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第11話 影

 僕は温泉を取り囲むように、魔物避けの簡易結界を一定間隔を保ちつつ木々や地面に貼り付けてゆく。


 使用しているのは、油紙に術式を書き込んだ携帯タイプのものだ。


 小さく折りたためるので積み荷を圧迫しないどころか服にも仕込んでおける。


 固定するのに鋲を必要があるので劣化が早いものの、素早く設置できるので重宝している。


 おまけに打ち込んだ鋲が経路となって木々や地面から魔力を吸い上げて効果が持続する優れものだ。


 それにこの簡易結界が特に優れている点は、僕のように魔術を使えないヤツでも手軽に扱うことができるところだ。


 冒険者見習い(サポーター)には必須のアイテムと言ってもいい。


 もっとも、この結界は弱い魔物にしか効果がないけど。


 まあ、この辺りに出没する魔物程度なら十分だ。


「さて……このくらいでいいか」


 汗を拭い、空を見る。


 すでに日が落ちかけている。


 森の中は薄闇に覆われていて、足元が少し見づらい。


 僕は腰から携帯カンテラを外し、点灯させる。


 すぐに周囲が白っぽい光で満ちる。


「これでよし。……やっぱり、火力タイプの方がよかったかな」


 僕の携行しているカンテラは魔力触媒を灯す、いわゆる『魔導タイプ』だ。


 これは普通の火と違い、触媒自体が発光し揺らぎのない青白い光を放つ。


 影が死角になりうるダンジョン内では、くっきりと暗所を照らし出すこの魔導カンテラが必須だけど……普段使いでは暖かみが感じられないというか、情緒の欠片もない光だ。


 特にこういう森の中だと、それが一層際立ってしまう。


 なんだかもの悲しいというか寂しい気持ちになってくる。


「……はやく戻ろう」


 身体も冷えてきた。


 僕は歩みを早め、木立の間を抜けてゆく。


 幸い明かりのお陰で木の根っこに足を引っかけることはなかった。


 しばらく歩き、少し森がひらけた場所に出た、そのときだった。



 ごおっ――



「うわっ!?」


 森がどよめき、凄まじい突風が木々の間を吹き抜けた。


 落ち葉や下草が舞い上がり、僕は腕で顔をかばう。


 頭上に真っ黒な影が差したのは、それと同時だった。


「……っ!?」


 咄嗟に顔を上げる。


 暮れなずむ濃紺の空よりもずっと黒い。


 それは巨大な翼を持った、夜の塊だった。


 それは一瞬で僕の頭上を通り過ぎ――森の向こう側へと消えていった。


「な、なんだったんだ……?」


 凄まじい大きさだった。


 あれは魔物だろうか。


 あんなサイズの魔物は珍しい。


 ドラゴンだろうか?


 そんなわけはない。このあたりにドラゴンはいない。


 レナートたちだったならば『凄まじい魔力の塊が近づいてくるぜ……!』とか何とか言って事前に感知できたかもしれないけど、あいにく僕のスキルの中にそんな便利なものは存在しない。


 でも……あれが向かって行った方角は……温泉の方だ。


「ルカ!」


 僕は全力で駆け出した。




 ◇




「えっと……先客さんかな?」


 赤髪の小柄な少女が、気持ちよさそうに温泉に浸かっている。


 年は、十かそこらだろう。


 もっと下かも知れない。


 白濁した湯に顔を半分ほど沈め、ぶくぶくと息を吐き出していたりするところは、どうみても子供にしか見えない。


 だからこそ、ルカは湯船から立ち上がったまま、動けなかった。


 さっきまで自分一人だったはずだ。


 剣士であるルカは、感知できる距離は短いものの『気配』を感じ取るスキルを持っている。


 効果範囲は、半径おおよそ五メートルほど。


 湯船をちょうど覆う程度の範囲だ。


 そして感知できる気配は、人であろうが魔物であろうが違いはない。


 赤髪の少女には、気配『だけ』が無かった。


 いや、あることある。


 だけども、あまりに小さすぎるのだ。


 そこに人がいる、と意識しなければ感じ取れないほどに。


 あり得ない小ささだ。


 せいぜい、ネズミか子ウサギ程度だろうか。


 だから彼女がいつからそこにいたのか、ルカには全く分からなかった。


「なんじゃ? そのままでは身体が冷えてしまうぞ? この辺りの夜は、存外冷え込むのでな。……それともお主、自分の肢体(からだ)を我に見せつけたいのかえ? そういう趣味なのじゃな?」


「……はっ!? いいいいいえいえいえっ、ゴメンなさいっ! そんなつもりじゃなくて……っ」


 少女のじとっとした視線を向けられ、ルカは我に返った。


 慌てて身体を両腕で隠し、そのまま勢いよくドブン! と湯に浸かりなおす。


「ふん。まあ、良い。我もたまにはのんびりしたいのだ。お主も、のんびり湯治に励むが良いぞ。ふあぁ……」


 よく分からないことを言って、少女は大きなあくびをした。


 幸せそうな顔で、湯船を漂っている。


(敵意は感じられないけど……)


 ルカも今は無防備だ。


 装備も武器も全部脱衣所に置いてある。


 一応、素手でも男の冒険者を叩きのめすことくらいはできる自信がルカにはあったが、それで通用するのか分からない。


 間違いなくそこに居るはずなのに、人ではありえないほど、気配が小さい。


 そんな少女が、見た目通りの少女のわけがないことくらいルカだって分かる。


(ええと……こういうとき、どうすればいいんだろう)


 意思の疎通が不可能な魔物ならば、戦えばいい。


 悪意を持って襲ってくる人間も、戦えば済む。


 とてもシンプルだ。


 けれども、目の前の少女は気配がありえないほど小さいだけだ。


 敵意は一切感じられない。


 もちろん、こちらを歯牙にもかけぬほどの実力者ならそういう態度も頷けるだろう。


 けれども。


 湯の上に出た滑らかな小さな肩も、


 触れただけで折れてしまいそうな細い首も、


 水分を吸ってゆらゆらと水面を漂う赤髪も、


 人形のように整っているものの相応の幼さを見せる愛らしい顔も。


 少女を脅威と断じるに足る要素はどこにも見当たらない。


 だからこそ、異様そのものなのだが。


 だけど。


 ルカが取り得る手段なんて、ひとつしかない。


「ねえ君。君も湯治に来たの? 人間……じゃないよね?」


 体当たりしかなかった。


 腹の探り合いは苦手だし、嫌いだ。 


 ルカはこれまで、そうやって生きてきた。


 それは相手が人の形をした何かだろうと、変わらない。


「お主、物怖じしない性格じゃな……というか、もっと何かあるじゃろ。人間らしく、迂遠な言い回しやら腹の探り合いとか」


 なぜか少女が面食らったような顔をした。


「ごめんなさい。でも私、はらげい? って苦手で。でも、お話はできるんでしょ? なら、直接聞いた方がいいかな、って思って」


「我が会話をしただけで相手を呪い殺すような存在ならどうするつもりだったのじゃ……そもそも、ここになぜ人間が……我の見つけた穴場だったというのに……まあ、よかろう。これも、裸の付き合いというもの」


 なにやら少女が小難しい顔で独り言を呟いている。

 全部ルカには丸聞こえだったが。


「それで、君の名前は? 私はルカ」


「……フレイトゥムナ。お主は特別にフレイと呼ぶことを許すぞ」


「あ、ありがとう? よろしくね、フレイちゃん」


「うむ」


 と、少女――フレイが、ふい、と顔を上げた。

 何かの匂いを嗅ぐように鼻をひくひくとさせる。


「……ふむ。我は少し、のぼせてしまったようだ。先に上がるとしよう」


 言って、フレイは湯から上がった。

 小柄な体躯が露わになる。

 髪を結わずに湯船につかっていたせいで、長く、燃えるように赤髪が背中に張り付いている。

 ルカにはそれが何か生物の皮翼のように見えた。


「ときにルカとやら。お主らは山へ向かうのか」


「う、うん、そうだけど」


「そうか。ならば、気を付けることだ」


 肩越しに振り返って、フレイが笑みを浮かべる。


「山にはな。怖い怖い竜が棲んでおるのじゃ。その竜は悪知恵ばかり働く。一つ忠告しよう。もし『花畑』に足を踏み入れたならば、即刻立ち去ることじゃ。バカ正直なお主など、あっという間に頭から食われてしまうからのう。カカカ」


 まるで獲物を狩る前の獣のような、獰猛な笑みだった。


「う、うん。肝に銘じて――え?」


 言いかけて、ルカは目を見開いた。


 さきほどまで湯の中に立っていたフレイの姿は、どこにも見当たらなかった。

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