を漏らし、殿下の袖を掴んだ。「リヒャルト様、お許しください、私のせいで……」と囁く声がよく通る。聞かせるための囁きだった。


「第1に、聖女アネリーゼへの執拗な嫌がらせ! 第2に、聖女の聖具を盗んだ窃盗! 第3に、国家機密の外国への漏洩! 第4に、宮廷行事の妨害!」


 国家機密の漏洩。極刑だ。足から血が引いた。


「そして第5に——お前は、俺を愛していない!」


 広間が静まった。


 五つ。そのうち少なくとも四つは事実ではない。だが証拠がない。帳面が手元にない。照査室の机の上に、3週間かけてまとめた検証報告書と一緒に、置いてきてしまった。


 指先が冷たい。ドレスのポケットに手を入れて握りしめた。300人の視線が私に注がれている。同情の目、好奇の目、いい気味だという目。


 3週間前——宰相補佐ヴィルヘルム・シュタウフェン卿から届いた正式依頼書。聖女の不審な動きを照査せよ、と。あの依頼がなければ、罪状の検証すらできていなかった。


 あの人は、今夜のことを知っていたのだ。私だけが知らなかった。自分の婚約者の裏切りを、自分だけが照査できていなかった。


「以上だ。よって、お前との婚約を——」


「1点だけ、確認させてください」


 声が出た。自分でも驚いた。帳面はない。証拠書類も手元にない。あるのは3週間かけて頭に叩き込んだ検証結果だけ。それと——事実は事実だという、ただ1つの信念。


「罪状第1。5月12日に薔薇園で口論したとのことですが——殿下、アルデンヌ領をご存じですか」


「……何?」


「王都から馬車で3日の距離にございます。5月12日、私はアルデンヌ領にて定期監査中でした。口論するには瞬間移動の魔法が必要ですが、当方にそのような技能はございません」


 広間のどこかで吹き出す音がした。


 帳面がなくても、事実は変わらない。帳面がなくても、嘘は嘘だ。7年間の婚約を嘘で壊そうとするなら——照査官として、私人として、私はここに立つ。


「出張証明書は照査室にございます。本日お見せすることは——」


「照査官殿」


 広間の入口から声がした。


 亜麻色の髪をくしゃくしゃにした青年が、息を切らして駆け込んできた。カミル。私の同僚。その手に——赤い帳面。


「忘れ物。宰相補佐殿から連絡があった。『照査官は今夜、帳面が必要になる。届けろ』って」


 カミルが帳面を放り投げた。夜会の作法としては最悪だ。だが私は反射的に受け取った。角がすり減った赤い表紙。宮廷の公印。3年間使い込んだ、私の仕事道具。手に馴染む重さが返ってきた瞬間、指先の冷えが嘘のように消えた。


 ——ヴィルヘルム卿。あなたは、ここまで読んでいたのですか。私が信じて、裏切られて、手ぶらで立ち尽くすところまで。


 帳面を抱えた瞬間、手の震えが止まった。赤い表紙の手触りが、私を照査官に戻してくれる。


「宮廷照査官マルグリット・レーヴェン。改めまして、職務として申し上げます」


 広間がざわついた。照査官、と囁く声が聞こえる。


「殿下の申立てに対し、照査を完了しております。却下の場合は根拠の開示が義務づけられております。宮廷令第47条に基づき、読み上げてもよろしいでしょうか」


 殿下が口を開閉した。3秒間、何も言わなかった。体感では7秒くらいに感じた。照査官は時間の計測に正確だが、今夜ばかりは狂っている。


「……勝手にしろ」



「罪状第1。先ほど口頭で申し上げた通り、5月12日の件は物理的に不可能です。出張証明書をお見せします」


 帳面から証明書の写しを1枚抜いた。


「6月3日の食堂の件。目撃証言4名が一致。『マルグリット様は奥の席で報告書を読んでいただけ』」


 カミルが広間の端から手を挙げた。「俺も食堂にいた。マルグリットは報告書読みながらスープ2杯おかわりして、なお、当日の気温は22度、湿度——」


「カミル。気象条件は本件と無関係です」


「え、でもお前いつも天候まで記録して——」


「無関係です」


 広間にくすくすと笑いが広がった。


「7月18日。蔵書点検日。業務として2847冊の照合作業中。カミルが同席証人です。罪状第1、事実無根」


 付箋をめくって次のページに進む。1つ崩した。だが難所はこれからだ。



「罪状第2。『聖女の聖具を盗んだ窃盗』」


「告発対象は銀細工の護符、台帳番号KR-0147。贈呈者の欄をご確認ください」


 台帳の写しを差し出した。殿下の目が止まった。


「贈呈者——マルグリット・レーヴェン。自費で購入し、聖誕祭の贈答品として正式に贈呈したものです。自分が贈った品を盗む行為は、窃盗ではなく返品と呼びます。なお、返品もしておりません」


 広間の半分が笑った。


「……なぜそのような高価な品を聖女に」


「宮廷慣例です。7年間、毎年私が手配していました。殿下がご存じないのは、全て私が処理していたからです。選定、発注、包装、添え状の作成まで」


 殿下は知らなかったのだ。聖女に届く贈り物が、毎年誰の財布から出ていたのかを。聖女の表情がかすかに歪んだ。自分の嘘が1つ崩れたことへの焦りだ。


「罪状第2、事実無根。——なお、あの護符は2ヶ月分の給料でした。照査とは無関係ですが、記録しておきます」


 カミルが盛大に噴き出した。



「罪状第3。『国家機密の外国への漏洩』」


 ここで、空気が変わった。有罪なら極刑だ。


 帳面のページをめくる指先が冷たい。ここから先を読み上げれば、聖女の人生は終わる。それは殿下の人生をも壊す。照査官の仕事は事実を判定することであって、人を裁くことではない。


 だが事実は事実だ。嘘で潰される人間を、黙って見ていることはできない。


「殿下。この罪状の根拠を示してください」


「先月の外交文書が隣国に漏れた。お前は文書に触れる立場にある」


「触れる立場と、触れた事実は同義ではありません。照査結果を申し上げます」


「原本閲覧者は5名。宰相、宰相補佐、外務局長、第2書記官、そして——殿下の特別許可による追加閲覧者として——聖女アネリーゼ殿」


 ざわめきが広がった。


「漏洩推定時期に隣国使節との接触記録がある者は、聖女殿1名のみ。先月11日、迎賓館にて隣国第2王子と非公式に面会」


「嘘です!」


 聖女が叫んだ。涙はもう流れていない。


「迎賓館の門衛の日誌には面会時間1時間と記載されていました。ところが裏門の退館記録と照合すると、1時間17分のずれがあります。門衛を再聴取したところ——聖女殿から『記録を短く書いてほしい』と依頼されていたことが判明しました。実際の面会時間は2時間17分」


 聖女の顔が紙のように白くなった。


「私は当該文書の閲覧者リストに含まれておりません。罪状第3、事実無根」


「本件は照査官として別途報告書を宰相府に提出済みです。——なお、閲覧者5名のうち、宰相補佐ヴィルヘルム・シュタウフェン卿は文書閲覧後に一切の外部接触記録がないことも確認しております」


 なぜこの1文を付け加えたのか、自分でも分からなかった。照査に必要な情報ではない。ただ——あの人の名前に嫌疑が残るのが、嫌だった。


 広間の奥で、国王陛下が静かに葡萄酒を傾けた。何も止めようとしていない。



「罪状第4。『宮廷行事の妨害』」


「……もう、いい。もうやめてくれ」


 殿下が初めて声を落とした。怒りではない。5分前まで正義の側にいたはずの男が、足元の崩壊に気づき始めている顔。


「公式の場で申し立てられた罪状は——」


「分かっている! 宮廷令第47条だろう!」


 聖女が動いた。殿下の腕を掴み、背後に隠れようとする。


「リヒャルト様、お願い、私を守って——」


「秋季園遊会の装花予算が流用されています」


 私は聖女の声を遮った。感情ではなく事実で。


「流用先の伝票。隣国製化粧品12点、金糸の刺繍ドレス3着、銀細工の髪飾り7点。合計金額は花卉予算の3倍。署名は聖女アネリーゼ殿。殿下の承認印つき」


「私のために買ったんじゃない! 宮廷のためよ!」


「伝票の日付は使節団来訪の3ヶ月前です。なお、使節団の歓迎行事には聖女殿は出席されておりません」


 聖女の手が殿下の腕から離れた。殿下が聖女を見た。聖女はもう殿下を見ていなかった。出口を探す目。泣いてもいなかった。5分前の涙は——やはり嘘だったのだ。


「罪状第4、事実無根」


 四つの罪状が崩壊した。広間の貴族たちはもう笑っていない。第1王子の権威が公衆の面前で崩壊するのを、息を殺して見つめている。



「罪状第5」


 残りの一つ。


 私は帳面を——閉じた。


「『お前は、俺を愛していない』」


 広間が静まった。


「この罪状は、照査官として検証結果を出すことができません。愛は客観的事実ではなく主観的感情であり、第3者による検証の対象外です」


 ここまでは職務だ。ここからは——違う。


「ただし。備考欄に記載がございます」


 帳面を開いた。最後のページ。余白に、小さな字で書いた文。


 声が震えた。3年間この仕事をして、検証報告書を読み上げて声が震えたのは初めてだった。


「毎週木曜日、殿下の執務室に胡桃のフィナンシェをお届けしておりました。発注者はマルグリット・レーヴェン。毎週火曜日に注文。3年間、156回」


「……あれ、お前だったのか」


「はい」


「厨房の好意だと——」


「厨房には発注記録が残っております」


 殿下が黙った。


「……なぜ、言わなかった」


「言う必要がなかったからです」


 ——殿下は昔、私の仕事を理解してくれた人だった。照査官になりたいと告げたとき、周囲の貴族は皆眉をひそめた。人に嫌われる仕事だ、と。殿下だけが笑った。「事実を大切にする仕事か。お前らしいな」と。


 あの笑顔が——私の照査官としての、最初の備考欄だった。


「……備考欄、続きがございます」


 声がかすれた。


「毎週木曜日の昼、殿下の執務室の前を通ると——扉の隙間から、フィナンシェを召し上がる音が聞こえました。その音を聞くために、わざわざ遠回りをして殿下の執務室の前を通っておりました」


 ある木曜日のことを思い出す。いつものように遠回りをした。扉の隙間から聞こえたのは——殿下の声と、聖女の笑い声だった。2人でフィナンシェを分けて食べていた。私が届けた焼き菓子を。「美味しいですね、殿下」と聖女が言った。殿下が「ああ」と笑った。


 扉の前で足を止めたまま、3秒——いや、30秒くらい立っていた。体感時間の計測が狂うのは、照査官として致命的だ。


 翌週の火曜日、厨房に注文を入れた。いつもと同じ、胡桃のフィナンシェ。2人分で足りるように、数を1つ増やした。


「美味しそうに召し上がる音が聞こえるたびに——その週の仕事の疲れが、全部消えました」


 広間が息を呑んだ。


「照査官として、報告書に記載すべき事項ではありません。ただ——記録しておきたかったのです」


 涙がこぼれた。帳面の赤い表紙の上に落ちて、小さな染みになった。


 殿下が何か言おうと口を開いた。でも声が出なかった。声の代わりに、殿下の目から光るものが1筋、頬を伝った。


 遅すぎる涙だ。


「以上をもちまして、五つの罪状のうち四つは事実無根、一つは照査不能。本婚約破棄の申立ては——根拠不十分につき、却下を具申いたします」


 深く一礼した。頭を下げている間に、もう1滴落ちた。



 露台に出ると、大広間のむせ返るような香水の残り香が夜風にさらわれていった。秋の夜だ。虫の音が遠くで聞こえる。宮廷の裏庭で鈴虫が鳴いている。照査とは無関係な音だが——今は、その無関係な音に救われる。


 手が震えている。帳面を鞄にしまおうとして、うまく入らない。


 事実を並べるのは得意だ。

 感情の照査は——ひどく、骨が折れる。


「お疲れ様でした」


 振り向くと、露台の柱に背を預けた男がいた。黒い髪を後ろに撫でつけた、眼鏡の青年。宰相補佐ヴィルヘルム・シュタウフェン。


「……カミルに帳面を届けさせたのは、あなたですね」


「そうだ」


「3週間前の依頼書も。今夜のことを——」


「予測していた。君が帳面を持ってこないことも」


「なぜ分かったのですか」


「君は報告書に正確な事実だけを書く人間だ。だが——自分に関することだけは、照査しない」


 事実だった。殿下の五つの罪状は3週間かけて検証した。でも殿下が私を愛しているかどうかは——7年間、一度も照査しなかった。怖かったのだ。事実を知るのが。


 ヴィルヘルムが柱から背を離し、近づいてきた。月明かりが眼鏡に反射している。3週間前に届いた依頼書の筆跡を思い出す。あの書面は一箇所だけ字が乱れていた。「照査官マルグリット・レーヴェンに対する」という部分。名前を書くときだけ、ペンに力が入りすぎたように。あのときは読み飛ばした。今なら——意味が分かる。


「もう1つ、言わなければならないことがある」


「何でしょうか」


「備考欄の話だ」


 心臓が跳ねた。


「君の報告書を3年間読んでいる。200本以上。宰相への提出前に、私が最終確認をする。事実だけを書くのが君の仕事だ。文章に私情は一切入らない。——備考欄を除いて」


 ヴィルヘルムが眼鏡を外した。暗い灰色の瞳。


「一昨年の秋。不正経理の摘発報告書。備考欄。『当事者の子どもが廊下で泣いていた。照査官として関与しない。ただ、飴を1つ置いた』」


「……それは、つい」


「半年前。辺境の税務照査報告書。備考欄。『宿の窓から見えた星が綺麗だった。照査とは関係がない。ただ、誰かに伝えたかった』」


 あの備考欄を書いたとき、「誰か」の顔が浮かんでいた。眼鏡の奥の、灰色の目。


「3年前。君の最初の報告書。備考欄。『宮廷照査官の仕事は、人に嫌われる仕事だと説明を受けた。承知している。それでも——事実は事実であるべきだと思う』」


 ヴィルヘルムが笑った。この人が笑うのを初めて見た。冷たい印象の顔が、月明かりの下で驚くほど柔らかくなる。


「事実だけを書く人間の、事実ではない部分を——200本分、読んだ」


「……シュタウフェン卿」


「ヴィルヘルムでいい」


「ヴィルヘルム卿」


「卿もいらない」


「公式の場では——」


「ここは露台だ。非公式だ」


「マルグリット」


 名前を呼ばれた。


「君の備考欄が好きだ。事実の隙間から漏れてくる、君自身が」


 涙がこぼれた。今度は帳面の上ではなく、頬を伝って顎から落ちた。


 ヴィルヘルムの手が頬に触れた。涙を拭う指が温かかった。帳面をめくるときも証拠を差し出すときもずっと冷たかった私の指と、全然違う温度だった。この人の手に触れて初めて、自分がずっと震えていたことを知った。


「……備考欄に記載します」


「何を」


「宰相補佐に告白された。検証の結果、虚偽ではないと判断する。根拠は——」


 声が詰まった。


「——根拠は、まだ調査中です」


「時間はある」


「照査には通常3〜4週間かかりますが」


「構わない。備考欄は3年分読んだ。もう3年くらい読める」


 泣きながら笑ってしまった。報告書には書けない顔をしている。


「では、追加調査として。もう少し近くで検証してもよろしいですか」


「職務命令か」


「個人的な依頼です」


 ヴィルヘルムの手が頬から首筋に滑り、そっと引き寄せられた。



 後日。


 宮廷の廊下で、殿下とすれ違った。


 殿下は足を止めた。


「……マルグリット」


「はい」


「あの焼き菓子は——もう届かないのか」


「発注は先月で停止しております」


 殿下が唇を噛んだ。うつむいて、肩を震わせた。


「……お前が遠回りしていたこと、知らなかった。扉の前で足を止めていたことも。何も——何も知らなかった」


「ええ。殿下は知らなくてよかったのです。あれは私の備考欄ですから」


「すまなかった」


「謝罪は受理いたします」


 それだけ言って、歩き出した。振り返らなかった。


 ——殿下がお好きだった白葡萄酒の銘柄を、私はまだ覚えている。消去の方法が分からない。いつか忘れる日が来るのだろう。来なくても構わない。記録は記録として、備考欄の片隅に残しておく。


 殿下は悪人ではない。聖女の涙を信じ、正義のつもりで剣を振るった。ただ、その剣を照査もせずに振り下ろした。殿下の本当の罪状はただ一つ。事実を確認しなかったこと。照査官として——いや、7年間隣にいた女として、それだけが許せなかった。



 聖女アネリーゼは外交文書漏洩および予算流用で正式立件。神殿に送還された。


 殿下の王位継承順位は3つ下がった。だがそれは始まりに過ぎなかった。


 「事実無根の告発を公式の場で行った」という記録は、宮廷照査官の帳面に永久に残る。この国では、貴族の婚姻交渉において照査記録の開示請求ができる。令嬢の父親は例外なく確認する。


 殿下がどの令嬢と婚約しようとしても、相手の父親がこの記録を読む。「五つの嘘の罪状を並べ、婚約者を公衆の面前で断罪しようとした王子」——帳面はそう語る。永遠に。


 先日、ある公爵家から殿下との縁談の照査記録が開示請求された。私が処理した。開示した翌日、縁談は白紙に戻った。帳面の記録は淡々と事実を述べるだけだ。だがその事実が、殿下をどの食卓にも座らせない。


 私が手を下したのではない。事実が、殿下を詰ませたのだ。


 婚約は法的には一度も破棄されていない。却下された申立ては宮廷令上「不受理」として処理される。されていないのだが——殿下から「円満な解消」の申立てが出ている。理由は「互いの幸福のため」。双方の署名で成立する。


「宰相補佐殿とはどうなの」


 照査室で、カミルが干し果物をかじりながら聞いた。


「照査官として、私的な関係の開示義務はございません」


「毎朝、執務室にお茶が届いてるって聞いたけど。発注者は宰相補佐殿。銘柄は君の好きな薄荷茶。毎週月曜に翌週分まとめて注文。——なんか覚えのある発注パターンだよね」


 胡桃のフィナンシェと、同じだ。毎週、決まった曜日に、相手の好きなものを黙って届ける。


 あの人は——私がしていたことを、知っていて、同じことをしているのだ。


「備考欄には書いてある?」


「……ノーコメントです」


「顔が赤いよ、照査官殿」


「室温の問題です。換気の記録を確認しますか」


 カミルが笑った。「マルグリットがノーコメントって言うときは、だいたい書いてあるんだよな」


 黙ってほしい。事実だけれど。


 赤い帳面の最後のページ。備考欄の余白に、小さな字で書いた記録がある。


 事実を書くのが私の仕事だ。

 だから、これも事実として記録する。


 ——宰相補佐ヴィルヘルム・シュタウフェンは、通常、感情を表に出さない。


 ただし、照査官マルグリット・レーヴェンの備考欄を読むときだけ、口元が緩む。


 先日の追加調査により、この症状は「好意」に起因すると判定した。


 なお、照査官にも同様の症状が確認されている。


 原因の究明は——今後の長期調査課題とする。


 付記。


 宮廷照査官の赤い帳面は現在3冊目である。


 1冊目と2冊目は照査室の書棚に並んでいる。


 3冊目の表紙には、夜会の夜に落ちた涙の染みが1つ残っている。


 消去の方法は不明。消去の予定もない。

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