2.虎穴 中
「なるほど。事情は分かりました。そのエイナという寵姫は、もうじきこの部屋を訪れるんですね?」
話を聞き終えて、セオタスは大きく頷いた。問いにユォノは「そのはずだが」と曖昧な返事を、目の前の背中に投げかける。どういう訳か、セオタスはザーシェとの間に割って入るように腰を下ろしていた。あまり類を見ない縦並びである。端的に言えば、邪魔。
「……セオタスどの。私の前に陣取られると視界が塞がるのだが」
「申し訳ありませんが、私はまだこの少年を信用していませんので」
頑なに首を振るセオタスに、ザーシェは飄々とした態度で「兄さん面白い人だな」とけらけら笑っている。頭痛がするようだ。ユォノは思わず額を押さえた。
「兄さん、いくつ? 俺は八つ」
「へえ」
「こないだ前歯が抜けたんだ、ほら」
「本当だな」
何も考えていない様子のザーシェと言葉を交わしながら、セオタスの腕組みが徐々に緩んでゆく。その様子を横目で眺めながら、ユォノは廊下に続く扉の方をちらちらと窺った。咄嗟のことで、通りすがりの少女にエイナを呼ぶように頼んでしまったが、果たして問題は起こっていないだろうか?
「――俺に兄はいない。ああ、歳の離れた弟がひとりいるな」
「へえー。おれは妹がふたりいるんだ。最近生意気になって腹立つぜ」
「兄に甘えているんだろう。可愛がってやれ」
「じゃあ兄さんも弟と一緒に遊んでやった方が良いんじゃないの」
しばらく通路の方を窺ってから戻ってくれば、セオタスが表情を緩め、気安い調子でザーシェと向き合っている。あっさりと心を開いている様子に、さっきまでの警戒は何だったのだ、とユォノは思わず白い目を向けた。油断するな、などと言われたが、完全に怒られ損である。
ふーん、と思わず声が漏れた。腕を組んでセオタスを見下ろす。
「……セオタスどのは、根が良い人だな」
「ユォノどのに言われたくありませんね」
揶揄すれば、セオタスはばつが悪そうに耳朶を赤くして目を逸らした。そのやり取りを見比べて、ザーシェがへらりと笑顔を浮かべて頭を掻く。
「いやー、やっぱりおれが良い子だからね」
「それはない」
「誰が良い子だ」
同時に否定を入れたところで、扉が遠慮がちに叩かれる音がした。ユォノは息を飲む。室内は一瞬にして張り詰めた。
扉を開けると、そこには青ざめた表情の中年女が立ち尽くしていた。
「……エイナと申します。お呼びだと聞いて伺いました」
「ああ、ご足労感謝する」
随分と怯えさせてしまったらしい。なるほど、確かにそれまで幅を利かせるような行動を取ってこなかった大部屋の主が、いきなり自分を呼びつけたら驚くだろう。それも、何の心当たりもないとなれば。
「どうぞ中へ」
ユォノは努めて柔らかい語調で声をかけた。おずおずとエイナは足を踏み入れ、促されるがままに後ろ手に扉を閉めるが、そこで立ち止まって眦を下げている。部屋の奥を見まいとするように目を逸らしながら、小さな声で問うた。
「で、でも、殿下がおられるのでは……?」
「ああ、あれは見えないふりをして頂いて構いません」
畏れから縮こまっているエイナを宥めるべく適当なことを言うと、背後から「えっ」と愕然としたような声が漏れた。肩越しに振り返るとセオタスがあからさまに悄然としており、ザーシェに慰められている。
と、そこで、本来後宮にあるはずのない少年の姿を見咎めたエイナが、大きく目を見開いた。彼女が思い切り息を吸うのを見て、ユォノは慌てて視界に入ってぎこちない笑顔を浮かべる。
「これには深……くはない訳がありまして、その、どうか落ち着いて聞いて欲しい」
ザーシェが余計なことを言わないようにとセオタスがその口を片手で塞いだ。しかしその必要はなく、ザーシェは呆然としたように目を見開き、エイナの顔をじっと見上げている。
明らかにろくでもないことに巻き込まれていると気づいたらしい、エイナは後ずさりした。それを阻むようにユォノは背後に回り、その背を押して一旦座らせた。
「まずはエイナどの、突然お呼び立てして申し訳なかった。自分で言うのも何ですが、私はそれなりに注目を集める立場におかれているし、その……恐れられている自覚も、ある。ですが誓って私はあなたに悪意はないし、何か危害を加える気はないと最初に言っておきます」
「そうまで予防線を張るって、ユォノどの、後宮でどんな扱いなんですか」
「そこにいるセオタスどのは関係ない、ただ偶然ここに居合わせただけなので、どうぞお気になさらないで欲しい」
セオタスが口を開くとエイナが目に見えて萎縮するので、ユォノは片手で彼を黙らせながら身を乗り出した。
「単刀直入にお訊きしますが、ザーシェという名前に心当たりはありませんか」
問うと、エイナは顎をもたげて斜め上を一瞥してから、躊躇いがちに応じる。
「ザーシェ……。甥と同じ名前ですが、」
「その甥御がこれです」
「何でですか!?」
目を剥いて叫んだエイナに、ザーシェが「初めまして」と殊勝に頭を下げた。エイナは未だに事態が飲み込めないらしく、目を白黒させてユォノとザーシェ、そしてセオタスを見比べている。
エイナはそれまで放心したように反応が薄かったのが嘘のように慌てふためき、「どういう経緯なのですか」とあたふたしている。
「あー……ええと。彼が後宮に侵入しようとしているところに私が居合わせて、保護をしたというだけの話で」
大事なところは自分で話した方が良いだろう。ユォノはちらとザーシェを窺った。ユォノが言わんとしたことを察したように、セオタスがザーシェの背を軽く押す。
エイナと向かい合ったザーシェは、今更になって臆したようだった。それまで余裕綽々で小生意気だった少年が、初めて会った伯母を前に言葉を選んでいる。もじもじと手のひらを擦り合わせて俯くザーシェに、エイナがおずおずと声をかけた。
「……ザーシェ? 大きくなったわね」
「お、伯母さん、おれのこと知ってるの?」
「生まれたばかりの頃に一度だけね。伯母さん、あなたが生まれてすぐに後宮に入ったのよ」
エイナの言葉に、ザーシェは目を丸くする。本人は記憶がないのだろうが、懐かしそうに語るエイナを不思議そうに眺めていた。
エイナはくすりと笑い、身を乗り出してザーシェの顔を覗き込む。
「シェオリは元気にしている?」
「母さんは……」
「ここに来るって言ってあるの? シェオリ、きっと心配しているわ」
エイナがそう言ったところで、ザーシェの両目が瞬く間に潤み、ぶわりと涙が眦からあふれ出た。ぎょっとしたようにエイナが眉を上げる。ユォノはセオタスとともに一歩下がったところで並んで座り、二人の様子を静観した。
ザーシェは声を詰まらせ、必死に声を殺すように深く俯いた。正座した膝の上できつく両の拳を握りしめ、唇を歪めて顔をくしゃくしゃにする。小さな背中が更に心細く縮こまり、肩はやり場のない恐ろしさに強ばっていた。
浅い呼吸の音が、しばらく不規則に続いた。ザーシェは一度息を止め、唾を飲み込むと、消え入りそうな声で告げた。
「――母さん、心臓の病気で、もう、長くないって、医者のおっちゃんが」
エイナが鋭く息を飲む。その一言だけで、ザーシェが無茶をしてまで後宮に忍んできた理由を理解したらしい。手を伸ばしかけて、やはり下ろす。エイナの指先が震えていた。
「……夜になると母さんが、『姉さんに会いたい』って泣くんだ」
そうまで言ったところで、エイナがザーシェを強く抱き寄せた。ザーシェの小さな頭を胸に抱き、歯を食いしばって息を殺す。ザーシェの細い指がエイナの背を引っ掻くように掴んだ。
ザーシェが、縋り付くようにしてエイナの胸の中で身も世もなく泣いている。それまで飄々とした態度を保っていたのが、堰が切れたようにしゃくり上げ、声も出ないほどに息を戦慄かせた。
ユォノとセオタスは無言で目配せをした。これまでザーシェがどれだけ気を張っていたか分かる。できるだけ水を差さないようにと気配を殺して佇んでいると、ややあってザーシェがやっと息をついた。
「……ごめん、」
照れくさそうにザーシェがぼそりと言う。乱暴な手つきで目元をごしごし擦るので、ユォノは腰を浮かせるとその手を掴んでやめさせた。
「要するに、エイナどのをここから連れ出せれば良いんですね?」
しばらくの沈黙を挟んで、セオタスがそう呟いた。ザーシェは目を真っ赤にしたままこくりと頷く。エイナも躊躇いがちに顔を上げ、セオタスとユォノを振り返った。
「私も、シェオリに会いに行きたいです。でも……」
「後宮から出るには申請が必要で、必ず受理される訳ではないし、……どちらにせよ時間がかかる」
ユォノは腕を組み、渋い顔で唸った。ザーシェが一気に目を潤ませるので、ユォノは慌てて背を撫でてやる。
「まあそんなに落ち込むな。何とかする、――そこのお兄さんが」
「こっちに丸投げですか」
セオタスを指して言うと、指の先で彼が呆れ顔で文句を言った。それからセオタスが眉根を寄せ、小さく嘆息する。
「……ザーシェ。人前でさっきみたいに泣けるか?」
「え? まあ……やろうと思えば」
明らかに不審そうな顔をしながら、ザーシェが曖昧に頷く。セオタスは腕を組み、思案するように軽く首を傾けた。それから指を立て、ザーシェに向き直る。
「それでは、明日、四の鐘の頃に城門前まで来て、思い切り哀れそうに泣いて境遇を訴えると良い。ちょうどその時間帯に、とある姫君と王子が城門近くを通りかかる……ことにする」
「……セオタスどの?」
聞き捨てならない言葉に、ユォノはセオタスを振り返った。視線を向けた先には、知ったものかと言わんばかりの素知らぬ横顔である。ユォノは思わず半目になってセオタスをじろりと睨めつけた。その視線をセオタスは黙殺した。
「恐らくその二人が助けてくれるだろうから、精一杯泣きすがるように」
「わ、わかった」
「この後宮に侵入したことは決して口を滑らせないように。もし俺たちを見かけても、絶対に知らない人のふりをするんだぞ」
「おう」
セオタスの注意に、こくこくとザーシェが真剣な表情で了承する。
その様子を眺めながら、ユォノはセオタスの計画を思い浮かべた。人目につくところでザーシェを泣かせ、それを見るに見かねたユォノと自分でその願いを聞き入れてやる……という筋書きだろう。それならばエイナを特権で連れ出しても、寵愛が何だとか謀略が何だとか、変に勘ぐられることもない。あえてことを公にすることで疑いを避け、その上困っている市民を助けたという美談にまで仕立て上げる寸法か。
(……なるほどな)
ユォノは横目でセオタスを一瞥し、感嘆のため息をつく。
「セオタスどのは流石だな」
思わずといった風に呟けば、セオタスが怪訝そうな顔で視線を向けてきた。ユォノは言葉を選んで斜め上を見上げた。何と言ったか、こうしたことを表すフェウセス語があったと思うのだが……。
「ええと……何だったかな、細かいところにまで気がついて、ちょっとした知恵が回る……みたいな意味の言葉が思い出せなくて、」
「姉さん、おれ、それ知ってるぜ。せこいっていうんだ」
「ああ、多分それだ!」
ユォノは指を鳴らして、セオタスに向き直って笑顔で告げた。
「そう、セオタスどの、――貴殿はとてもせこい人だ」
母語ではない慣れぬ言語でありながら、探していた言葉を見つけられた喜びに、つい目が輝く。頬を綻ばせてセオタスを見上げると、何故か彼は額を押さえたまま項垂れていた。ユォノは首を傾げる。
「……セオタスどの? どうした? せこくて良いじゃないか」
深々とため息をついたセオタスに、ユォノはその肩を揺すってやりながら顔を覗き込む。直後、慌てたような表情をしたエイナが、潜めた声でユォノに手招きをした。
「ゆ、ユォノさま、念のためお教えしておきますが、『せこい』は決して褒め言葉ではないと言いますか、むしろあまり人に使うべき言葉では……」
「えっ」
セオタスに丁重な謝罪をしたのち、ザーシェには諸々を込めた軽い拳骨をくれてやった。