3話「名乗られて思い出す」
「アイトレッタさん……!」
庭を散歩していたら急に声をかけられた。
声がした方へ目をやる。
すると柵の向こう側に一人のやや童顔な青年が立っていた。
くるくるしたミルクティー色の髪が愛らしい印象を与えてくる。
「あ……」
「良かった! 無事で!」
誰だ? ――そう思っていたら。
「あ、ちょっと、今からそっち行きますね! いいですよね? てことで、お邪魔しまーす!」
彼は柵を越えてこちらへ進んでくる。
待って待って、不法侵入!
「どなたですか!?」
「――え」
やってしまった、と思う。
アイトレッタの記憶をもう少し調べてみるべきだった。そうすれば分かったかもしれないのに。なのに、勢いのままに直接尋ねてしまった。これは失敗だ。
「アイトレッタさん、どうして……?」
彼は驚き、しかしその後不安げな顔をした。
「あ……あの、実は……記憶が怪しくて」
まずい! まずいぞ! 万が一中身が別人になっているとばれたら――いや、さすがにそれはないか。
「自殺未遂の……影響ですか?」
少し聞きづらそうな顔をしながら彼は取ってくる。
「えっ。その件、ご存知だったのですか」
思わず心がこぼれた。
「そうですよ! 情報はすぐに入ってきました! アイトレッタさんが死のうとなさったって聞いて、それで、びっくりして」
「それで、どなたなのですか?」
「あ、はい! そうですよね! 言います、僕はタランです!」
「タラン、さん……」
脳へと思考を巡らせる。記憶の海を泳ぎ探る。そうすれば徐々にその記憶へと腕が伸びるようで――。
「あ! 郵便屋さんの!」
タラン、彼は若き郵便屋で父も郵便屋だった青年。数年前からアイトレッタと顔を合わせていて、時々立ち話をしたりしていた。自殺未遂の前日にも顔を合わせて前の日に見た鳥の話をした。
「そうですそうです!」
「何とか思い出せました、ありがとうございます」
「うわぁ、良かったぁ……忘れられていなくて……」
「すみませんでした」
「あ、いえ! そういう意味じゃないですよ!」
この日以降、私は、定期的にタランと軽い話だけをするようになった。
でもそれは今に始まったことではない。元々アイトレッタがしていたことだ。だから私が勝手に始めたわけではないし、世間から見て許されないことでもない。
雨降りの日には。
「いやぁ、凄い雨ですねぇ」
「そうですね」
「あ、その傘可愛いです! 新作です?」
「はい、母がくれたものです」
「ええ~! おしゃれ~!」
傘について喋ったり。
また別の日、少し暑い日には。
「今日はちょっと暑いですね」
「大丈夫ですか? 忙しくて水分補給する間もないのでは?」
「えっ、もしかして心配してくださってます!?」
「普通しますよ、この暑さですし」
「そ、そうですか……でも! 貴女にそう言っていただけたらとっても嬉しい! 元気が出ます!」
そんなどうでもいい会話をしたりした。