電車と獣道
空が朱に染まる頃、電車の中の空気は青白い。
平日のこの時間では日常だ。老いも若きも、似たような顔色の人間がすし詰めになっている。
制服にしろ、会社に着ていく背広にしろ、この国の古い人間たちは黒い衣装が好きだったらしい。着られている人々の表情も相まってそれらはまるで喪服のようだ。
時たま女学生が騒いだりもしているが、そういう手合いには周りの静かな、それでいて毒を含んだ視線が向けられ、結果自然に黙っていく。
彼もまた似たように沈んだ表情だった。
大学終わりの電車の中で、彼は特別浮いた存在でもない。
その他大勢と同じく浮かない顔で、肩をくたびれさせて電車に乗ってきた。
要するに講義がつまらなかったのだ。
なまじ勉強ができたために周りの勧めで医大に入り、いざ入ってみれば講義についていけずうだつが上がらない日々を過ごしていた。
大学の講義は教わる意志が無ければやっていけないものだ。そんなことは入る前からわかっていた。
それでも周りの大人たちは、男の子を見れば息子に、生徒に社会的な立場を得てほしいと考えるものだ。
彼らの期待を重荷に感じながらも、彼は日々事務的に大学に通い、今日も疲れた顔で電車に乗り込んだ。
電車の座席は、大抵似たような人々に占拠されていて満席だ。
田舎の鉄道の車内はクロス・シート制、もしくはボックスシートと呼ばれる座席(二人ずつ向かい合う形の電車の座席)だった。
座る分には快適だが、代わりに通路は狭く吊革も無い。
なので立っている乗客は発進と停車の度に足を踏ん張らなければならなかったが、
――あそこ、何故空いてるんだろう。
車両の端の方に、彼は一つだけ空いている席を見つけた。
その付近にだけは人も集まっていないし、何故か敬遠されているようだった。
対面四人座れるシートには、青年が一人だけ座っている。
据え付けられたテーブルにノート(パソコン)を広げ、パタパタと何やらタイピングをしているようだった。
周りの人々は青年を見て何やら噂をしていたようだったが、
「……すいません、相席いいですか」
「どぞ」
彼はそれだけ言い、青年が軽く頷くのを見るとその正面に座った。
勿論、正面に座れば相手の顔と直接向かい合うことになる。
多くの日本人の若者の常として、彼も他人と目を合わせるのを苦手としていた。だから最初は窓の外の夕日をぼんやりと眺めていただけだったが、
「君、学生?」
「え、あっはい」
声を掛けられるとそうもいかなくなる。
向かい合った青年はすっきりした顔をしていた。
何か妙に光の強い視線を向けながら、他愛ないことを聞いてきたものだ。
ほとんど条件反射で応えると、青年は笑った。
「はっは、元気のない顔をしてるねぇ」
にやっと笑った顔は快活だったが、台詞回しが何となく年寄り臭い。
最も彼自身、自分が浮かない顔をしている自覚はあったので、苦笑して「そうですか」と答えるしかなかった。
「うん、目が死んでるよ。何かヤなことあったかい」
「はぁ……嫌なことというか」
ごく自然な流れで話が始まってしまったが、彼はそこまで話し上手なわけでもない。なぜ見ず知らずの男とこんな風に世間話をしているのか、話しがてら疑問に思っていたぐらいだった。
「へぇ」
「ふんふん」
「ほぅ」
それでも何故か彼は自然と青年に語らされる。
口下手な彼とは対照的に青年は聞き上手だった。
話の節々で巧みに相槌を打ち、彼の口が止まると自ら質問してきた。
青年は彼より五、六歳は年上だろうが、興味津々といった顔で目を見開く様子は十代前半の子供のよう。
そんな様子で話をせがまれると、語り手は自然と口数が多くなるものだ。
逆に彼自身はあまり明るくない身の上話を重ねる自分はなんだか老け込んでいると感じた。先は相手に抱いた感想だろうに、とも。
「……じゃ、医学に興味ないのに医大に入ったんだ」
一通り聞き終えると、青年は彼が浮かない顔をしている理由をざっくり言ってのけた。
確かにその通りなのだが、こう直球で応えるとすぐにうんとは答えにくい。理屈でなく気持ちの問題で。
言葉に詰まっていると、青年はノートに目を戻しながら聞いた。
「じゃあ、やりたい事とかなかったのかい? 子供の頃から好きだったこととか。俺は本やゲームばっかだった」
「僕も似たような感じです」
彼も外交的な方ではなかったから、自然とそういう趣味になった。
だが、それは必ずしも好きだったから、というわけでもない。
他にすることが無かったという事でもある。
「いじめられてて、あまり外に出てこなかったんです。僕、暗いから」
「……あぁ、そういう口か」
今日日そう珍しい話でもない。青年も短い言葉で理解してくれた。
ただ、理解してくれただけで、肩を持ってくれたわけでもないらしい。
今まで笑っていた目が急に据わって、真顔でもう一度彼を見つめた。
「それでも、外に何かを求めようとしないのは君のせいだよ」
青年に指摘されて、彼もまた真顔になった。
人に攻撃されてきた彼は、いつしか自分を主張することも無くなっていった。
元々彼は多趣味な少年で、花や星が好きな詩的な感性を持っていたが、家族もクラスメイトも体育会系で理解者がいなかった。
逆に、彼の趣味を女々しいと笑い、侮ってくる事もあった。
一度相手を侮ると、それはどんどん激しくなるものだ。
言葉は暴力に、暴力は犯罪に。彼も、彼の周りもその例に漏れなかった。
目立てばひどい目に合う、と。
誰にともなくそう刷り込まれてきたから。
理不尽な目に遭ってきた人は無条件の味方を求めるものだが、この青年は手放しで彼に同情してはくれないらしい。
それが何となく悲しくて、彼は自然と俯き加減になった。
そんな彼を見ると、青年はまた笑った。
「そういじけるなよ。君のせいだけど、君が悪いんじゃない。悪いのは『運』だよ」
「運?」
「そ、運。実力の正体は運なんだから」
奇妙なことを言うと、青年はノートを裏返して画面を見せてくれた。「俺の仕事を見せてやるよ」と。
「……小説?」
「うん。俺、結構有名らしいよ」
らしいと曖昧な表現だが、青年の言う事は本当だろう。
さっきから周りに遠巻きにされているのも、誰も相席しようとしなかったのもそれが理由のようだ。この様子だとそこそこ売れっ子なのだろう。
最も彼には周りの客の様子など目に入っていなかった。
見せられた画面だけで十分だったのだ。
「……すごい」
描かれていたのは書きかけのファンタジー。
極彩色の世界観に、人でない沢山の生き物たち。
絵が描いてあるでもなくそこにあるのは文字だけだが、白地に文があるだけでこの世にない景色が見えてくるようだった。
「どうだい……これは全部この世に無いものだよ」
それはそうだろう。『幻想』なのだから。
だが、だからこそ彼は感慨を覚えた。
想像一つでこんな世界を作れるなんてすばらしいことだ、と。
「すごい……才能ですね。こんなものを作れるなんて」
彼は他意無く褒めたのだが、青年は首を横に振った。
「作ったんじゃないよ。出会ったのさ、『運よく』ね」
青年はノートを畳み、席を立った。
もうすぐ降車駅なのだという。
彼は電車のゲートまで、理由もなく青年の背を追った。
到着のアナウンスと共に、窓の外から流れる景色がゆっくりになっていく。
田舎の駅の周りの景色と言えば、森に、田畑。翠の世界。
冒頭を読み齧っただけだが、それらはすべて青年が描くファンタジーの中に豊かに登場するものだった。
「君は、見えるかい?」
「え?」
「物語と同じように、あの森の中にさ。神様とか、モンスターとか、その姿が見えるかい? ワクワクする世界が」
「………」
一角の獣。湖の乙女。
過ぎていく森の中に、彼はそんな姿を見ることはできない。
やがて電車が止まり、森と無人駅の景色が固定されても、また。
「ずっと、本ばかり読んでいた。その中の世界に憧れて、行ってみたいと思った。そう思えた『幸運』が、俺を物書きにした」
「……でも、そのための努力はしたでしょう? 小説家になるための」
青年は笑い、電車を降りた。
森の中に大きな台座を置いて、切符入れを置いてホームと呼んでいる。そんな感じの辺鄙な駅だ。
降りた客は青年一人だけ。それが彼と喋っているから、車掌は少し発車を待ってくれた。
せいぜい数十秒くらいだが。
「努力なんて誰だってしてるさ。君だってしんどい所で頑張っているじゃない、運が悪いから身にならないけど」
アナウンスが鳴った。
ゲートから身を乗り出していた彼は車掌に注意され、車内に戻るなり扉の駆動音が鳴る。
「勝負は時の運だよ。君の『幸運』は、今いるそこにはないだろう? 探しに行ったらどうだい」
すぐに扉が閉まり、電車は動き始めた。
青年の最後の一言が、景色と背筋の伸びた後ろ姿と共に流れていく。
「明日勝つために今いる場所から逃げるのは、そう恥ずかしい事じゃないよ」
青年を下ろした電車は沢山の人々を載せてレールの上を走り出した。
彼は後日、もう一度だけこの通学電車に乗った。
それを最後に同窓生は彼の姿を見なくなり、いつしか噂も絶えた。
※この作品はLINEノベル「第三回ショートストーリーコンテスト」に応募した作品です。
LINEノベルのサービス終了に伴い作者が転載したものです。
短いですが完読ありがとうございました。




