6.曇天 4
「要するに、ユォノ王女は既に亡くなっており、あなたはユォノ王女の影武者として側に仕えていたアスラさまだと」
「その……敬称はいりません、オリウ将軍」
「申し訳ありません、こちらもこれが習い性なもので」
おずおずと声をかけるが、オリウはあっさりとそれを棄却した。あまりにもさっぱりとした態度なので食い下がるのも馬鹿らしく、アスラは大人しく引き下がる。
「そして、その事実は、反乱軍には既に知られている訳ですか。そうなると事態が変わってきますね、殿下」
「ああ」
頷き交わした二人に、アスラは怪訝な目を向けた。その視線に気づいて、セオタスが体ごと振り返る。
「……反乱軍の存在はご存知で?」
「噂程度には聞いていましたが……リトや、エラル王子がその一員であるとは、露ほども……」
疑いを払拭するように早口で答えると、セオタスは微笑むことでそのような疑念を抱いていないことを伝えた。
「父上が再度のトカットリア山脈への侵攻を計画しているのは、もはや公然の秘密です。恐らく城内にも間者が相当数入り込んでいると思った方が良い。そして、更なる侵略に対してホルタの生き残りが蜂起する動きがあります。それに伴い、これまで武力で押さえつけてきた諸藩の人間が次々と旗本に集いつつある。従ってフェウセス軍もホルタを警戒し、前線では緊張が高まっています」
「……それを今までわたしに伝えなかったのは、わたしがそちらに与するやもしれぬと危惧したからですか」
思わず呟くと、セオタスは恥じ入るように項垂れた。「ごめんなさい」と続こうとした謝罪を手で遮り、アスラはおずおずと微笑む。何にせよ、今、こうしてセオタスが腹を割って話をしてくれている事実に変わりはない。
(わたしは、まだまだ知るべきことがありそうだ)
漠然とそう思った。少しだけ、怖れのような、武者震いのような、臆する気持ちが腹の底に溜まる。それでも目を逸らさないだけの覚悟は決まっているつもりだった。
「……すなわち、『ユォノ王女』を寵姫とすることには、城内というよりはむしろ、反乱軍に向けての誇示の意味があったと」
「話が早くて助かります」
「どうりで、よく分からない話だと思っていました」
セオタスからの指示も非常に曖昧なものであった。最も重要な反乱軍の情報を隠されていたのなら、それも頷ける。
「しかし、わたしがユォノさまでないことが初めから知られていたとなると、その目論見は何の意味もありませんね」
「それでも、私があなたを自ら寵姫に迎えることで、ホルタに対する融和的な姿勢を示すことはできていると思います。それはそれで十分です、しかし……」
「わたしから反乱軍へ向けての働きかけは期待できない、と」
「非常に言いづらいことですが、はい」
率直に頷いたセオタスを一瞥して、アスラは少し考えこんだ。
「そうなると、わたしにできることはありませんね。フェウセスの城内政治に、わたしが口出しする訳にもいきませんし……。ごめんなさい、お役に立てずに」
申し訳なさに自然と頭が俯いてゆく。どれもこれも、自分が正体を明かすことなく今まで猿芝居を続けていたせいである。……元はと言えば、あのとき主人をみすみす喪ったことが元凶なのかもしれない。
「……アスラ」
悄然と頭を垂れたところに、不意に頬に手が添えられて、アスラは驚いて顔を上げた。セオタスが僅かに眉根を寄せ、身を屈めて視線を合わせていた。
「それは、あなたのせいではない」
セオタスは無駄に言葉を弄しなかった。ただ一言だけ告げて、念押しのように目の奥を覗き込む。その眼差しに、どういう訳か、似ても似つかないあるじの面影を見た気がした。
「――んんっ、ごほん」
不意にオリウが盛大な咳払いをした。アスラは弾かれたように仰け反って身を退き、セオタスもまるで熱いものにでも触れたように手を戻す。
「……それで、どうしますかな。アスラさまの正体に関しては、今後もユォノさまとして通すのか、それとも包み隠さずに公表するのか」
しかつめらしく勿体ぶった口調で切り出したオリウの言葉に、アスラは目を瞬いた。
「隠し通す選択肢もあるのですか?」
「もちろん、永久には不可能ですが、当面……ということですね。少なくとも、この反乱軍との緊張状態や、トカットリア侵攻に関わる問題が一旦落ち着くまでは」
オリウの表情からは、どちらにしろという圧は見つけられない。途方に暮れてセオタスを窺えば、彼もまた好きにしろと言わんばかりに微笑んでいる。
「わたし……」
アスラは困り果てて眦を下げた。分からない。どちらを選んだって、それほど良いようには思えなかった。
彼女は長いこと逡巡していた。自らの掌を見下ろし、眦を下げる。
「……わたしの正体が明るみに出れば、ユォノさまの遺志を継ぎ、ホルタを守ることも、難しくなりますね」
肯定はなかったが、それは間違いのない事実だった。アスラは少し逡巡して、項垂れたまま小さな声で呟いた。
「それなら、わたしは、これから先もユォノさまとして生きていきたいです」
セオタスは、しばらく黙ってアスラの顔を見つめていたが、ややあって「その意思を尊重します」と頷いた。
「あとは、警備を強化しなければならないな」
「まさか、自分の隊に間者が入っているとは思いませんでした。不徳の致すところです」
オリウは忸怩たる思いでいるのだろう、苦々しげな表情で唸るように告げた。セオタスは片手でそれに応じ、足を組みながらアスラを見る。
「アスラ。後宮と、こちらの宮殿内、どちらが良いですか? ……こっちの方が部屋は広いですし、何くれと世話を見てくれる侍女もいますが」
今度はセオタスの顔に、露骨な意思が透けて見えた。アスラは思わずくすりと笑ったが、数秒考えて、その希望を棄却することにした。それをしてもセオタスが怒るような人ではないことは、もう知っている。
「何だかそろそろ後宮が恋しくなってきました」
言うと、セオタスは一瞬だけ驚いたように目を見開き、それから嬉しそうに目を細めた。
「そうですか」
「はい」
アスラは照れ隠しに頬を掻きながら、朱塗りの柱で彩られた、驕奢かつ不安定な、あの女の園を思い浮かべた。
「良くしてくれる人も増えましたし、前よりは上手く息をすることができます。それに、ここ最近ずっと追い詰められていたせいで、周りを見る余裕もありませんでした。きっと、たくさん迷惑やご心配をかけてしまったような気がします」
オリウの目が珍しく優しげな光を湛えてこちらを見ていた。ふと悪戯心が沸いて、アスラはちらと頬を吊り上げた。
「それに、リュシアさんとオリウ将軍の恋路も繋がなきゃいけませんから」
「なッ……!?」
いきなり水を向けられて、オリウが瞬時に真っ赤になる。それを見たセオタスの快活な笑い声が部屋に響いた。
***
後宮に続く渡り廊下の前で、アスラは一度立ち止まった。
「ここまでで結構です」
告げると、セオタスは緩く微笑む。「アスラ」とほんの小さな声で呼ばれ、首を傾げれば、彼の手がそっと頬に添えられた。
「何か不都合でもありましたら、何なりと仰ってください。……大切なひとのことですから」
その言葉に心底の憂慮を認めて、アスラは思わず苦笑する。心配性な人である。門番の視線を感じながら、彼女は目を細め、応じるように首を伸ばした。
「はい、分かっています」
真っ直ぐに視線を重ねているうちに、手が触れている部分の頬が見る間に熱を持つような気がした。顔が赤くなっているのではないかと不安になって、アスラは慌てて一歩下がり、頬に手の甲を当てて冷やすようにした。
その様子にセオタスはくつくつと肩を揺らして笑っている。
「……また明日も迎えに来てよろしいですか」
「迎えに来てくださるなら」
そう言い交わすと、アスラは名残惜しさを振り切るように体を反転させ、門番に会釈をして渡り廊下に足を踏み出した。セオタスの視線が、ずっと背に張り付いている。むずがゆいような気分でそれに耐えていたが、ついに堪えきれずに彼女は肩越しに振り返った。
おずおずと手を振ると、セオタスが照れくさそうに破顔したのが見えた。
渡り廊下を通り、居室のある棟に向かうと、どうやらアスラが歩いて来るのを見つけて待ち受けていたらしい、エイナが微笑んで立っている。
「お帰りなさいませ、ユォノさま」
「……ああ、ありがとう」
ユォノは少しの沈黙を挟んだのち、一度だけ頷いた。誰が敵なのかも分からずに疑心暗鬼に駆られていた頃、エイナにも随分と邪険にしてしまった自覚がある。
「心配をかけて申し訳なかった。……これからも仲良くしてもらえるだろうか?」
口調は気丈だったが、内心は怯えにも似た不安でいっぱいだった。しかしエイナはにかりと笑い、「もちろんです」と胸を叩いてみせた。
「ユォノさまがしばらく宮殿にお住まいになっている間に、何人かお手伝いしたいと申し出てきた子がいたんですよ。一応ユォノさまに聞いてから、側付きにしようと思っているのですが、」
しばらく後宮を離れていた期間を思わせない、快活な口ぶりで、エイナがユォノに話しかけてくる。ユォノは相槌をうちながらそれを聞いていた。
それほど日は経っていないはずだが、随分と久しぶりに思える。自室の扉に手を伸ばしかけたところで、階段の方から凄まじい勢いで誰かが駆け上がってくる足音が聞こえた。まさか敵襲ではあるまいが、この後宮で全力疾走する人間がいるのか?
ぎょっとしてそちらを振り返ると、両手で長い裾を持ち上げ、見覚えのある女が猛然とこちらに向かって走ってくる。その顔が明らかに怒っているので、ユォノは思わずひっと声を漏らした。
「ユォノ!」
「りゅ、リュシアどの……!」
もう、すぐそこまで迫っているのに、リュシアの勢いが緩まる様子はない、腰が引けてたじろいだ直後、リュシアの両腕が思い切り首や肩に巻き付いた。どん、と鈍い衝撃と共にユォノは尻餅をつく。
「帰ってくるなら、そうとちゃんと言いなさいよ! わた、私が、どれだけ心配したと……!」
「リュシアどの……?」
ぎゅっとユォノの首にかじりついて、リュシアが肩を震わせている。ユォノは呆然としながら、おずおずとリュシアの背に触れた。滑らかな黒髪をそっと撫で下ろす。
「……ごめんなさい、心配をおかけしました」
「分かってるならよろしくてよ」
涙声のくせに、相も変わらずリュシアは女王様もかくやの口ぶりで、そのおかしさにアスラは堪えきれずに噴き出した。「何笑ってるのよ!」とリュシアが顔を上げ、両手で頬を摘まんでくる。
そうしているうちに自然と笑えてきたのか、リュシアがふんと鼻を鳴らして手を下ろした。通路の中央にぺたんと座り込んだまま、リュシアはいつものように不遜な笑顔で目を細める。
「まあ、無事に帰ってきたなら重畳よ。――おかえりなさい、ユォノ」
「ああ。……ただ今帰りました、リュシアどの」
二人の少女は顔を見合わせ、同時に破顔した。
一章:ユォノ編が終了となります。お読み頂きありがとうございます。