1.谷底 下
変わらぬ日々が過ぎていく中、ユォノは未だに確たる答えを見つけられないままでいた。この後宮で自分が何を見ていくべきなのか、何をするべきなのか分からない。それは結局自縄自縛となり、身動きも取れずに悪意を無反応で撥ねのけるばかりの常態と化していた。セオタスが姿を見せなくなってもうふた月あまりが過ぎようとしている。
変化が訪れたのはある昼下がりのことであった。
「――なさいよ、」
中庭を横切り、階段を上がろうとしたそのとき、頭上でざわめきのようなものを聞き咎めて、ユォノは顔を上げた。そこにある人影を認めて、彼女は瞬間的に身を固くする。
吊り目がちの顔に嘲笑を浮かべ、リュシアが少女に向かって何やら指図している様子である。息を飲み、ユォノは身構えた。彼女が頭上の様子に注意を向けたことに、リュシア自身はまだ気づいていない様子である。耳を傾ければ、よく響くリュシアの言葉は簡単に聞き取れた。
「誰に指図されたのか分からないけれど、そんな陰湿な真似、みっともないわ。あなたの品性を下げるだけよ。やるならもっと正々堂々と傷つけなさいな」
その言葉に、ユォノは目を見開いた。直後、周囲の女から「リュシアさま」と声をかけられた彼女は、言われるがままに目線を下げる。リュシアは階下から見上げてくるユォノに目を留め、視線は真っ向から重なった。リュシアの表情に動揺と嫌悪が滲む。
「……戻るわ」
「お待ちください、リュシアどの」
顔を歪めて踵を返そうとしたリュシアを、ユォノは咄嗟に引き留めた。リュシアは体ごとユォノに向き直り、厳しい眼差しで彼女を見据える。
「私はあなたと話すことなんてないわ」
「私にはございます」
言いながら、ユォノは足早に階段を上ってリュシアの前に立った。周囲で様子を見守っていた女たちが一斉に距離を取る。さながらそれは波が引くようで、ユォノとリュシアの間には妙な緊張が漂った。
「あなたの言っていたことについて、ずっと考えていました。……私の言い分は変わりません。先の戦は互いを深く傷つけました。その大小を競うのは詮無いことです、でも」
躊躇いがちに言葉を選ぶユォノの顔を、リュシアは黙って見つめている。
「失ったひとつひとつについて語り合うのは、決して無駄なことじゃない」
リュシアはゆっくりと瞬きをした。聞いている、と確信を覚える。ユォノは一歩前に踏み出し、リュシアに向かって呼びかけた。
「リュシアどののお父様は、隊列の最後尾についていたのだとお聞き受けしました。……ホルタには『しんがりの山羊は谷底に落ちる』という言葉があります。これは、崖をゆく際、最も老いた山羊が列の後ろにつくという習性によるもので」
訥々と語っていたユォノの言葉を遮って、リュシアが目を見開いた。つかつかと歩み寄り、信じられないと言わんばかりの表情でユォノを見つめる。その指先が震えているのを見て取って、ユォノは思わず一歩下がる。
「……あなた、私のお父様が、老いて力がないために隊の後ろに回されたと……そう言いたいの?」
「違、」
「あなたも、お父様が臆病者だったと言うの? 自業自得だとでも?」
「そのようなことは言っていません」
「お父様は素晴らしい人だった。……あなたなんかに知った口を利かれたくなんてないわ!」
右肩をリュシアが強く掴んだ。それを避けようと片足を引いた直後、踵が床を踏み損ねた。ふわりと体が浮き、臓腑が縮こまる。頭の中央がきんと冷えた。リュシアが目を見開き、手を伸ばすのがやけにゆっくりと見えた。
(まずい、)
受け身を取っても階段の角に体を打ち付けるのは避けられないだろう。頭を抱え、体を丸めてユォノは来たる衝撃に身構えた。悲鳴が上がる。
――とん、と背中が知らぬ腕に抱き留められ、ユォノは目を丸くして顔を上げた。
「ご機嫌よう、ユォノどの」
向けられた微笑みに、ユォノは息を飲み、それから、躊躇いがちに口を開く。
「……久しいな、セオタスどの」
「ええ、本当に」
にこり、と目を細めて微笑んだのは、見目ばかり良いこの国の王子その人であった。これまでずっと姿を見せなかったくせに、こんなときになって現れるとはどういう了見だ。ユォノは思わず奥歯を噛みしめた。
そんなユォノの不興を知ってか知らずか、彼は温和な表情で語りかけてくる。
「ユォノどの、お話ししたいことがあるのですが」
「それは後回しにして頂きたい」
セオタスの声かけを遮って、ユォノは姿勢を立て直すと階上のリュシアを見上げた。彼女は胸の前で両手を握りしめ、青ざめた表情で身を縮めている。自分の手がユォノを突き転ばせかけたことに動揺しているらしい。
「リュシアどの!」
ユォノは強い声で呼びかけた。久々に腹の底から出した声が、過ぎるほどに周囲の空気をびりびりと震わせる。立ち竦むリュシアに歩み寄って、ユォノは両手を差し伸べた。
「あなたは、私のことを受け入れられないかもしれない。それは仕方のないことだと思います。けれど私はそれでも、たとえ独りよがりな自己満足でも、あなたの苦しみに寄り添わずにはいられないのです」
リュシアの肩に触れた。彼女は拒まなかった。
「だって、わたしには、あなたの気持ちが痛いほどに分かるから、」
ユォノは絞り出すようにそう告げる。リュシアは何も言わなかった。ただ、その目をいっぱいに見開いて、浅い呼吸を繰り返している。
「……後ろをゆく山羊は食べ物にありつくことが難しく、仲間からの落石を受けるかもしれない。道が崩落したのち、孤独に取り残されるやも知れない。それでもその山羊は最後尾をゆくことを選んだ。そうして谷底に落ちたしんがりの山羊を、私たちは英雄に準えます。……狭い山道での戦いにおいて、背後から矢を射るのは、トカットリア山脈で生きてきた民に伝わる古くからの定石です。あなたのお父様がそれを知らなかったとは思えない。それでも、お父上はしんがりを買って出たのでしょう」
リュシアの喉から引きつるような声が漏れた。それを必死に噛み殺そうとするように、彼女は深く俯いて肩を震わせる。
「……リュシアどののお父様は、誰よりも勇敢で情に深い、谷底の山羊でございます。私たち山の民はその死に敬意を表し、悼みこそすれど、決して愚弄することなどできるはずもない」
不意に、背に手が触れた。指先はまるで引っ掻くようにして布を手繰った。
「あ……あなたに、そんなこと言われたって、嬉しくなんてない、」
呻くように吐き捨てたリュシアの手が、まるで縋り付くかのごとくにユォノの背を掴む。ユォノはリュシアの肩を強く抱いた。
リュシアはユォノの肩に顔を埋めたまま、長いこと肩を震わせていた。ユォノはおずおずとその背を撫でながら、数度、リュシアの名を呼んでやった。
***
それで、とユォノは階段の中ほどで様子を窺っていたセオタスを振り返った。
「いかがなされましたか、セオタスどの」
「あなたにひとつ申し出たいことがあって来ました」
「ふた月も音沙汰なしで、今更何の申し出だろうか」
「おや、私の不在を寂しく思ってくださっていましたか」
「まさか。自惚れもほどほどになされよ」
言いながら、ユォノは注意深くセオタスの様子を窺った。未だに正体の知れない男である。考えなしの朴念仁と称されているし、ユォノの目にもこの男はそのように映っていた。しかし、……どうにもその輪郭が見極められないのである。言葉や振る舞いを目の当たりにしても、セオタスは得体が知れなかった。
「父上からの許可は頂いてきました。ユォノどの、――私の寵姫になる気はございませんか」
片手を差し出し、セオタスは微笑みを湛えて一呼吸で言い放った。耳をそばだてていた女たちが一斉に悲鳴のような困惑を示し、直後、さざ波のように再び鎮まってゆく。しーっ、と歯擦音が交わされるのを聞くともなく聞きながら、ユォノは裳裾を片手で軽く持ち上げ、ゆっくりと階段を降り始めた。
「……親子で女の貸し借りですか? セオタスどのは悪趣味であらせられる」
「堅物のオリウ将軍にも似たようなことを言われました。説き伏せるのに時間がかかった」
「ご自身を諫めてくれる者をもっと大切にした方が良いと忠告しておきましょう。……どうしてそこまでして私を望まれるのですか? 自分のことながら不可解でならないのですが」
ゆるりと首を傾げれば、セオタスは艶然と微笑んだ。差し出された手は、触れようと思えばいつでもそうできる距離にあった。彼は真っ直ぐな目でユォノを見上げている。
「それは、私が、ユォノどののことを、かねてより深く敬愛しているからに他なりません」
「敬愛? ……私はかつてとは変わってしまったと、あなたはそう仰ったはずだ」
彼女はセオタスを見下ろしたまま、その真意を探ろうとするように眉根を寄せた。今、自分が、重大な決断の岐路に立っていることは分かっていた。間違えてはいけない。選択を誤ってはいけない。
「いいえ、ユォノどの。確かにあなたは変わられた、しかし先程のお姿を見て確信しました。……あなたはやはり、私が命運をともにするに相応しい、気高い方であらせられる」
セオタスは一段、ユォノに向かって距離を詰めた。階段の途中なんかでする話じゃない。そう言って撥ねのけようとしたユォノの前腕を取って、彼は身を屈め、耳元に口を寄せた。
低められた声が、無慈悲に囁く。
「――――アスラという名に、聞き覚えは?」
瞬間、弾かれたようにセオタスの手を振り払っていた。ざぁっと血の気が引き、目の前がくらくらした。足に力が入らず、手すりに縋るようにして呼吸を整える。
「……その名を、どこで、」
弱々しく首を振ったユォノの頬に手を添え、セオタスは目を細めた。
「やはり、あなたは何かを隠しておられるのですね。我々が一般に知る事実とは違う何かが」
その双眸に浮かんだ鋭い光を見咎めて、彼女は声もなく息を詰めた。これはまずい、と考えるまでも悟る。警戒も露わに肩を怒らせたユォノに、セオタスはくすりと笑みを零した。
「了承して頂けるのなら、ただ一度頷いてくださるだけで構いません」
どうすればよいのか分からなかった。何と応じるのが正しいのか分からなかった。途方に暮れて周囲を見渡すも、手を差し伸べる人間は目の前のセオタス以外にありはしない。
為す術なく首を上下させると、セオタスは満足げに相好を崩した。
***
城内へ続く渡り廊下、すなわち後宮の出口となる通路を、セオタスに伴われて足早に歩く。小走りにセオタスを追いながら、ユォノは目を怒らせて声を尖らせた。
「一体、どういう風の吹き回しですか」
「このような話の運びになってしまったことは、申し訳ないと思っています」
「手法ではなく、申し出自体に関しての釈明をお聞かせ願いたい」
苛立ち紛れにセオタスの腕を掴んで引き留めれば、彼は一度足を止めてユォノを振り返った。その視線が素早く左右に動き、周囲に聞き耳を立てる者がいないことを確認したのち口元に手を当てて低く囁く。
「あなたに、協力を願いたいのです」
「それは一体どのような」
淀みなく追って問えば、セオタスは数秒の逡巡ののち、小さくため息をついて、酷く苦々しげな態度で吐き捨てた。
「……父が、残党狩りとして、再度のトカットリア遠征を命じようとしています。私はそれを阻止したい」
その言葉に、ユォノは声もなく瞠目した。トカットリアとは、ユォノの故郷たる山岳地帯の名である。中腹に存在した最大の都ホルタは陥落したものの、点在する集落はまだ生きており、ホルタからそちらへ落ち延びた者もいると聞いている。それを狩りに行くというのか。
セオタスは眉根を寄せ、人に聞き咎められるのを憚るように早口で告げる。
「兵はこれ以上の戦に耐えうる状態ではないし、国民から税を絞り上げるのも限界です。父の周囲にはもう父を諫められる人はおらず、私には力も人脈もない」
「それがどうして、私を寵姫にすることに繋がるのです」
「それは…………」
セオタスは口ごもり、目を逸らした。
「……ユォノどのは、幼い頃から、人の上に立つことに長けておられた」
「私に、あなたとともに矢面に立てと仰りたいのですか。味方もいないこの城で、あなたの父上に立ち向かえと?」
「もちろん、父を阻むのは長子たる私の役目だとは思っています。しかし私には……その術がない」
追い詰めるように告げれば、セオタスは酷く答えづらそうに頷く。そこには明らかに何かまだ話していない事実がありそうだったが、彼が口を割る様子もない。ユォノはしばし考えこむように足下に目を落とした。
「……ホルタの生き残りが狙われているとなれば、見過ごすわけにはいかないでしょうね」
「あなたならそう言ってくれると思いました」
「分かっていながら答えを迫るのは陰湿な振る舞いだな」
ユォノは鼻を鳴らし、後宮の出口に向かって歩き出す。強がりを示す精一杯の大股を見下ろしながら、セオタスは「ああ、」と小さく呟いた。
「先程の歩調は少し早すぎましたね。申し訳ありません」
「別に、無理に合わせる必要はない。後れを取るのは私の問題で、貴殿に気を遣わせるのは本意ではない」
「そう意固地にならなくたって、待ってと言ってくだされば、いくらだって待ちますよ」
手を繋ぐか、と言わんばかりに差し出された指先を見下ろして、彼女はふいと顔を背けた。すたすたと一人で歩いてゆく後ろ姿を見やって、セオタスは小さく苦笑したようだった。
「私はホルタのために、貴殿はこの国のために、再度のトカットリア侵攻を食い止めるべく手を組む。……それでよろしいか」
「ええ、それで十分です。聞き入れてくださって感謝します」
隣に並んだセオタスをちらと見上げながら、ユォノは凜と背筋を伸ばして深く息を吸った。
「構わない。――私も、この後宮で自分にできることは何かと考えていたところだった」
影に潜んだまま息を殺しているだけで良いのか、と自答し、思い悩んでいたユォノにとって、セオタスからの頼みは渡りに船だった。
――今再び脅威に晒されようとしている祖国の民を救えば、少しは王女としての責務を果たすことができるだろう。これを成し遂げれば、ようやく赦されるはずだ。……そんな気がしていた。
ブックマークありがとうございます。
比較的長めの中編、一章は全20話の予定です。よろしくお願いします。