1.谷底 中
後宮は、ひとつの中庭を四方から囲ったいくつかの建物からなる。それらが中空の渡り廊下で繋がれ、全体は季節の花々が咲き誇る庭園に囲まれている。しかしその庭園も顔を上げれば外も見通せぬ塀に閉ざされている有様で、後宮を出入りするためには東西の門を使用するか、中央の棟から伸びた渡り廊下を通って城内と直接行き来するかしかなかった。当然、どの通用口も兵により警備され、侵入者や寵姫らが出入りすることのないよう厳重に監視されている。
(寵姫が外出できるのは王に呼ばれたときか、あらかじめ届け出を出しておいたとき……か)
この城に来る際に説明された規則を思い返しながら、ユォノは嘆息した。こうも毎日毎日狭苦しい箱庭に閉じ込められていたのでは息が詰まる。空気も澱むというものである。他の寵姫とて、自覚しているか否かは別として、この環境に僅かなりとも閉塞感や鬱屈を抱えているようだった。
……そうでなくば、わざわざ大変な思いをして水を汲んできてまで、ユォノをずぶ濡れにしてやろうとは思わないだろうから。
(参ったな)
中庭には一階と二階のどちらも通路が面しており、四方からは女たちがユォノを見下ろしてくすくすと笑っては顔を見合わせている。頭上を見れば、空になった桶を手にそばかすの少女が媚びへつらう笑みを浮かべ、追従するように周囲を窺っていた。
髪が頬に張り付き、衣服も腕や胸元に重く纏わり付いて鬱陶しい。顎の先から雫が滴り、手の甲で額を拭えばざらりとした感触が残る。泥水か、とユォノは嘆息した。
弱ったような反応を見せればつけ込まれる。それは自然の摂理にも通じる事実であった。幼い山羊は鷲に狙われ、年老いた山羊は食料にありつけない。
だからユォノは唇を引き結び、動じた様子を見せることなく昂然と頭を上げたままでいた。こんな程度の嫌がらせ、死んでいった者どもに比べればちっとも痛くない。表情ひとつ変えずに手のひらで顔を拭い、濡れた服を着替えに自室へと向かったユォノを見下ろして、期待が外れたような不満が露骨に溢れ出した。
泥水に汚された服を盥に入れて、ユォノは規則正しい足取りで水場へ向かう。後宮にいる女は全員寵姫ということになってはいるが、実際に王のお手つきになったり、王の妻としての立場を持つのはごく限られた者のみである。更に言えば当代の王は既に老齢に差し掛かっており、明け透けに言えば女の相手をするだけの元気はない。
王は後宮への関与をほとんどやめており、後宮に関する嘆願はすべて黙殺されているといって良かった。予算が徐々に削られているのも事実だったが、対して寵姫の数が減らされていないのが問題である。
いきおい後宮では生活にまつわるありとあらゆる作業を女たちが自分で行わねばならず、さしずめ女官や下女、侍女がほぼ全てを占めていると言った方が正確だった。
後宮の主であるはずの王がこの女の園を訪れることも絶えて久しいと聞く。代わりに後宮を取り仕切っていた嗣子――セオタスも、後宮に足を運ばなくなって、もう月が一回りしようかという頃に達していた。
セオタスの来訪が絶えたのは、前回ユォノのもとを訪れて以来で、あのときの自分の言葉が原因で彼の足が遠のいているのは明確だった。いっそ当てつけのようにあからさまだ。ユォノにしてみればセオタスは来ても来なくても構わない、むしろ来訪を喜ぶ訳もないので、顔を見せないことに関してはどうだって良かった。
しかし、外の人間の目の届かない環境となった後宮は、明らかに以前より陰湿になっている。まるで箍が外れたようだ。
(あの男が、また来ると言っていたのは、嘘だったのか)
水場に到着し、盥を置いてユォノは貯水槽を覗き込んだ。手桶で水を掬い、盥に注ぎ入れる。盥の中で浮かぶ布地を水面下に押し込み、ユォノは嘆息した。
辺りを見れば、他にも洗濯物と思しき布を抱えた少女の姿がちらほらと見える。ユォノが来るまでは雑談に興じていたらしい彼女らは、しかしユォノの姿を認めるやいなやぴたりと口を閉ざし、警戒するような視線で距離を取ってしまう。
その表情に少なからぬ敵意と、同時に遠慮のようなものを感じて、ユォノは思わず目を逸らした。彼女らの口から「セオタスさまが、」という言葉が漏れ聞こえ、なおさら気分が悪くなる。
認めるのは非常に癪だったが、ユォノは確かにセオタスの、悪趣味な……関心によって守られていた。彼が来なくなって嫌がらせが激しくなったのもその証左だ。
別にそれで構わない。これが本来あるべき形なのだし、……何よりユォノはセオタスのことをいまいち理解できないでいた。何を考えているのか分からず、ユォノに対して何を思っているのかも分からない。それともまさか本気で友人などと思っているのだろうか?
――得体の知れぬ男をよすがにするほど追い詰められてはいない。ユォノは表情を引き締め、盥を傾けると泥の浮いた水を流しにあけた。
冷たい水に指先がじんじんと痛んだ。水を吸って重くなった布を持ち上げ、泥を落とすために洗濯板にこすりつける。故郷のホルタでは、これ以上の重労働だってやっていたはずである。それなのに何故か、この単純作業に妙なほど疲労を感じた。ユォノの手から力が抜ける。気づけば、はたりと手が落ちて地面に指の腹が触れていた。膝を抱えて項垂れる。
――ユォノさま、ユォノさま。待ってください。
――どうしたの。
――靴が脱げてしまったんです。すぐにはき直しますから、置いていかないで……。
――置いてなんていかないわよ。まったくもう、あなたって本当にどじなんだから。
――えへへ、ごめんなさい。
遠い故郷の記憶が蘇った。
――わたし、ユォノさまがいないと全然だめなんです。ユォノさまがいてくれてよかった。
――それはお互い様でしょう?
思い出せば今が辛いばかりの、けれど決して忘れたくない記憶が、呼吸をとめる。笑い合ったあの日の言葉までもが、今もこんなに鮮明に思い出せるのに、
――私、あなたがいてくれて本当に嬉しいのよ、アスラ。
あなたの温もりが、あの日繋いだ指先の感触が、どうやったって思い出せないのだ。
「あら、まさかあなた、泣いているの?」
不意にそんな言葉が背後から投げつけられて、ユォノは弾かれたように振り返った。見れば、リュシアが腰に手を当て、皮肉げな笑みを浮かべてこちらを見ている。ユォノは咄嗟に表情を引き締め、リュシアを睨み返した。
「何の御用ですか」
「あなたが泥をかけられて尻尾を巻いて逃げていったと聞いたから、その情けない姿でも見てやろうと思ったのよ」
悪趣味、と悪態が漏れそうになる。唇を噛むことで言葉を留めて、ユォノは小さくため息をついた。
リュシアは華やかな簪をさして、豪奢な着物を羽織り、装いを含めた自らを周囲に見せつけるように堂々とした女である。その態度はまるで女王もかくやとばかりで、深窓の令嬢というよりは率先して人の上に立ってきた人間の貫禄があった。
ユォノは濡れた手を拭いながら立ち上がり、リュシアと目を合わせた。
「……リュシアどのは、どうしてそのように私にかかずらうのですか」
言うつもりもなかった問いが零れる。その場に落ちた声は、驚くほど弱気な響きをしていた。リュシアは一度目を見開き、それからゆっくりと顔を歪める。
「あなたたちが卑劣な人間で、恥知らずの臆病者ばかりだからよ」
果たして彼女が吐き捨てた言葉はいまいち要領を得ず、ユォノは思わず首を傾げた。リュシアもこれでは伝わらないことは分かっていたらしい。一度鼻を鳴らし、それから痛みを堪えるように眉をしかめて目を伏せる。
「……あなたたちは狭い山道で逃げ場のないお父様を背後から射かけ、谷底へ落とした。私たちの手には何も戻らなかった。身につけていた装身具のただ一つでさえも。お父様は今も冷たい谷の底で朽ち果てているんだわ」
「それは……」
かける言葉を見つけられず、ユォノは思わず開きかけた口を再び閉じた。リュシア自身もこの話をユォノに語ったことを後悔しているようだった。
ユォノはその場に立ち尽くし、視線を数カ所に行き来させながら言葉を選ぶ。
「リュシアどの、その……お父様のことは、とても」
「それ以上分かったような口を利かないで」
ぴしゃり、とリュシアはユォノの返答を撥ねのけた。その視線は頑なで、深い哀しみの色を湛えている。
「……私、あなたのことが嫌いだわ」
それだけ言い残して、リュシアは裳裾をたなびかせて立ち去った。そのときになってようやく、ユォノは彼女が取り巻きを一人も連れずに水場まで訪れていたことに気づいた。肩で風を切る後ろ姿を見送り、ユォノは声もなく天を仰ぐ。どこも見るところのない曇天だった。
***
その晩、いつの間にか破られていた上衣の裾を繕いながら、ユォノはリュシアのことを考えていた。
(このもやつきは何なんだろう)
力任せに引き裂いたらしい、上衣には無残にも亀裂が入り、仕方なしに当て布になりそうな布地を探す。それにしても、不在中に部屋の中に侵入されるようでは、何も置いていけない。鍵がかけられないか調べた方が良いだろう。
(私は理由のある理不尽な扱いを受けている。私自身がここにいる誰かの仇であるわけではない。しかし属性というのは得てして個人を超えるものだ)
針が指先を刺した。一瞬の痛みに彼女は顔をしかめ、指先に滲んだ血を下唇で拭った。
(ひとを取り巻く属性の向こうに、一人の人間を見いだせぬ者は愚かだと、そう断じることは容易く心地よい。他者を断罪することはあまりに甘美に過ぎる。しかし、それを私がしては同じことだ)
目を伏せ、ユォノはちらと傍らの油皿を見やった。蝋燭の火が僅かな身じろぎに呼応して揺れ、漆喰の壁の上に怪しい影を踊らせる。
(私は、この後宮で、何ができるだろう。何もせずに、ただ時が過ぎるのを耐え忍ぶだけで良いのだろうか)
じじ、と蝋燭の芯が僅かに音を立てた。蝋涙が音もなく伝ってゆく。
(間違ってはいけない。見定めねばならない)
針の先に、まるで玉雫のように光が宿っていた。糸が布の上を蛇行しながら横切るのを、見るともなく目で追った。
(……セオタスどのの、失望したような目が忘れられない)
声が耳の底に蘇る。――『あなたは変わってしまわれた』。
針を持つ指先に力がこもった。知らず知らず、唇を強く噛みしめていた。
変わってしまったと、見る影もないと、そう語られるのが何よりも情けなかった。膳をひっくり返されても、嘲笑されても、泥を浴びようとも、その源にやり場のない哀しみを感じ取れば黙らないわけにはいかなかった。それを否定する権利は誰にもない。
けれど、あの……あの見放したような、痛ましげな眼差しだけは、身動きも取れぬほどに耐えがたく思えた。
(何としてでも、かつての誇りを取り戻さなければならない。そのためには間違えてはならない。決して)
糸を切ると、ユォノは針山に針を戻し、繕い終えた服を畳んで脇に置いた。油皿に口を寄せて火を吹いて消し、薄暗がりに慣れた目で部屋をぐるりと見回した。やや粗暴な手つきで襟元を緩め、その場で仰向けに横たわれば、堅い木の床が背を受け止めた。
(……何もかもが変わってしまった。もう帰る場所も、仁義を貫く相手も、どこにもありはしないのに、どうして私はこんなことを強情に続けているのだろう)
羽毛の詰められた枕を引き寄せ、腕の中に抱き抱えた。体がきゅっと縮こまり、膝が胸元に吸い寄せられる。
――答えは分かっていた。多分それが、意地と名のつくものなのだろう。
その夜は、いっそ死んだ方が救われると思うような、酷い夢を見た。




