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少女は影に潜まない  作者: 冬至 春化
一章 亡国の姫君について
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2.虎穴 上



 後宮に入るため、西にある椿の門へ近づいていたユォノは、門番と言い争う小さな背中を見つけて目を丸くした。


「だーかーら、エイナって名前の人を連れてきてくれればそれで良いんだってば!」

「いい加減にしなさい、ここは王の寵姫が集う後宮だぞ。お前に入らせるわけにはいかないし、そうやすやすと人を連れ出せるものでもない」

「この分からず屋! おれの母さんが、姉さんに会いたいって言ってるんだよ!」


 槍を交差させた二人の門番の前で、少年が地団駄を踏んで拳を振り上げている。門番はにべもなく、少年を追い返そうと首を振った。

(まあ、無理もないか……)

 そのような事情があるにせよ、少年がいきなり後宮に押しかけて駄々をこねた程度でどうにかなるほど、後宮の門というものは易しくない。ユォノは頬を掻いて嘆息すると、歩調を速めて椿の門に歩み寄った。



「ああ、ユォノさま。どうぞ」

 ユォノの姿を認めると、門番は槍を体の脇に立てて一礼する。それを見て駆け出し、横をすり抜けようとした少年を、右の門番が受け止めた。

「おっと、お前は駄目だ」

「何でそこの姉さんが良いのに、おれは駄目なんだよ!」

「ユォノさまは殿下の寵姫だからな」

「じゃあおれもそのチョーキってやつになる!」

「馬鹿か」

 言い争う少年と門番を尻目に、ユォノはそそくさとその場を立ち去った。自分が留まることで門番の仕事を増やしてしまったら申し訳ない。


「母さんが危篤なんだよっ! さいごに姉さんに会いたいって泣いてるんだ、……合わせてやりたいって思うことも駄目なのかよ!」


 そんな言葉が、角を曲がる直前に、はっきりと耳に届いた。



 ***


 その晩、ユォノは後宮の庭をゆっくりと歩きながら、様々な記憶が浮かんでは沈んでゆくがままにして、ぼんやりと遠くを眺めていた。

 季節はもう春から夏へと足を踏み入れており、夜になっても肌寒い風が吹くことは少なくなっていた。特に今日は風のない夜半で、歩調を緩めることなく歩き続けていると首筋から薄らと汗が立ち上るようだった。庭園の草木も、春の華やかさから初夏の闊達な新緑へと移りつつある。ユォノの手にある角灯で照らせる程度の灯りでは、そうした折々の機微は判然としなかったが、どこか遠くから微かに聞こえる蛙の声が夏の訪れを告げていた。



 後宮では直接的な嫌がらせはなくなったものの、相も変わらずの扱いだし、リュシアは何を考えているのか分からないし、セオタスともこの先協力してやっていけるか不安である。それに、今日の昼下がりに見かけた門前の少年のことも気にかかっていた。

(あのあと、諦めてちゃんと帰ったんだろうか)

 まだ十になるかならないかという年頃の少年である。ものの分別がつくかどうかも甚だ怪しい。まさか騒ぎすぎて懲罰房なんかにひと晩突っ込まれてはいないだろうか……。


 取り留めもないことを考えながら、人気のない庭をひとりで歩いていたユォノの耳に、「よっこいせ」とやや気の抜けたかけ声が聞こえた。それはまだ声変わりも済ませていない少年の声で、ユォノは弾かれたように振り返って目を剥く。


 大の男の身長よりずっと高い塀の上に、ぼんやりと小さな人影が浮かび上がっている。手にしていた角灯を掲げてそちらを照らせば、見覚えのある少年と真正面から目が合った。ユォノは呆気に取られて目を丸くする。

「な、何をして、」

「げっ」

 少年は慌てたように仰け反り、その拍子に姿勢を崩して塀から内側へ落下した。ばふ、と音がして、少年が落下したのが分かる。ユォノは泡を食って駆け出し、少年の落下地点へと急いだ。


 柔らかい黒土の盛られた花壇の中央に、少年は仰向けになって倒れていた。その体が地面に投げ出されているのを認めて、ユォノは顔面蒼白になって立ち尽くす。まさか、と息を飲んだ直後、少年が上体を起こしたので、ほっと胸を撫で下ろす。少年は土を払いながら顔を顰め、舌打ちをした。

「いってぇ……」

「後宮への侵入は重罪だぞ」

「げっ……」

 腰に手を当てて見下ろすと、少年はユォノを見上げて頬を引きつらせた。



 何はともかく、見つけてしまった以上はこのまま放っておく訳にもいかない。ユォノは角灯を掲げていた腕を下ろすと、反対の手を腰に当てて思案する。

「衛兵はどこにいたかな……」

 夜間の配備について思い返していると、「待ってくれよ」と少年が立ち上がって袖を掴んできた。

「姉さん、寵姫ってやつなんだろ? 助けてくれよ、――おれ、伯母さんを探してるんだ!」

 必死に縋り付く少年を見下ろして、ユォノはつと言葉を失う。少年の目には涙さえ浮かんでおり、ユォノはその手を振り払うことができずに立ち尽くした。



 ***


(結局、連れてきてしまった……)

「わー、ここ姉さんの部屋? 超広いじゃん、すっげー!」

「こら、静かにしなさい」


 部屋の中で駆け回る少年を捕まえて、ユォノは無理矢理床に座らせた。少年は目を輝かせて正座する。

「なあなあ、エイナっていう人、ここにいるんだろ? 連れてきてくれよ」

「ここには百を超える寵姫がいるから、私もまだ全員は把握していない。あと、連れてくることはできても後宮から連れ出すことはできないと思っておいた方が良い」

「えー? 姉さん、何もできないんだな」

 唇を尖らせて文句を垂れる少年を黙らせる。大体今は時計の針も天を指す真夜中である。ユォノの自室で少年が大騒ぎしていると知れたら大問題だ。



 何はともあれ、互いに素性の知れない状態はよろしくない。ユォノは少年の向かいに座る。

「……私はユォノ。あなたは?」

「おれはザーシェ。八番街から来たんだ。姉さんは?」

「私は……」

 ユォノは思わず言い淀んだ。ザーシェは不思議そうな顔でユォノを見上げる。

「……遠い山の方から来たよ」

 それだけ告げると、少年は合点がいったようないっていないような顔で曖昧に頷いた。ユォノの出身地に興味はないらしい。ザーシェはころりと表情を変えて破顔する。



「ユォノ姉さんは優しいんだな」

「どうだろうな。あまり生意気なようなら衛兵に突き出してやろうか」

「そしたら姉さんもおれを部屋に連れ込んだことがバレるぜ」

「ふーむ」

 わざとらしく腕を組んで悩むような素振りをしてやると、ザーシェは歯を見せて笑った。と、そこで少し黙り込むと、欠伸を噛み殺すように目をぎゅっとつぶる。


 それを誤魔化すように目をきょときょととさせて室内を見回すが、今度は堪えきれずに大きな口を開けて欠伸をした。ユォノは苦笑して、無理もないと目を細めた。何せ、もう深夜である。

「ザーシェ、寝るか」

 声をかけるも、少年は既にうつらうつらと船を漕いでおり、ユォノの話を聞くどころではないらしい。部屋に入ったことで安心してしまったのだろうか。ユォノが声をかけてもザーシェはろくな反応を示さず、ついにその場でころんと横になってしまった。


 仕方がないので掛布を持ってきてザーシェにかけてやり、ユォノはその傍らで足を崩して胡座をかく。あどけない少年の寝顔を眺めながら、彼女は小さく息をついた。

(見捨てられなかったのはどういう訳か……)

 ユォノは頬杖をついて目を伏せる。ザーシェの寝息が規則正しく続いていた。




「おはよう、ユォノ姉さん」

 翌朝、実に子どもらしい目覚めの良さを見せつけたザーシェは、当然のような顔で朝食を要求した。あまりの図々しさにユォノは思わず半目になる。

「なあなあ、エイナおばさん、どこにいるんだ?」

「そのエイナというのはどんな特徴をしている?」

「さあ? おれは会ったことないんだよなぁ」

 しれっと首を傾げたザーシェに、ユォノは額を押さえた。これではらちが明かない。


「でも、おれの母さんの姉だっていうから、ユォノ姉さんみたいに若い訳じゃないと思う」

「なるほど」

 ユォノは軽く頷いて顎を押さえた。この後宮には下働きとして連れて来られた少女たちも多く、ザーシェほどの子どもがいてもおかしくない年嵩の女は限られてくるだろう。少なくとも、大部屋の主でないことは確かだ。

(……となると、相部屋で生活している女たちの部屋をしらみつぶしに探すのか……?)

 それはごめんこうむる、とユォノは渋い顔をした。しかしユォノは決して顔が広いわけでもなく、どうやって探せばよいかは考えものだった。



 部屋の前に置かれているであろう膳を受け取りに通路へ出る。こうした配膳の仕組みは、同じ屋根の下に住むものが食堂に集まって食事を摂るホルタにはないものだ。王からの管理を受けずにこの狭い空間で生きていく中で、女たちが自然と編み出した役割分担のようだった。大部屋に入れられたユォノには無関係だが、相部屋に住んでいる女たちはそれぞれ当番で後宮を回しているらしい。

(私も何か手伝った方が良いんだろうか……)

 頬を掻きながら、ユォノは扉の脇の台に置かれた盆に手をかけた。


 と、そこでちょうど通りがかった少女に目を留め、ユォノは「待って」と声をかけた。

「えっ、あ……わたしですか?」

「ああ。その、ひとつ聞きたいことがあるのだが、」

 足早にユォノの前から立ち去ろうとしていた少女は、その場で足を止めると目を丸くして振り返る。きゅっと体を縮こまらせ、緊張と警戒を露わにしてユォノに相対した。


 朝の準備に慌ただしく行き交っていた女たちの目が集中しているのに気づいて、ユォノはずしりと四肢に重みが加わったような心地がした。それでも何とか姿勢を伸ばし、重い口を開く。

「――エイナ、というひとを知らないか」

「エイナさんですか? ああ、えっと……宵待草の館にいるエイナさんのことでしょうか?」

 少女はおずおずと答えた。ユォノの反応を恐る恐ると窺う様子が痛々しい。ユォノも思わず言葉が柔らかくなる。

「いや、どこで生活しているのかは把握していないのだけれど……。他にエイナという名前の女性がいないのなら恐らくその人だと思う。そのひとは若い少女ではない?」

「ええ、確かに、比較的この後宮では年上の女性です、けど……」

 少女が目に見えて臆した。眦が下がり、ユォノの真意を測ろうとするように視線が向けられる。


「エイナさんに、何の御用ですか?」

「……彼女と少し、二人きりで話したいことがあるんだ。呼んできてもらいたい」

 ユォノが答えると、聞き耳を立てていた女たちが一斉にざわめいた。「何をするつもり?」と囁く声が耳に入り、ユォノはまた言葉を選び損なったことを悟る。

(やってしまった)

「エイナさん、目を付けられたんだわ……」

「何をされるのかしら……」

 それにしたって、この後宮でユォノは一体どのような扱いなのだろう。渋面で宙を仰ぐ彼女をよそに、後宮は降って沸いたこの『事件』に夢中のようだった。



 ***


 朝食を持って部屋に戻ると、ザーシェは畳んだ毛布の上に胡座をかいていた。その前に膳を置いてやると、少年は少し目を丸くしたのち、覗き込むように体を倒してユォノの顔を見る。すっとその小さな指先が伸ばされ、ユォノは息を飲んだ。

「ユォノ姉さん、疲れた顔してるなぁ。夜、寝てなかったもんな」

「人の顔に気安く触るものじゃない」

「おっと、ごめん。姉さんって、何かおれの妹に雰囲気が似てるんだよな。いくつも年上だろうに、何でだろ」

 首を捻りながらそんなことを言ったザーシェは、目の前におかれた朝食に手をつけると、瞬く間にそれを平らげた。半分残しておけ、と言う間もなかった。唖然としつつ、言い忘れた自分が悪いとユォノは密かに項垂れる。……一食くらい抜いたって死ぬわけではあるまい。


 朝食を腹に収め、ザーシェは満足げに息を吐いて、小さくげっぷをした。呆れるほど図太い子どもだ。恐らくは幼さ故の不理解なのだろうが、この肝の据わりようは逸材である。

「君の伯母上は恐らく見つかったよ。あとでこの部屋に来て頂けるように言っておいたから、それまでは決して外に出ず、騒がずに大人しくしていること。分かったね?」

「わかった」

「重ね重ね言うけど、ここは本来君みたいな子どもが入って良い場所じゃないんだ。門番にも散々言われただろう。今回は特別に見逃してやるけれど、次にやったら問答無用で衛兵に突き出すからな」

 不満げな顔をしながらも、ザーシェは不承不承頷く様子を見せた。ユォノは怖い顔を崩さないまま腕を組み、ザーシェを睨みつける。


 人差し指を立て、ユォノは厳格な顔で脅しをかけた。

「良いか、もしも他の人に見つかったら大変なことになるん――」

「――ユォノどの、珍しい菓子を手に入れたのだが試してみませ……ん、か……」

 言いかけたところで、背後の扉が軽快に開け放たれる。思考が完全に停止した。ユォノは制止する間もなく開かれた扉を振り返って凍り付き、セオタスは間口に立ち尽くしたまま言葉を失っている。「兄さん、誰?」とザーシェだけがのんびりとした態度で誰何した。



 セオタスは愕然としたように口を開けたまま、目を見開いて佇立している。

「……ゆ、ユォノどの、白昼堂々、そんなに平然と間男を連れ込むのは……」

「錯乱なさるな、セオタスどの! どう見ても子どもだ!」

 ユォノは慌てて立ち上がると、セオタスの腕を乱暴なほど強く引き寄せた。素早く扉を閉ざし、壁に背を付けて肩で息をする。まさか王子が寵姫の部屋を訪れる場面で中を覗き込むほど無粋な人間もいるまいが、絶対とは言えないのがこの野次馬だらけの後宮である。


 壁に寄りかかったままのユォノに向き直り、セオタスはその両肩を強く掴んで顔を覗き込んだ。

「これはどういう訳ですか」

「夜中に後宮の塀を乗り越えて入ってきたところを捕獲しただけだ。何やら事情があるようで……」

「子どもだからといって油断してはなりません、ユォノどの。この宮殿には権謀術数を巡らせる輩が多く存在します」

「落ち着け、セオタスどの。どう見たって馬鹿な子どもじゃないか」

「確かに言われてみれば考えの浅そうな顔をしている……」

「あのさあ、それ、おれに聞かせて良い話? 色んな意味で」

 不服そうな声に、ユォノとセオタスは揃って顔を見合わせた。まあ、真っ当な指摘である。




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