肆、捧げ物
橋姫、嫉妬に狂い鬼に堕ちた女。
外敵を締め出す守り神とも、夫婦の仲を別つ鬼女とも言われている。
彼らの力を有り難るのも厭うのも同じ人間だ。
鬼にもいくつか種類があり、例えば、嫉妬に狂い縁を断たんとする者、恋に執着する者などには橋姫が憑くことが多い。
目の前の女に橋姫が憑いているということは、何かしらあの青年に執着しているのだろう。
しかもこれは、凄く長い時間かけてこびりついた思念たちだ。
リィンと鈴を鳴らして結界を張る。
途端に空気が、景色が一変する。
こちらを仁王立ちで睨みつけてくる彼女の気配は、どんどんどす黒く淀んでいく。
「……ルナ」
唸り声の奥からなにか言葉が漏れてくる。
「聞こえないよ、もっとはっきり喋ったらどうだい。」
実のところ、鬼はあんまり知能が高くない。
煽らせるように語りかける。
「……マヲ………スルナ……!ジャマヲ、スルナ!!」
青白く見える彼女の顔は、文字通り鬼の形相だった。
「私の!私の男よ!付き合ってるの!私は彼を愛しているし、彼も私を愛しているのよ!!みんなだって応援してくれタワ!!!おめデとウって、わたしガっ!ワタしノッッ!!ゔぅぅグァあアアア!!」
支離滅裂にわめき散らしたかと思うと、彼女から漏れ出ていた黒い気配が徐々に具現化していく。
「やっとお出ましか。そんなにその依り代が気に入ってるの?それともおまえの力が弱すぎるのか、どっちなんだろうねえ。」
結界内では現世との境目が曖昧になる。
人間に取り付いた鬼やら怪異やらはこの結界内では姿形を露わにできる。
橋姫は長い髪を振り乱し、嫉妬に濡れた形相と恐ろしい牙、そして鋭い爪を持った姿で具現した。
「憎イ……男ガ憎イ……オマエガ憎イ…………喰ッテヤル……!殺シテヤル!!!」
大きく咆哮をあげながら、こちらへ駆け寄る。
放つ殺気は中々のものだ。若いが、中位くらいの力はあるのだろう。
振りかざされた爪は鋭く、裂かれたらひとたまりもなさそうなそれを難なく避け距離を取る。
サラリ
伸び切った髪を纏めていた簪をひき抜き、陣を結びながら祈りを込める。
「アマツカミに御頼み申す。力を寄越しな!ヨミノミコト!」
捧げるのは信仰と、自身の血肉。
おれは簪を、己の心の臓へと突き刺した。
たらたらと滴り手を伝う血は、黒く赤い。
「フザケルナァァアァアアァア!!!」
ヒュウと息を吐き、簪を引き抜く、そこには一振りの赤い刀剣。
右手で軽く握りしめ、鬼に向かって振りかざす。
「あんたの贄だ!しかと味わいな!!」
心の臓の奥の奥、己の中で勝手に眠るあのお人に向かって届かぬ言葉を投げかける。
狙い定めた太刀筋は、吸い込まれるように鬼の首元へと運ばれていく。
ズシャリ。
静かな音が結界内に響き渡る。
それは、鬼の首が落ちた音だった。
と同時に、先程まで垂れ流されていた、嫌な気配も霧が晴れる如く薄れていった。
「こんなもんか。」
おれは足元に転がった鬼の首をとり、バリバリと頭から貪った。
僅かに何か、力の様なものが体を巡っていく。
指先に熱が募る様なそんな感じだ。
この“食事”は自分でもエゲツないなとは思うけれど致し方ない。
これもおれが“普通”に戻るには必要なことだ。
そうこうかしているうちに後ろの方から呻き声が聞こえてきた。
先ほどまで鬼に憑かれていた子だろう。
鬼と一緒に死ななかったということは、まだ、救いようがあると言うことだ。
近寄って様子を見るが、外傷はない。
ただ顔色が絵の具を頭から被ったかの様に真っ青だ。
「ここは……?」
「倒れていたんだ。君、大丈夫かい?」
「え、あ……はい。」
「ああ、良かった。おれの目を見て?」
「……え?」
黒い瞳が確かに琥珀色したその水晶体を捉えた。
おれは笑う。努めて穏やかに、いかにも人の良さそうな笑みを浮かべる。
「こっぴどく振られたんだって?そんな酷い男のことなんか忘れて、何処か遠くに行くといい。」
そうして耳元で、囁いた。
「え? あ……はい。そう、します。」
彼女は霞がかった朧げな瞳で頷いた。
結界を解き、良きところに彼女を放置してそのまま立ち去る。
事後処理?いらない、いらない。
だってみんな明日になればおれのことは忘れてしまうのだから。
案外とアッサリ終わってしまった。
まだ若い鬼のようだった。つまりは持っていた力もその程度というわけだ。
「あとどれくらいで、おれは死ねるかねえ。」
胸元からタバコを取り出し火をつける。
立ち登るケムリが消えゆく如く、男の後ろ姿もふわふわりと消えてしまった。