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「……は? あんたみたいな軽そうな男、無理だから」
真顔でそう言い放ったのは、バイト初日だった。
新しく入ってきた高校生――佐伯みなみは、ひと目見ただけで「絶対面倒くさいタイプ」だと感じた。
その顔。その態度。その眼。
滝沢レンは、思わず笑ってしまった。
「いや、ちょっと挨拶しただけなんだけど」
「“ちょっと”がウザいんだけど」
「へえ、強気だね。彼氏いんの?」
「いるけど、あんたに関係ない」
その返し。速さといいキレといい、ドンピシャだった。
(こいつ、落としたら絶対おもしれーな)
滝沢の中で、火がついた。
彼女がピンと張ったプライドの糸。
それを少しずつ、音もなく緩めていく作業は、彼にとっては“娯楽”だった。
*
「お前、最近バイト多くね?」
彼氏・岸田ユウは、スマホを見ながらそう言った。
カフェでの待ち合わせ。制服姿のまま、ポニテを揺らしてみなみが現れる。
「は? お金かかんの、色々。あんたの誕生日も近いし」
強い口調。でも、その中にある優しさを、ユウは知っている。
彼女は、好きな相手にこそ甘くなれないタイプ。
素直に「好き」なんて言えない。でも、態度で出す。
「ありがと。でも、無理すんなよ?」
「……あー、ほんっと、優しすぎてムカつく」
頬を赤くしてそっぽを向く彼女の手が、滝沢に握られる日が来るなんて。
このときのユウは、微塵も思っていなかった。
⭐︎⭐︎⭐︎
閉店後のカフェ。
店内には掃除機の音と、アイスの冷凍庫がうなる低いモーター音しかなかった。
「お疲れー」
「……お疲れ」
無愛想な返事。
佐伯みなみは、今日も変わらず塩対応だった。
制服の上からエプロンを脱ぎながら、後ろのポニーテールを解く。
その仕草すら、滝沢レンの目には妙に艶っぽく映った。
「さっきの客、ガム落としてったな。床ベタベタだわ」
「あー、あれ? 気づいてたけど、先輩が気づくかなーって見てた」
「おいおい、俺パシリじゃねーんだけど?」
「いや、パシリでしょ。どう見ても」
ため息をつくフリをして、滝沢は笑った。
ほんの少しだけ、手の届く距離に近づいて。
「ねぇ」
「ん?」
「彼氏とは順調なん?」
一拍置いて、みなみが睨んできた。
「キモ。なんであんたに報告しなきゃいけないの?」
「いや、気になっただけ」
「気にすんな。順調。以上」
「そっかー。……じゃあ、そいつとはもう、ヤったの?」
バチンと音が鳴った。
振り返りざま、みなみの指が滝沢の肩を小突いていた。
「マジで一回ぶっ飛ばされてみる?」
「いや、冗談冗談。……って顔じゃないな。ごめんって」
「……うっざ」
でも、怒ってるわりに、耳がほんのり赤い。
それが面白くて、滝沢は掃除のモップを持ちながら一言。
「処女か、処女じゃないかなんて、どうでもいいって。
俺が知りたいのは、あんたが誰かに溶かされるとこ」
「……は?」
低い声だった。
「誰にも負けない顔してるクセに、実は“女”としての扱いに慣れてない。……そういうの、わかるんだよね、俺」
「勘違い、しないで」
にじり寄る距離感を、みなみは睨み返す。
「私、あんたみたいなチャラい奴にビクともしないし、
“自分に自信ある女はスキがある”とか、安い読みしてくるタイプ、一番ムリだから」
その目は確かに強く、鋭い。
でも。
そのあと、モップを片付けようとした瞬間。
たまたま触れた、滝沢の手の甲。
「……っ」
一瞬、ビクリと跳ねた指先を、滝沢は見逃さなかった。
「お? なに今の。まさか、触れただけで……?」
「は、触れたくらいで、何勘違いしてんの……?」
言いながら、彼女は一歩引いた。
ほんのわずかな距離。でも、目はそらさない。
口は強くても、指先の震えが嘘をつけてない。
「……へぇ。おもしろ」
そう呟いた滝沢の目に、みなみは初めて“ゾクッ”としたものを感じた。
この男、ただのチャラ男じゃない。
人の表情と呼吸と、心の隙間を読むのが上手すぎる。
(ムリムリムリ……こいつ、ほんとヤバい……)
「とっととロッカー戻って。あんたと一緒とか、吐き気するから」
毒を吐いて、みなみは更衣室に消えた。
その背中を見送りながら、滝沢はポケットのスマホを取り出した。
開かれた画面には、バイト中に撮られた“うっすら頬を染めるみなみ”の横顔。
「へぇ……初日から睨んできたクセに、そんな顔すんだ」
画面をスライドして、もう一枚。
笑顔のつもりが引きつってる、でもどこか“女”を意識した表情。
(ちょっとずつでいい。あと2週間あれば、崩れるな)
滝沢の中ではもう、勝負は始まっていた。
*
帰り道。
スマホにメッセージが届く。
【ユウ:今日もバイト? おつかれ! 明日会えたら嬉しいなー】
【みなみ:ムリかも。疲れてるし】
絵文字も、ハートもなし。
指を止めて、送信。
一瞬、スマホ画面に滝沢の顔が浮かんだ。
(……なんで、思い出したの、今)
悔しいような、気持ち悪いような、でも――
どこか、刺激的だった。
⭐︎⭐︎⭐︎
「なぁ、今日ってこのあと暇?」
バイト終わりの更衣室。
佐伯みなみがスカートのシワを整えていると、背後からぬるりと滝沢の声が落ちてきた。
「ない」
「冷た。まだ誘ってすらないんだけど」
「誘う気満々の声してた。無理」
「あーもう、そこまで読まれてたら逃げ道ねーじゃん」
「逃げ道なんかいらないでしょ。どうせ口説けたらラッキーくらいにしか思ってないんでしょ?」
「……まぁ、否定はしない」
そのあっさりした肯定に、みなみは思わず笑った。
「最低」
「うん、自覚はある。でもさ――“話すだけ”なら、よくね?」
「……は?」
「このビルの上、テナント全部閉まってるから人いないし。屋上、けっこう風気持ちいいよ。鍵も俺持ってる」
「屋上?」
「うん。別に変なことしないって。話すだけ」
みなみは一瞬だけ、沈黙した。
(屋上、か……)
学校にも家にもない、誰にも見られない空間。
ほんの数分、涼むだけ。話すだけ。
――それくらいなら。
「……五分。マジで話すだけ。触ったら蹴る」
「はいはい、触りませんって」
*
「おー、風あるな。夜景もちょっとだけマシかも」
屋上には、使われてない送風機と、コンクリ壁。
夜の空気はほんの少し湿っていて、肌を撫でる風が心地よかった。
「な?」
「……まぁ、悪くはない」
「でしょ? ほら、ジュース」
「ありがと。……って、自販機こっちにあったの?」
「いや、買いに行ってた。俺、今日チャンスだと思ってたから」
「は?」
「今日、いつもより口数少なかったし。たぶん疲れてたでしょ? こういう時って、女の子のガード、ちょっとだけ甘くなるから」
「……マジでぶっ飛ばすよ?」
「やめて、モテなくなっちゃう」
くだらないやりとり。
でも、不思議と苛立ちはなかった。
(なんで……こいつと話してると、彼氏といるときより……)
「なあ」
「……ん?」
「彼氏と、どこまでいってんの?」
「……は? 何言って――」
「キス止まり? それともやってんの?」
「……っ、ほんっと最低」
みなみがジュース缶を床に置く。
すぐに帰ろうとしたその時――
「なあ待てよ」
滝沢が、急に声を落とした。
「処女とか非処女とか、そういうのどうでもいいし。……たださ」
「……なに?」
「俺から見ると、あんた、無理して“守ってる側”に回ってるだけっていうか……
本当は、自分でもわかってんじゃないの?」
その一言で、空気が変わった。
みなみの表情から、一瞬だけ“余裕”が消えた。
「……帰る」
「いいよ、止めない。けどさ」
「……なに」
「俺はもう、“あんたの表情”ひとつひとつ、全部覚えたぜ。んで、次に笑った時、それが“素”じゃなかったら……バレバレだから」
「……っ、……」
足音だけが、屋上に響いた。
*
その夜。
みなみは、ベッドの上でじっと天井を見ていた。
(なんで……あいつの言葉、あんなに引っかかってんの)
(ユウのこと、好きだし……安心するし……優しいし……)
でも、“あいつ”に言われたことを思い出すと、心がざわつく。
あの目。あの声。
“見抜かれてる”感覚が、頭の奥でずっと残っていた。
(あたし、別に……濡れたりなんか……)
そう思おうとした瞬間、自分の脚の間が――ほんの少し、熱を持っていることに気づいた。
「……うそ」
*
次の日。
滝沢からLINEが来た。
【滝沢:今日も屋上来る?】
【みなみ:行かない。てかブロックすんぞ】
【滝沢:そっか。昨日の顔、可愛かったよ】
みなみは即ブロックした。
けれど――そのメッセージは、画面に焼き付いて離れなかった。
(アイツ……なんで、あたしの顔なんか……)
鏡を見た。
いつも通りの自分。
でも、目だけが、どこか“期待”していた。