6.曇天 2
「――ユォノさま、こんなところで何をしているんですか?」
「り、リト……」
不思議そうに首を傾げた少年兵の姿に、ユォノは全身の緊張を抜いて息をついた。突如聞こえた足音に心底驚き、警戒してしまっただけに、その正体が顔なじみであると分かると一気に力が抜けた。へらりと表情を緩めながら、ユォノは胸を撫で下ろす。
「『こんなところで』はこちらの台詞だな」
「ごめんなさい。ユォノさまがお一人でどこかへ行かれる様子だったので、ついあとから追いかけてしまって……」
「ああいや、勝手にうろついていた私も悪い」
そう応えつつも、ユォノはこの少年をどうやって遠ざけたものかと思案した。
(まさか、つけられていたとは思わなかったな……)
ここまでついてこられては、これから撒くこともできない。ユォノは頭を掻き、腰に手を当てて言い淀んだ。
「リト、実は……」
何を言おうとしているのかも決めずに口を開きかけたとき、背後、門の方から、どさっと重いものが地面に倒れる音がした。
槍を持って門を警護していた衛兵が、地面に倒れ伏している。衛兵の体の下から、赤黒い液体がゆっくりと地面に広がっていた。傍らには血濡れた短剣を体の脇に下げた青年が無言で衛兵を見下ろしている。それはほんの一瞬、ユォノがリトを振り返った数秒のことであった。
その姿を目に映した瞬間、ユォノは一呼吸の迷いもなく剣を抜き放った。
「下がって!」
叫んでリトを背後に庇う。一挙手一投足を探るように耳をそばだて、膝を軽く折って身構えた。物音はしない。風に木々の葉先がそよぎ、囁きのような音が広場に駆け抜けてゆく。その中、ユォノは広場の中央に立ち尽くしたまま、目をいっぱいに見開き、ゆっくりと息をしていた。
「――元気そうじゃないか、アスラ」
投げかけられたのは、耳に馴染んだ母国のことばだ。倒れ伏して動かない衛兵の体を跨ぎながら、青年はゆっくりと顔を上げる。その顔を目の当たりにして、彼女は声もなく立ち竦んだ。ホルタにいた頃の記憶が瞬く間に駆け抜けてゆく。彼女は確かに青年を知っていた。
唇を戦慄かせながら、掠れた声で囁く。
「生きておられましたか、……エラル殿下」
「姉上の顔で『殿下』などと呼ばれると妙な感じがするな」
皮肉げに頬を歪め、青年は短剣を振って血を飛ばした。それを鞘に収め、手を空にしたまま、ゆっくりと歩み寄ってくる。逃げようと思えば踵を返して走り出すことも可能と思えるような、焦れるほどに緩慢な歩調であった。それなのに彼女の足は動き方を忘れたかのようにぴくりともせず、喘ぐように浅い呼吸を繰り返して身震いする。
(ホルタの王族は皆、死んだものだと思っていた)
しかし現に、目の前にはエラル――ホルタの王子その人が生きて立っている。エラルはユォノの弟であり、フェウセスの公的な記録では、父王とともにホルタ陥落に際して討ち取られたことになっていたはずだ。
(――影武者が殺されたのだ、)
アスラは考えるまでもなくそう悟った。エラルの影武者はその役目を過たず果たしたのだ。
「……お久しぶりでございます、エラル殿下」
地面に手をつく正式な礼ではなく、彼女は軽く頭を下げるだけの略式の礼をした。エラルは一瞬だけ目を細めたが、静かに笑みを深めた。
エラルはホルタの人間にしては柔らかい雰囲気を持っている方だったが、それでも、その面立ちはフェウセス人とは異なる、山の民のものである。彫りが深く、目鼻立ちのくっきりとした顔立ちだ。目元が姉とよく似ている。懐かしい面影に、彼女は思わず息を詰まらせた。
「このように呼びつけるような真似をしてすまないね。単刀直入に言おう」
エラルは艶然と微笑んだままこちらに手を伸ばした。それを避けるということに思いが至らなかった。
「――僕と一緒に来い、アスラ」
何故だか体が冷え切っているようだった。エラルの言っていることが分からない訳ではないのに、理解ができなかった。足は微動だにしない。
青年の手が、ユォノの髪を留めていた簪をむしるように引き抜き、地面に放り捨てる。
「苦しいだろう。あの姉上のふりをしたまま生きてゆくのはつらいだろう。誰もお前のことなんて見やしない。そうさ、この宮殿に、お前を必要としている奴なんていない。分かっているだろう? ……でも、僕なら、お前を分かってやれる」
侍女に整えてもらった髪をぐしゃりとかき混ぜ、ユォノの頬に金色の髪が一房落ちた。
「僕だってそうだ。ホルタの王子エラルは既に死んだ。僕がどれだけ言いつのろうと、僕の存在を認める人間はいやしない。お前もそうだ。アスラは死んだ。もうどこにもいない。僕たちは唯一、本当の意味で理解し合うことができる」
唇を親指で強く拭った。紅が落とされる。セオタスの寵姫として形作られたユォノが、少しずつ剥がされてゆくような心地がした。
「僕といるときだけは、お前をアスラでいさせてやれる。――帰ってこい、アスラ。お前を認めてやる」
身を着飾るものを外され、髪は乱れたまま、衣装だって、荒事を予測して簡素なものだ。手にしているのは剣ただ一本だけだった。
アスラはぼんやりとエラルを見据えたまま、ゆるりと首を傾げた。
(……帰る?)
腕に力は入らなかった。生まれも、我が身も、命さえも捧げ渡した王家を前にして、アスラの心はじわりと痺れたような鈍感さで、上手く思考を回そうともしない。
「わたしに、帰る場所など、ありません」
知らず、そう呟いていた。
「ユォノさまがいないのに、誰のもとへ帰れと仰るのですか」
こちらに手を差し伸べたまま、エラルがゆっくりと目を見開き、その双眸に激昂の色を浮かべるのを、アスラは為す術なく見つめていた。
「……お前が、姉上の死を、語るな」
声を震わせ、肩を戦慄かせながら、エラルが腕を伸ばしてアスラに掴みかかろうとする。
「お前に、姉上の死を悼む権利があるとでも思うのか!」
エラルがそう叫び、アスラの腕を強く掴み上げた。その手に力がこもった直後、背後で大勢の足音がした。両者は顔を見合わせたまま体を固くする。
「――ユォノどの!」
切迫した声が鋭くユォノを呼んだ。その瞬間、初めて体が動くようになった。ユォノは咄嗟に飛び退り、エラルから距離を取って声の主を振り返る。声を聞いただけで分かっていた。そこにあったのは紛う事なきセオタスの姿であり、ユォノは息を飲んで青ざめる。その反応を見て、「へえ」とエラルが頬を歪めて呟いた。
(どうして、ここに……!)
「大丈夫ですか、」
セオタスが素早くユォノを背後に庇い、薄ら笑いを浮かべて立ち尽くすエラルを睨みつけた。その目が門の脇で倒れた門番に走らされ、険しく細められる。
「ご機嫌うるわしゅう、セオタス殿下」とエラルはホルタ語のままでそう言った。まるで友人に語りかけるかのような朗らかな調子である。名乗ってもいないのに正体を言い当てられ、セオタスは警戒をありありと表して身構えた。
片腕を上げ、ユォノを隠すようにしながら、セオタスは眼差しを鋭くする。応じるようにホルタ語になって、エラルに詰問する。
「お前は誰だ。……ユォノどのに刻板を送りつけていたのも貴様か?」
「おっと、その言葉には『是』と『否』を一つずつ返さなければいけないな」
フェウセス語を交えながら、エラルはおどけた調子で肩を竦めた。その視線が、ちらと少女を見やり、愉快そうに細められる。それだけで、この青年が何を語ろうとしているかを察し、彼女は咄嗟に「やめて!」と叫んでいた。
「やめて、言わないで、」
「ユォノどの、下がっていてください」
前へ出ようとするユォノを、セオタスが押しとどめる。その腕に必死に抗いながら、彼女は首を振ってエラルに縋るような目を向けた。しかし彼の微笑みは崩れず、楽しげな表情のまま、その唇は開かれる。
「まず、そうだな。刻板を作って連絡を取っていたのは、ああ、確かに僕だ」
セオタスの背後には、オリウを初めとした兵たちが一堂に会していた。誰もがこの事態に口を噤み、耳を澄ませて固唾を飲んでいる。この中にホルタ語を理解できている者がどれだけいるだろう。たとえ分からなくたって、エラルがとてつもないことを口にしようとしていることは伝わるに違いない。そして、それはやがて、絶対に、致命的な綻びとなる。
(やめて、)
彼女は顔をぐしゃぐしゃにしながら、半ば抱きすくめられるように強く拘束されたまま、打つ手もなく泣き縋った。彼女が言いつのればつのるほどエラルの顔には愉悦が浮かび、心底この事態を面白がるようにその声音に嘲笑が滲む。
「それと、もうひとつ」
それはまるで極刑を宣告されるかのような、絶望的な一瞬であった。瞬きいちどほどの刹那が、永遠のように長く感じられた。
細長く、白い指先が、ぴたりとユォノに据えられた。
「――その女はユォノ王女などではない。何の価値もない、ただのまがい物だ」
息を飲んだのは誰だったか。やめて、と声が喉元で凍り付いた。咄嗟の行動だったのだろう。セオタスの腕がユォノを遠ざけた。ひやり、と冷たい風が体の間に吹き抜けた気がした。
「……何を、戯れ言を、」
セオタスは自分に言い聞かせるように呟き、額を押さえて頭を振った。否定するような仕草の中で、その目がちらと彼女を窺う。向けられた眼差しの中に一抹の疑念を認めて、彼女は慄然とした。
「嘘なんかじゃないさ。――そうだろう、アスラ!」
追い打ちをかけるように、エラルが明るい口調でそう声をかける。化けの皮はすべて剥がされた、そう思った。アスラは呼吸が止めようもなく、浅く、早くなってゆくのを感じていた。
「……アスラ?」
セオタスの目が向けられる。アスラは血の気の失せた顔で「違う」と呟いた。違う。これは嘘だ。ここにいるのはユォノさまだ。私だ。私が今、ここにいるのだ……!
「違う、違う……違う!」
「何が違うものか!」
癇癪のように叫んだアスラに、負けじと怒鳴り返したのはエラルだった。叩きつけるような声音に気圧されて、アスラは怯んで首を竦める。
「……姉上が、フェウセスの密偵によって誘拐されて、僕たちは降伏を迫られた」
その言葉に、セオタスは相手の正体をすぐさま理解したらしい。彼の唇が素早くエラルの名をなぞる。
(やだ、やめて、)
わたしは何が起きたかを知っている。何があったかを知っている。この話の結末を知っている。それを決して、一番聞かせたくない人がここにいた。アスラは必死で話を遮ろうと叫ぶが、やればやるほどエラルの声が高まるばかりで、この話が終わる気配はおよそない。
エラルはその語調を厳しくして続けた。
「姉上は次代のホルタ王であり、その身柄を捕らえられたことで、僕たちは降伏を本格的に検討し始めた。そのとき、フェウセスから、『ユォノ王女の影武者』の遺体が届けられた。こちらは本気だ、と言いたいらしい」
オリウの顔に僅かな苦みが混じったが、エラルの言葉を否定するつもりはないようだった。アスラはエラルの口を塞ごうとするが、セオタスの腕が強く体を戒め、前へ進むことができない。
「その姿を見て驚いたよ。――死んでいたのは、紛れもなく本物の姉上だったんだから」
「ユォノどのが、死んでいた?」
独り言のように、セオタスが呆然と呟く。アスラは顔を歪めた。
「単純な話だ。姉上は顔のよく似た影武者とともに攫われた。姉上とは似ても似つかない、何ひとつ秀でたところのない貧民の娘だ。ユォノ王女にアスラという最側近の侍女がいたという話は知っているだろうか」
ついに堪えきれず、アスラは抜き身のまま体の脇に下げていた剣を振り上げた。剣先をエラルに向けて叫ぶ。あの男の口を塞がなければいけない。すべてが露呈する前に、何としてでも……!
「それ以上、その口を開くなッ!」
「駄目だ、ユォ……」
セオタスはその動きを止めようと振り返りかけ、そこで言葉に詰まって沈黙した。ユォノの名を呼ぼうとして、そこに逡巡が混じる。その表情がすべてだった。アスラは絶望して青ざめる。もはや嘘は落ち尽きた。どれだけ言葉を尽くそうと、もうこの疑心が覆ることはあるまい。
「おやまあ、あるじの真似事で随分と威勢が良いじゃないか。怖い怖い」
エラルは小馬鹿にするように両手を挙げた。その手を下ろして目を細め、彼は明朗な声で告げる。
「ユォノ王女が侍女を殺して生き延びたのではない。――まがい物が、本物を殺し、成り代わったんだ」
「違う! ユォノさまは、違う、そんなんじゃない……」
剣を持つ手が震えた。足に力が入らず、その場にへたり込む。アスラが咄嗟に反駁した言葉に、エラルは激しい声で叫んだ。
「何も違わないじゃないか! 結果として、ホルタは降伏に応じる理由はなくなり、勝てもしない戦に臨むほかなくなった! お前が姉上を殺したからだ! お前が死ねば良かった! ――何のためにお前が、身の丈にも合わぬ地位を与えられ、幼い頃から優遇されてきたと思う。死ぬためだ! 然るべきときに、守るべき主君を庇ってその身を喜んで差し出すためだ!」
鋭い言葉が、まるで刃で身を抉られるように痛かった。「やめて」と耳を塞ぐも、エラルの憤激はやむことがない。
「全部お前のせいじゃないか! ホルタを滅ぼしたのはお前だ、――この反逆者めが!」
「聞き捨てならないな、エラル殿下」
エラルの言葉を遮ったのはセオタスだった。地面に膝をついて動けないアスラを一瞥し、眦を決してエラルを見据える。
「仮にも王族ともあろう者が、戦という国家の争いの責を、……貴殿の言葉を借りるなら、そう――貧民の娘ただひとりに負わせるとは」
セオタスの声は冷え冷えとしていた。触れれば指が切れそうなほどに冴え渡った怒りを感じ取り、アスラは息を飲む。
「どのような戦況におかれようと、民を率いて戦へ臨むことを命ずるのは王だ。いかなる結果を迎えようと、その責を全て被るのが、王たるものの使命だろう。その血を継ぐ者も同様に。それが、自らは責任を負わず、ただ与えられた特権ばかりを享受して、導くべき民に罪をなすりつけて不平を垂れると来た。見るに堪えないほど恥ずかしいな」
あくまで淡々とした口調で語り、セオタスは片手を持ち上げてエラルを指し示した。
「宮殿への侵入と門番への傷害、あとはまあ……柵への器物損壊か」
フェウセス語に戻って、彼は背後で控えていた兵に一声命じた。
「捕らえろ」
その声で一斉に兵が動いた。エラルを囲み、剣や槍の先を向けてじりじりと輪を狭めた。エラルを捕らえるよう命じたあともセオタスはアスラの方を見ようとはせず、彼が先程の話を信じたかどうかも定かではない。とどめを刺すのを先延ばしにされているような心地だ。アスラは浅い呼吸のまま、固唾を飲んで成り行きを見守った。
エラルは兵に囲まれ、逃げ場を失ってもなお、不敵な笑みでセオタスを……あるいは、その背後で青ざめているアスラを見据えている。泰然とした態度には余裕が漂い、その血筋がただ者ではないことを窺わせていた。
……それにしても、ただ一人で敵に包囲されていながら、この余裕はどこから生まれている?
(何かがおかしい)
そもそも、何のためにエラルは散々刻板を送りつけ、アスラをこの場所へ呼び出したのだろうか。その話をまだ聞いていない。
(逃げるための算段でもついているのか、それともまだ、隠し球でも……)
不穏な予感に突き動かされ、アスラは地面に手をつき、よろめきながら立ち上がった。
傍らに転がる剣を拾おうと腰を折って屈んだ、その瞬間、アスラの首をひやりとした感触が掠め、一気に背後から腕が回された。
「――全員、動くな」
耳元から鋭く放たれた声は、聞き慣れた少年のものである。ひゅっと喉が締まるのを感じて、彼女は身を強ばらせて視線を落とす。喉元に突きつけられた剣先に、一度だけびくりと体がわなないた。
「リト、どうして、」
そう呟くが、背後から首に腕を回し、喉に剣の腹を押し当てたまま、少年は応えようとしない。兵たちは一斉に動きを止め、固唾を飲んで成り行きを見守っている。アスラを振り返って、セオタスが見る間に色を失ってゆく。その目に激しい逡巡が渦巻いた。
「ごめんなさい、ユォノさま――いや、アスラさん」
リトはアスラの肩に顔を埋めるようにしながら、低く呻いた。少年の目には決然とした光が浮かび、迷いなく周囲を睨みつけている。
「……僕は初めから、反乱軍の人間です」
温和であった少年の眼差しに、静かな激情が浮かんでいた。




