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その日、彼氏のユウと映画デートの予定だった。
選んだのは、みなみの好きなミステリーサスペンス。
上映中、何度か彼が手を握ってくれようとしたけど――みなみは、うまく応えられなかった。
(なんで……?)
目の前のスクリーンに集中しようとしても、頭のどこかで、別の“声”がこだましていた。
《……本当は、自分でも気づいてんじゃないの?》
(違う。違う……あたしは……)
隣でユウが小さく笑う。
それだけで、みなみはいつも安心できた。
けれど――今日は、その笑顔がやけに“幼く”見えた。
(あたし、なに考えてんの……)
ブロックしたはずの男のことを、どうして。
もうLINEも届かないし、会う理由もないのに。
「……みなみ、今日あんまり元気ない?」
上映後のファミレス。ユウのその言葉に、みなみはハッとする。
「……別に。普通」
「映画、つまんなかった?」
「違う。ちょっと寝不足なだけ」
(本当に、寝不足。……あんな夢、見なきゃよかった)
*
――昨夜。
夢の中、みなみはまたあの屋上にいた。
風が強くて、髪が揺れて、缶ジュースが床を転がっていた。
そこに立っていたのは、滝沢。
いつもの軽薄な笑みじゃなく、妙に冷たい目をしていた。
「……触ってないのに、どうして震えてんの?」
そう言って、スカートの裾に手を伸ばした――
「っ、……やだ……っ」
――目が覚めた。
汗ばんだ額と、胸の奥に残るザワつき。
そして、シーツの下で“濡れている”自分の身体。
「……最低……あたし、最低……っ」
その瞬間、スマホを手に取って滝沢をブロックした。
通知が来るたびに、心が乱れるのが怖かった。
でも。
今のほうが、ずっと怖い。
(……夢にまで出てきて、何が“ブロックした”だよ)
(どうかしてる)
*
「なあ、来週の記念日さ、どこ行きたい?」
「え?」
ユウの声で現実に戻される。
ファミレスのテーブル。ポテトの油の匂い。
「水族館? それとも映画、もう一回とかでもいいけど」
「……考えとく」
「そっか。……最近、みなみ、なんか変じゃね?」
一瞬、心臓が跳ねた。
「は? 変ってなに。」
ユウは、少し困ったように笑った。
「……なんか、心ここにあらずって感じ」
「……」
否定できなかった。
(全部……顔に出てんの?)
(違う。気のせい。あたしは、ユウが好きで……)
でも。
スマホに映るユウの笑顔と、夢の中で見た滝沢の目が、脳内で重なった。
*
その夜。
スマホを持ったまま、ベッドに横たわる。
ロック画面には、ユウとのツーショット。
花火大会のときの写真。嬉しそうな笑顔。
でも、どこか“子どもっぽい”と感じてしまう。
(あたしは、いつから……ユウを“守ってる”つもりになったんだろう)
(“安心できる相手”を選んで、そこで止まってるだけなんじゃ……)
通知は鳴らない。
滝沢は、もうLINEすら届かない位置にいる。
ブロックして、遮断した。だから、もう終わりのはずだった。
それなのに。
《……次に笑った時、それが“素”じゃなかったら……バレバレだから》
あの声が、耳にこびりついて離れない。
「……なにがバレバレよ。キモ」
吐き捨てるように言った声が、震えていた。
*
週明け。
バイト先のシフト表を見て、足が止まる。
(金曜、被ってる……)
滝沢の名前。
自分と、たった30分だけ。
それだけの重なり。なのに。
(……顔、合わせたくない)
そう思うはずだった。
なのに、同時に胸の奥が“疼いた”。
(……どうせ話しかけてくるんでしょ。
また、こっちのこと見透かしたような顔して……)
みなみは自分の心が“待ってる”ことに、気づきたくなかった。
でも、気づいていた。
そして――その“30分”が、決定的な一歩になるなんて。
このときの彼女は、まだ知らなかった。
⭐︎⭐︎⭐︎
バイト終わりの21時15分。
タイムカードを押した瞬間、みなみの背筋がこわばった。
「お疲れ」
聞き慣れた、低くて間延びした声。
滝沢レン。
ブロックして、無視して、忘れたはずの男。
それなのに。
「……あんたも、今日いたんだ」
「シフト表、見てなかったの? 珍しい」
「見た。30分だけだから無視できると思った」
「でも、無視できてない。ちゃんとこっち見たし」
「は?」
睨むように顔を向けたのに、彼はまるで挑発するように笑った。
その笑い方が、ほんの少しだけ心臓に引っかかる。
(……違う。これは腹立ってるだけ)
「バイト、辞めれば? 俺の顔、見たくないなら」
「その手には乗らない。逃げたと思われたくないし」
「へぇ、偉いね。そういうとこ、嫌いじゃない」
「殺すぞ」
そう吐き捨てて、更衣室へ向かう。
でも背中には、ずっとあの視線が刺さっていた。
見られている。
見透かされている。
“また来るだろ”という確信を、奴はもう持っている。
それが、腹立たしいほど悔しかった。
*
「佐伯さん、今、休憩終わったとこっすよね? ちょっと発注確認してもらっていいすか?」
厨房で、バイトリーダーの小島が声をかけてきた。
「あ、はい。すぐ行きます」
紙を手に厨房に入った瞬間。
隣にいたのは――滝沢だった。
「……邪魔だからどいて」
「いいけど、通るとき胸当たんじゃね?」
「死ね」
反射的に言ったのに、滝沢は笑いもせず、こう言った。
「それ、もう三回目」
「は?」
「“死ね”って言葉。お前、俺にだけ言う。……しかも、目を逸らさないまま」
「だから?」
「つまり、それって信頼されてるってこと。
他人に“攻撃”できるのは、心許してる証拠。知らなかった?」
「……っ」
何も言えなくなった自分に、軽く肩をすくめて通り過ぎていく。
その肩が、ほんの数センチ、触れそうで触れない距離。
それだけで、背中が粟立った。
(なんで、あたし……)
*
閉店後。
みなみがロッカーで着替えていると、スマホに通知が入った。
【滝沢(新アカウント):「よ!」】
「……っ」
怒りよりも先に、喉が詰まった。
(なんで……ブロックしたのに、また……)
既読をつけてしまったことに気づいたのは、1秒遅かった。
すぐさま、通知が返ってくる。
【滝沢:今どんな顔してる?】
【滝沢:耳、赤い? それとも、脚組んでんの?】
スマホを閉じた。
でも、顔が熱くなるのは止められなかった。
更衣室の鏡に映る自分。
制服の胸元が、ほんの少し上下している。
鼓動が、はっきり見て取れる。
(……気のせい、だよね)
でも――
脚の付け根が、じんわりと湿っていた。
「……嘘」
彼には触れられてない。
指一本、爪の先ほども触れられてない。
声をかけられただけ。言葉を投げられただけ。
なのに、身体が反応してる。
(こんなの、あたしじゃない)
(こんなの、認めたくない)
「……最低」
自分に向けて呟いた言葉が、やけにリアルだった。
*
帰り道、駅のホーム。
誰もいないベンチに腰掛け、スマホを見つめる。
【ユウ:今日お疲れ! 会えなくて寂しいけど……無理しないでね】
優しいメッセージ。
文末の絵文字も、あたたかい。
なのに――
(なにこれ、こんな“やさしさ”じゃ、心が動かない)
そう思ってしまった。
ほんの数ヶ月前までは、これだけで幸せだった。
でも今は、“もっと強い刺激”に身体が慣れ始めている。
たった数回の会話。
たった1通のLINE。
なのに、もう、“戻れない”。
その予感が、胸の奥を静かに満たしていく。