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日曜日の午後。
街の風は暖かく、待ち合わせに遅れてきたユウは、満面の笑顔だった。
「ごめんごめん、電車遅れててさ」
「……別に」
みなみは薄く笑った。
本音では、何も感じなかった。
怒りでも、喜びでもない。ただの“無”だった。
(変だな……前まで、もっと嬉しかったのに)
ユウの隣を歩く。
歩幅は合ってるし、会話も弾む。
でも――心は、どこか“抜け落ちて”いた。
「……ん、目、閉じて?」
駅の裏路地。人気のない壁際。
「は?」
「記念日、近いから……その、早めの」
不器用な笑顔と、少し照れた声。
キス。
たった一秒の、軽い口づけ。
「……ありがと」
「う、うん……」
ユウは顔を赤くし、嬉しそうに笑っていた。
その横で、みなみは自分の唇に手を当てた。
(……なにも、感じなかった)
震えも、熱も、疼きもない。
心臓の鼓動すら、さっきと同じテンポ。
(……どうして)
あの屋上で――
滝沢に「次に笑った時、それが“素”じゃなかったらバレバレだから」と言われた時。
その瞬間の方が、心拍数は高かった。
全身が、ビリビリした。
(私……あのときの方が、“楽しい”って感じてた……?)
「……最低」
また、その言葉が口から漏れる。
今度は、自分に向けて。
*
その夜。
ベッドに寝転び、ユウとのやり取りをぼんやりと眺めていた。
【ユウ:今日ありがとー! ほんと楽しかった!】
【ユウ:来週も楽しみにしてる!】
(……悪いことしてないのに、罪悪感あるのってなんで)
みなみはスマホを裏返し、隠しアカウントでログインする。
そこに――滝沢からの新しい通知があった。
【滝沢:今日、キスした?】
「……は?」
読みたくないのに、目が滑るように文章を追ってしまう。
【滝沢:されてる顔、なんとなく浮かんでた】
【滝沢:何も感じなかったろ?】
【滝沢:違うなら、次のメッセージは読まずに消せ】
みなみの指が、止まった。
(……そんなの、知らない)
(たまたま、体調悪かっただけ)
(疲れてたんだよ。……ほんとは、ちゃんと……)
震える指で、次のメッセージを開いてしまった。
【滝沢:俺が言った言葉で、脚の奥、熱くなった時のこと】
【滝沢:それが“本能”ってやつだ。違うか?】
「……っ!」
スマホを床に投げる。
でも、言葉は脳内に刺さったままだった。
(違う……違う……)
目を閉じても、あの声が耳元で響く。
(あたし、まさか――もう…)
*
次の日。
学校の帰り、制服姿のまま電車に乗る。
普段ならまっすぐ帰る時間。
でも今日は、無意識に“寄り道”していた。
降りたのは、バイト先の駅。
何の予定もないのに、足がそっちへ向かっていた。
(……いるわけない。今日はシフト違うはず)
わかってるはずなのに、入口のガラス越しに中を覗く。
いない。
ほっとしたような、がっかりしたような。
(……なにしてんだ、あたし)
「お、探しに来た?」
背後から、低い声。
ゾクリと背筋が凍った。
振り向くと、滝沢が缶コーヒー片手に立っていた。
「……は? 違うし」
「顔、赤いけど?」
「うるさい。偶然だから」
「へぇ、制服でこの駅に来る偶然ってあるんだ?」
「……死ね」
「それ、四回目」
笑う滝沢の目が、なぜか優しかった。
「安心しろ。今日も触らない。まだ」
「“まだ”? バカじゃないの?」
「でも、もう“期待している”よな」
「……っ!」
図星。
なのに反論できない。
逃げようとする脚を、彼の言葉が止める。
「俺はいつまでも待つぜ」
滝沢は、それ以上なにも言わず、背を向けた。
そして、振り返りもせずに歩き去っていった。
⭐︎⭐︎⭐︎
バイト先のロッカー室。
制服を脱ぎながら、佐伯みなみは鏡の中の自分を睨みつけていた。
(今日は……絶対、何もさせない)
(向こうが話しかけてきても無視。目も合わせない)
(……もう、こんなのやめるんだ)
それが、自分への誓いだった。
だが。
「おつかれー。……久しぶり?」
不意にかけられたその声で、決意は0.5秒でぐらついた。
滝沢レン。
黒のジャケットに白シャツ、ラフな格好。
まるで“ここに来るのが偶然”かのように、自然に立っていた。
「……あんた、今日シフト入ってないでしょ」
「買い物帰り。近くまで来たから寄っただけ」
「……ふーん」
反応しないつもりだった。
でも、声を聞いた瞬間に、指先の神経が熱を持つ。
(違う……これは怒ってるだけ……)
ロッカーの鍵を回す手が、少し震える。
「最近、どう?」
その言葉で、呼吸が止まった。
(……っ、なんで……)
「……殺すぞ」
「またそれ。五回目」
ニヤリと笑う滝沢に、みなみは拳を握りしめた。
でも――殴るよりも先に、彼の顔を見つめていた。
その目が、もう知っている。
自分の反応。
声の揺れ。
目線の動き。
身体の火照り。
全部、読まれてる。
「今ならまだ、戻れるんじゃね?」
「……は?」
「彼氏に謝って、ちゃんと甘えて、距離取り直して。
俺みたいな男、完全無視して。できるよな? お前なら」
(できる……はずだった)
なのに、みなみの足は動かなかった。
滝沢が、わざとらしく背を向ける。
「帰るわ。じゃ、頑張れよ。真面目な彼女さん」
その背中。
目の前を離れていく、あの男の存在。
ほんの一瞬――手を伸ばせば、触れられる距離。
(“自分から”なら……誰のせいにも、できない)
(でも――)
その瞬間。
指先が、滝沢のジャケットの袖を、つまんでいた。
本人すら気づかないような、弱い力で。
でも、それは確かに“触れた”という事実だった。
滝沢が止まる。振り向く。
「……へえ」
低く息を吐くような声。
「違……っ」
言葉が喉に詰まる。
「今なら、止められる。ここで手を離せば、なにも起こらない」
「……」
「でも、手を離さなかった。
それってつまり、“お前が始めた”ってことだよな?」
その夜。
ホテルの前までは行かなかった。
けれど――駅ビルの非常階段、誰もいない隅のベンチで。
滝沢の声を、耳元で受けながら、
みなみの身体は、震えていた。
手は繋がれていない。
キスもされていない。
ただ、言葉だけが降ってくる。
「心臓、速いな」
「……っ」
「今、制服の中、どんな?」
「やめ……っ」
「湿ってる?」
「ち、が……」
「じゃあ、確かめてみろよ。自分で、触ってみろ」
その瞬間、みなみは立ち上がった。
何も言わず、踵を返して走り去った。
でも――
帰宅して、制服の下を脱いだ瞬間。
ショーツの奥、ぐっしょりと濡れていた。
自分の指で触れて、確かめる。
もう、戻れない。
“現実”で、滝沢に反応した。
“触れてしまった”のは、彼じゃない。自分だった。
(……本当に、戻れなくなった)
ベッドに倒れ込みながら、
スマホの通知が点滅する。
【滝沢:今日の顔、ずっと覚えてる】
【滝沢:また、“お前から”来い】
それを見た瞬間。
もう、スマホを投げることさえできなかった。