閑話 潜熱
キィン、と小気味よく金属が打ち鳴らされる音が、乾いた晴天に響いた。
「剣を振ることを許可してくれて感謝する、セオタスどの」
「構いませんよ。この程度のこと、我が儘でもない」
ユォノが剣を鞘に収めながら振り返れば、壁際に佇んだセオタスがひらひらと手を振っている。ユォノの足下で尻餅をついていた少年兵は、離れたところにいる仲間にやいやいと揶揄されながら剣を拾った。
「手合わせありがとうございました、ユォノさま」
「構わない。礼を言うのはこちらの方だ、リト」
リトを立ち上がらせてやりながら、ユォノは目を細めて微笑んだ。前触れもなしに訓練場を訪れたユォノの手合わせの相手として、真っ先に名乗り出てくれた少年である。快活な笑顔が好印象な、人なつっこい少年だった。
「ユォノさまはお強いんですね」
「今はまだ体格差があるからな。リトもこれから、たゆまぬ鍛錬を続ければいずれ私程度は簡単に討てるようになるはずだ」
「が……がんばります!」
気合いを入れるように拳を握り、リトは大きく頷いた。応じてユォノも首肯すると、遠くの辺りでわだかまったまま様子を窺っている兵の方を見やる。
「他に相手をしてくれる者はいないか? 長らく体を動かしていないせいで腕が鈍っているんだ」
声をかけると、兵たちは一斉に互いの顔を指さしてあたふたとし始めた。「お前行けって」「やだよお前が行けよ」と大わらわである。「殿下の恋人に傷でもつけたらどうするんだ」と悲鳴が漏れ聞こえ、ユォノは思わずセオタスを肩越しに振り返った。
「……私たちは『恋人』だそうだぞ」
「何ですか、その表情……。『そういうこと』になっているんだから何も訂正することはないでしょう。それとも何かご不満が?」
「いや、まあ、……妙な響きに居心地が悪くなっただけだ」
互いにもの言いたげな顔をしながら、両者は顔を見合わせて肩を竦めてみせた。
いまいち事態を飲み込めないまま、ユォノが国王の寵姫から王子の寵姫へと身分を移されてから、早半月ほどが過ぎた。セオタスの同伴により彼女は活動範囲を広げ、後宮から外の城内へと足を運ぶようになっている。
後宮の外に広がる宮殿は、後宮を形作る雰囲気とはまたがらりと違っていた。木組みで繊細な装飾の施された後宮に対して、有事の際には軍事施設となり得る城は外壁が石造りであり、建物の階層が高く、全体的に無骨かつ大味である。さして知識のないユォノにも、この両者の建築様式が大幅に違うことは理解できた。
フェウセスは広大な領土を持ち、その王都が様々な商工の交わる要衝であるとは知っていたが、こうも自然に異なる文化が混じり合っているのを目の当たりにすると、ユォノは不思議な感慨に駆られるようだった。
訓練場から戻る道すがら、ユォノはセオタスに軽い気持ちで話を振った。
「セオタスどのは、あまり城内の人間と親交を深めてはおられないのだな」
兵に近寄らず、言葉を交わすことなく佇んでいた態度が印象的である。そこに僅かな違和感を覚えて視線を寄越すと、セオタスは難しい表情で眉根を寄せ、淡々とした声で応じた。
「立場上、あまり特定の臣下と親しくすることもできませんから。どうしたって情を移してしまう」
「……情に流される者は王の器ではない、と」
「少なくとも私はそう思っています」
靴音が並ぶことにはもう慣れた。長い廊下に明るい日差しと柱の陰が落ちている。
「となると、私は貴殿と協力しながら、国王に対抗できうるだけの人脈を築けば良いのか?」
「身も蓋もなく言ってしまえばその通りです。私はまだ臣下からの信頼を十分に得られず、父からも侮られて久しい」
ふむ、とユォノは息だけで曖昧な了承の意を示した。なかなか玉虫色の計画である。
「私としては、ユォノどのにできるだけ身軽な地位を与えたつもりなのですが」
「ああ、感謝している。……若い男からやけに遠ざけられるのが悩ましいところだが」
「それは、まあ……仕方のないことですね。王の妻を後宮から連れ出すには力不足で、こういう形になってしまったので」
人気のない廊下を並んで歩きながら、ユォノは腰に佩いた剣にそっと触れた。戦の最中に攫われ、戦が終わるまで人質生活である。それが終わったと思えばまた、後宮という箱庭に入れられた。こうして剣を身につけるのはいつぶりだろうか。その重みが酷く懐かしい。
「しかし、ユォノどのが剣を取るとは知りませんでしたね」
「なに、手慰み程度です。大事なときに役に立つほどの腕でもありません」
苦笑し、剣の柄を指先でなぞりながら肩を竦める。遠くの空が黒く覆われつつあるのを目に留めて、無言で眉を上げた。そのうち一雨来そうだ。
後宮に続く渡り廊下の前まで来て、ユォノはセオタスを振り返った。
「ここまでで結構だ」
告げると、セオタスは緩く微笑む。「ユォノどの」と声をかけられて首を傾げれば、彼の手がそっと頬に添えられた。
「何か不都合でもありましたら、何なりと仰ってください。……大切な寵姫のことですから」
その言葉のあまりの白々しさに、ユォノは思わず失笑した。門番の視線を感じながら、彼女は目を細め、応じるように首を伸ばした。
「ああ、分かっている」
交わされた視線に熱はなく、そこにはただ互いを見定めようとするような光ばかりが宿っていた。
「……また明日も迎えに来てよろしいですか」
「貴殿がそうと望むのなら」
そう言い交わすと、ユォノは体を反転させ、門番に会釈をして渡り廊下に足を踏み出した。セオタスの視線が背に張り付いているのを感じながらも、一度も振り返ることなく、彼女はさっさと自室のある棟へと入っていった。
***
ユォノが中庭に面した通路に姿を現した瞬間、それまで噂話やおのおのの作業に没頭していた女たちが、一斉に口を噤んだ。しん、と静まりかえった通路に、ユォノも思わず足を止める。
ちょうど近くにいた宦官が、逃げるように足早に立ち去ってゆく。女たちもユォノの一挙一動を注視したまま、凍り付いたように動きを止めた。
(……まただ)
ユォノの身分が移される以前の直接的な嫌がらせはなりを潜め、今はこの腫れ物扱いである。泥水をかけられた方が良いとまでは言わないが、こうもあからさまだと嫌になってしまう。
「どうしてまだここにいるの? さっさと王子様の部屋に移ればいいのに」
そんな言葉が聞こえ、そちらを振り返れば誰もがぴたりと口を閉ざし、声の主は分からない。そんなことばかりだった。そうやって反駁を許さないやり口には心底うんざりする。
「だってユォノさまは気高くてあられますもの。そうやすやすと殿下のものにはならない、とでも仰りたいのではなくて?」
「ああ、やり口がいじましいわ」
そうした言葉を耳の端で聞き咎めながら、ユォノは聞こえぬように嘆息した。好きに言っていれば良い。
……ユォノがセオタスの寵姫となってもなお、居を移すことなく後宮に留まり続けているのは、彼自身の希望によるものだった。
名家の娘も多く集う後宮は、さながらそれぞれの生家の勢力を表した縮図である。刺激と娯楽に飢えた女たちの口から噂話が絶えることはなく、後宮内部の様子を把握しておくには非常に都合が良い。
とはいえ、このように遠巻きにされていたのでは、普段の生活にすら支障が出る。しかしセオタスに泣きつけばそれこそ逆効果だ。
「やめときなさいよ、」
「あの人、恐ろしい人だって聞くわよ」
「何せ、幼馴染みの侍女を殺したっていうんだから」
「ああ嫌。関わらないのが一番だわ」
……腫れ物は腫れ物でも、特大の腫れ物だ。ユォノはようやく少しは慣れてきた衣装の裳裾を翻し、何も聞こえなかったかのような素振りで歩き出した。こういうときは、さっさと自室に戻るに限る。
「――あら、寵姫さまじゃない。ご機嫌よう」
どうしたものか、と思案しながら歩を進めるユォノの耳に、不意に明瞭な声が届いた。聞き覚えのある声に振り返ると、リュシアが通路の桟に寄りかかって艶然と微笑んでいる。ユォノは数秒の沈黙ののち、慎重に応じる。
「……リュシアどのも、寵姫であることに変わりはないと思いますが」
「やだ、嫌味ならもっと上手に言いなさいよ。もうずっと訪れのない陛下の寵姫なんて名ばかりだわ。――それに引き換え、ユォノさまは王子殿下の唯一の寵姫で、今はもうないとはいえ、一国の王女さまでしょう? 私たちとは全然立場が違くってよ」
わざとらしい態度で肩を竦め、リュシアは手をひらひらとさせる。その表情に浮かぶのは嘲笑にしか見えなかったし、放たれる言葉も揶揄のように聞こえた。
「――まあ、でも、私はあなたのことをちっとも怖いとは思わないし、あなたを類いまれなるお姫様扱いするつもりはないわ。それだけ言っておこうと思って」
そう言い放ったリュシアをしばらく見つめ、ユォノは怪訝に眉をひそめた。言ってやった、とばかりに彼女は満足げな表情で、腕を組んで胸を張っている。何をそんなに得意げな顔をしているのか。ユォノは首を傾げた。
「……リュシアどの、それは、ええと……宣戦布告ですか?」
「何のよ!」
訳が分からないままに問えば、リュシアは目を剥いて叫んだ。彼女はその場でしばし憤懣やるかたないと言いたげに口を開閉させ、足踏みを繰り返していたが、ややあって「もう良いわ」と顔を背けてしまう。
「せいぜい美味しいものでも食べて健康に過ごすことね。夜はちゃんと寝なさいよ。あなた、ただでさえ不健康そうな顔してるんだから」
ふん、と聞こえよがしに鼻を鳴らして、リュシアは足音も荒く立ち去った。取り残されたユォノはその場に立ち尽くしたまま、何だったのかと呆然と瞬きを繰り返す。
「……まさか、案じてくれていた、とか? …………あれで?」
ふと思い至った可能性を、肯定も否定もできないまま、ユォノは首を傾げた。
***
「うちの下級兵と仲良くして頂いているようでありがとうございます、寵姫さま」
「こちらこそ、いつも良くして頂いてとても感謝している。将軍にはご挨拶申し上げたいとかねがね思っていた」
交わした握手からは、ぎりぎりと引き絞れるような音がしていた。
将軍の背後から、はらはらとした様子で事態を見守る兵たちの視線が突き刺さる。ユォノはあくまで笑顔を崩さないまま、威圧感のある体躯をした将軍を毅然と見上げた。将軍の手の中にすっぽりと収まった片手が悲鳴を上げている。
「……あまり長く手を繋いでいると妬いてしまいそうだな、オリウ」
セオタスの一声で手が離され、ユォノは思わず手の甲を軽くさすった。握りつぶされるかと思った。この馬鹿力、と内心毒づいていると、セオタスが間に分け入るようにして前に立つ。
オリウと呼ばれた将軍はセオタスの肩越しにユォノを睥睨すると、眉をしかめた。
「この方が、殿下があれほどまでに執心して手に入れたいと仰っていた女人ですか?」
「ああ」
(ふーん……)
ユォノは半目になりながら両者を見比べる。互いの佇まいには強ばったものがなく、気心の知れた仲であることを窺わせた。……しかし、それにしたって随分と嫌われたものである。
兵の訓練場に顔を出したユォノを待ち構えていたのは、名だけは聞いたことがある将軍――オリウであった。聞けばセオタスとは旧知の間柄であるらしく、そしてユォノに向ける視線がいやに厳しい。これは厄介な相手だな、とユォノは指先で頬を掻いた。
将軍がユォノに悪感情を抱いているのは明らかである。一旦距離をおくためか、セオタスが将軍を連れて訓練場を出て行く。それを見送って、ユォノは小さくため息をついた。
「ユォノさま、大丈夫ですか?」
「ああ、心配ない、リト」
眦を下げて寄ってきたリトに頷いて、ユォノは赤くなった手をさりげなく背後に回した。しかしそれを目ざとく見つけ、リトが「やっぱり赤くなってる」と眉をひそめた。小さな少年の手に手首を掴まれ、ユォノはきまり悪く目を逸らす。
「オリウ将軍は少し怖い人ですからね。僕も正直、ちょっと苦手なんです」
リトが不満げに唇を尖らせ、ユォノは思わずくすりと笑った。肯定はしないまでも、その気持ちは分かる。
「……僕たち気が合いますね」
悪戯っぽく笑った少年兵が、唇の前に人差し指を立てる。「そうだな」と軽く頷いて、ユォノはさりげなくリトの手をほどいた。
横薙ぎに振り払われる剣を飛び退いて避け、足を縦に開いて着地すると後ろ足で地面を蹴り、一呼吸で距離を詰める。首を狙った剣が一度弾かれると、金属の軋む音を立てながらつばぜり合いへと持ち込まれた。両手で剣の柄を握ったユォノは、眼前の兵が束の間息を吸うのを目視した一瞬あと、肩を開き半身になって剣を受け流す。体勢を崩した兵に肉迫し、その喉元にぴたりと剣を突きつけた。
「……参りました」
両手を挙げて降参した兵に、ユォノは剣を下ろして距離を取る。
「手加減はいらないと言ったはずだが」
「手加減をしているつもりはなかったのですが、どうしてもお相手がお相手ですから……ご勘弁ください」
兵は困ったような顔で一礼し、剣を収めてユォノに向き直った。二十代そこそこといったところの兵で、頬を横切る傷が特徴的な男だった。
ユォノも剣を鞘に収めながら、男をちらと窺う。
「その傷は、戦で?」
「はい。先のホルタ侵攻にて従軍した際に、矢が掠ったときの傷です」
「……そうか」
男の口調に恨み節は感じられなかったものの、ホルタを攻め落とすのに関わっていた人間となれば、ユォノも返す言葉に困るというものである。男は自身の傷についてはそれ以上言及せず、推し量るような眼差しでユォノを見据えた。
「ユォノさまは、どうして殿下の寵姫となって、私どもと関わるのですか」
問われて、ユォノは答えに窮して遠くの地面を眺める。兵はあくまで静かな目をしてユォノを見つめている。
「俺はホルタに対して、必要以上の感情を抱いてはおりません。けれど、あなたは……。あなたが俺と平然と向かい合っていられることが、俺には恐ろしく思えます」
その言葉は、妙にユォノの胸を突いた。つと息ができなくなり、彼女はごくりと唾を飲む。兵は「申し訳ありません」と過ぎた言葉を詫びるように目を伏せ、踵を返しかけた。その腕を掴んで引き留め、ユォノは掠れた声で問う。
「……その、恐ろしいというのは、私が、ですか」
縋るように掴んだ腕の先で、兵は眉根を寄せた。まるで痛ましいものを見るかのような目に、ユォノは息を飲む。
「あなたがそうして平然としているのが、どうしようもなく不安定で危うく思えて……俺には、見るに堪えません」
呻くようにそう答えると、兵は一礼して足早に立ち去った。取り残されたユォノは、その場に足が縫い止められたかのように動けず、ただ呆然と浅い呼吸を繰り返していた。
(……わたしは、どこで、間違った?)
脈拍が早くなってゆく。踏み出した足下がすっぽりと抜けていたかのような恐怖を覚える。ふわふわと体が地に着かない心地のまま、ユォノは何事もなかったかのような顔でその場から立ち去った。
「――大丈夫ですか、ユォノさま?」
何とか人目につかない物陰に移動したものの、そこで随分と長いこと立ち尽くしていたらしい。声をかけられて我に返る。目の前では、気遣わしげに眉根を寄せたリトが顔を覗き込んでいる。ユォノは咄嗟に笑顔を作り、「大丈夫だ」と頷いた。
まだ十二、三ほどの少年の頭を一度撫でてやって、ユォノは胸を上下させて深呼吸した。
「心配をかけたな」
「いいえ」
にこりと人好きのする笑みでリトは首を振り、ユォノを見上げて数秒黙り込んだ。
「……実は僕も、フェウセスによって征服された土地から来たんです。だから何となく、気持ちが分かるような気がして……勝手に親近感を覚えてしまいます」
小さな声で、リトは囁く。ユォノは息を飲む。人目を気にするようにリトは顔を伏せ、唇を噛んだ。
「ユォノさまが何を言われたのか分かりませんけど、僕は絶対にユォノさまの味方ですからね」
先程の会話は決して侮辱を受けたわけではなかったのだが、それをわざわざ伝えるのも野暮だろう。ユォノは膝に手をついて身を屈め、リトの言葉に応じるように頷いた。
「ありがとう、リト」
「あ、このこと、絶対誰にも言わないでくださいね」
「分かった。もちろんだ」
リトが差し出した小指に、同じ指を絡めてやる。リトは僅かに頬を赤らめて笑ったようだった。ほのかな秘め事の気配が胸の内に暖かく灯る。
「――セオタスさまにも、言っちゃ、ダメですよ」
少年は念を押すように囁いた。
***
それほど昔のことではない夢を見た。薄暗く、狭い部屋だ。窓の外には細く欠けた月が浮かんでおり、遙か眼下の川面に反射して煌めいている。
――ユォノさま、
――アスラ……。
硬く繋いだ手に汗が滲んでいた。訳も分からぬままに連れて来られた楼閣の中で、二人の少女が身を寄せ合っていた。
――絶対に大丈夫だからね、アスラ。
――絶対、一緒に生き延びましょうね、ユォノさま。
交わされた信頼の言葉が、記憶の中で上滑りする。何の実も持たぬ『絶対』が宙に浮いて嘲笑う。目が覚めない。早くこの悪夢から覚めてしまいたいのに、……ああ、これを悪夢と呼ぶ権利すら、わたしにはないだろうか?
夢は流れる。あのときのあの言葉へとたどり着く。決して忘れられない言葉だった。
あれが、すべての間違いだった。
――お前、影武者の分際で、今さら命が惜しくなったの?
切羽詰まった私が、咄嗟にそう告げた瞬間の、あなたの目を、
……今でも覚えている。
「ユォノどの、何という顔で眠っておられるのですか」
厳しくしかめていた眉間に触れられ、ユォノはぱちりと目を開いた。眼前に迫っていた青年の顔に、思わずぎょっとして両手を突き出す。「わっ」と声を上げてセオタスがのけぞり、長椅子から落ちてひっくり返った。
「あ、申し訳ない、セオタスどの……」
無様に床に転がったセオタスに、ユォノは気まずい思いで声をかける。セオタスは緩慢な動作で体を起こし、「眠っているところに無作法に近づいたのはこちらです」とばつの悪そうな顔で首を振った。
「私の方こそ、不在中に無断で部屋に入ることになって申し訳ない」
「体調が悪いと聞きましたが」
「少し疲れたと言っただけだ。そうしたら何故か貴殿の部屋に通されて困った」
「ははは……」
セオタスは乾いた笑いで頭を掻く。訓練場で兵に手合わせを頼んでいる際、ふらりと目眩でよろめいたと思ったら、あれよあれよとセオタスの部屋に担ぎ込まれてしまった。それを聞いて慌てて駆けつけたのであろう、セオタスの服は多少乱れてしまっている。「申し訳ない」と再度告げれば、彼はそれ以上の言葉を制するように片手を挙げた。
向かいの長椅子に移動して腰掛け、セオタスは足を組んで苦笑した。ユォノも長椅子で寝入ってしまっていた姿勢から体を起こし、セオタスに向き直る。
「そういえば、こうして向き合って話をするのは、初めて会ったとき以来のような気がしますね」
呟くと、セオタスは数秒黙った。
「……そんな、ユォノどのが後宮にいらしたときも、向き合って話をしたじゃないですか」
「ああ……それもそうだな」
ユォノは軽く頷き、それから室内をぐるりと見渡す。セオタスの居室らしいが、特にこれといった特徴のない部屋である。あまり生活感がない。
ふと、ユォノは先日聞いたリュシアの言葉を思い返して中空を見上げた。『唯一の寵姫』とか何とか言っていたけれど、あのときは聞き返せるような雰囲気ではなかったのである。
「……一応訊いておきたいのだが、セオタスどのの正妃や他の寵姫はどちらに?」
「ああ、そのような者はおりませんが」
「え?」
ユォノは険しく眉をひそめて聞き返した。思わず圧をかけてしまったが、セオタスは一切動じず「そのせいで皆過剰に反応してしまっているようで」と平然としている。
(あの話は本当だったのか……)
「あー……」
それはそうだろう、とユォノは顔を引きつらせた。
「今までもそうした相手はおらず、いきなり私を寵姫にするために父やら将軍やらに二ヶ月もかけて直談判した、と?」
「そういうことになりますね」
「それは周りの人間だって勘違いするはずだ。ま……まるで重度の初恋みたいじゃないか」
「それが困りもので」
困りものとは何だ、と一瞬ユォノは半目になるも、そこに引っかかるのはよしておく。
セオタスが向けてくる視線は非常に淡白で、そこに『寵愛する女』に対する熱は一欠片も見いだせない。やはり、どうにもつかみどころのない男だった。
「セオタスどのには、意中の女性はおられないのか。のちに私の存在が邪魔になることもあろう」
「今のところ、そのような人間はいませんし、もしも私が誰か選ぶとしたら、あなたを厭うて遠ざけようとするような愚かな女は選ばないでしょう」
ごくあっさりとした口調で応じたセオタスに、彼女は一瞬だけ臆した。自身の伴侶やそれに類する女の話をしているというのに、まるで盤上で駒を選ぶかのごとき言い草である。
「……そうか」
小さく頷いて、ユォノは目を伏せた。それはつまるところ、自分も同じ盤上に乗せられているということに他ならないのである。