#17君ヲ連レ出ス理由
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初夏の陽射しの中、静かに進行していた“異変”がついに表に出始めます。
何も言わず、従順に任務をこなす凪。その背後で、ただ静かに積もっていく疲労と無関心。
本来なら気づかれないはずのその変化に、斎と綾女がようやく目を向けます。
それは、優しさではなく、怒りと決意による「選択」。
――誰かを守るということは、時に誰かの意志に逆らうことなのかもしれません。
季節は、初夏から盛夏へと向かっていた。
校舎の裏で鳴く蝉の声は、まるで梅雨を飛び越えるかのように、力強く夏の訪れを告げていた。
凪は、本家に戻ってからも、変わらず任務に追われていた。
登校するのも、週に一度か二度。
その姿はどこか儚く、それでも淡々と任をこなし、提出される報告書には一切の乱れがなかった。
――だが、顔色は日に日に悪くなる。
疲労。微熱。倦怠感。
声を上げることすら、意味を持たないとでも言うように、凪はただ黙っていた。
冥府の者の顕現は須皇本家も把握しており、霊災への出動命令が凪に下る際には、斎にも同時に通達がなされていた。
だが、冥裁の扉に関する正式な調印は、まだ須皇と冥府の間で終わっていない。
扉の管理者である斎は、本来、扉が顕現するのと同時に現世に降り立つのが慣例だった。
だが今回は、須皇からの申し入れによって例外が認められ、斎は“器”を見守る者として、先んじて現世に派遣されている。
斎の務めは、器である凪を見届け、その安定を保つこと。
それゆえに、正式な調印が成るまでは、冥府から与えられた制限の中でしか動けなかった。
学苑で、時折見かける凪の様子――
それは“静かなる異変”と呼ぶべきものだった。
斎はただ傍に控え、さりげなく補佐していたが、次第に無言で眉を曇らせていった。
「……綾女先生。少しご相談が」
職員室の隅で声をかけたその一言に、綾女はほんの一瞬だけ目を見開いた。
「あら、名前で呼んでくれるようになったのね」
「はい。……凪さんが、その方がいいと」
斎は静かに、しかし躊躇なく言葉を継ぐ。
「……凪さんの件で、気になることがありまして」
彼の報告は冷静だったが、行間に込められた焦燥を綾女はすぐに察した。
登校の減少、体調の悪化、そして何より――“声をあげない凪”という異常。
「……あの人の顔を見るのは、正直気が進まないけど――仕方ないわね」
綾女がそう呟き、バッグからスマホを取り出した。
本家、須皇家。
本邸の裏手にある旧館の一室。
凪は霊災任務で不在だった。
綾女の会いたくない人も同じく不在で、凪の部屋への案内は世話人と呼ばれる、須皇分家の人間が付き添うことになっていた。
世話人の案内で通された部屋に、斎と綾女は言葉を失った。
空気が澱んでいる。ひんやりとした感覚が、肌にまとわりつくようだった。
窓はなく、厚く張られた結界と護符が壁一面に貼られている。
床には薄い布団が一枚。
部屋の隅には、書物と報告用紙が山積みにされていた。
冷蔵庫も薬棚も見当たらない。
机の上に置かれたペットボトルだけが、わずかに“生活の痕跡”を物語っていた。
「……これ、座敷牢じゃない」
綾女が呆然と呟く。
「これは……一体、あの人を、こんなところに閉じ込めているのか……」
斎の声に、怒りと戸惑いが混じる。
「食事はこの通りです」
世話人が差し出した箱の中には、味気ないパンと栄養補助サプリが並んでいた。
「凪様のお立場は万が一があってはならぬと。情緒の乱れによる顕現を防ぐため、刺激物や嗜好品は避けるようご指導いただいております」
その“ご指導”が誰の意志か、綾女にはわかっていた。
「……先日、解熱剤を持たせたはずだけど。ちゃんと使わせてる?」
「いえ、純血に不純物が混ざるとのことで、廃棄いたしました」
綾女の拳が、震えた。
「……あのヒヒジジィ……」
口調に滲んだ怒気に、斎が小さく目を見開く。
ふと、ゴミ箱の中に捨てられた包帯に気づいた斎は、その血のにおいに記憶を重ねる。
――また、あの“誘き出し”を自らに施しているのか。
「まだ新しいですね。彼の手当は、誰が?」
「凪様は尊い御方ですので、我々には触れることが許されておりません」
「……直系の血を守るために輸血もできない決まりがあるのよね、本家だけは」
斎の視線が、冷たくなる。
「体調を崩しても薬は出ない。怪我も最低限の応急処置で、あとは自然回復。
――そんな状態で、彼は日々、命を削っているんですね?」
「“器”としての耐性を育てるため……と」
「……ふざけんな」
綾女が一歩、世話人に詰め寄る。
「凪が死ぬわよ。このままだと」
斎の背後で、空気がわずかに歪んだ。
彼の肩から、一瞬、黒い気配が滲み出る。
それはすぐに、霧のように消えた。
「……この場所が、凪さんを守る場所だとは、到底思えません」
声は静かだった。
だが、奥に込められた怒りは鋼のように冷たかった。
無力感が、胸の奥を鈍く殴っていた。――それが、ただ悔しかった。
綾女は、深く息を吐いた。
「……ごめんなさい。私の職務怠慢だわ。
情操教育の一環として、本人が納得していたから黙認してたけど……こんな環境になっていたなんて」
「これで、すべて合点がいきました。
あの人は、今、確実に蝕まれている……心も、体も」
「時継がそう簡単に手放すとも思えないけど……」
綾女は顎に手を当て、斎の方を見た。
「斎さん。協力してくれる?」
「――凪さんのためでしたら」
その一言に、迷いはなかった。
綾女の目が、ふっとやわらぐ。
「あなた、家事全般はできる?」
「はい。丁稚奉公でしたから、一通りは心得ております。
掃除、炊事、調薬、すべて修業の一環で。現世の家電も、おおよそは把握しています」
「それなら安心ね。……じゃあ、今日は帰るわ。お邪魔しました!」
足早に玄関へ向かう綾女に、斎もすぐ続いた。
その夜。
斎は、冥府へ戻るため、あの寺院跡の綻びに立っていた。
この世と冥府の境目――
それは、都市のあちこちに“裂け目”として存在している。
政府の記録係がそれらを調査・報告し、陰陽師たちによって封じられるのが通例だ。
だが、この裂け目は斎が結界を張り、冥府との通行用に密かに残していたものだった。
「閻魔大王から、凪の保護に関する冥府令をもらってきて」
それが、綾女の頼みだった。
凪の素養を冥府が正式に調査する、という名目で。
斎の手で、彼を本家から引き離す――それが綾女の描いた筋書きだ。
「大胆な人だ……。だが、ありがたい」
斎は裂け目に手をかざす。
淡く光が走り、空間が揺らぐ。
その旅路の先に、凪の救いがあることを願って――
斎の姿が、音もなく消えていった。
本家の“凪という器”への扱いが明らかになるにつれ、物語は一気に冷たく鋭くなりました。
けれど、それに負けない形で浮かび上がったのは、斎の怒りと綾女の覚悟。
守るという行為は、ただ寄り添うだけでは足りない。
立ち向かう勇気と、居場所をつくる行動があって初めて“救い”となるのだと、ふたりの背中が教えてくれました。
次回は、ちょっとだけ斎が冥府へ戻ります。