6.曇天 1
翌朝、薄らと雲のかかった空の下、リッチェルは痛む膝を庇うように片足を引きながら訓練場に姿を現した。あらかじめ話を通してあった兵たちは訝しむ様子を見せず、博士のために道を空ける。
「ああ、殿下、お呼びでしたか」
「ご足労感謝する、リッチェル博士」
「いえいえ、たまには運動も大切ですから」
リッチェルは頭を振りながらセオタスの元に歩み寄ってきた。
「それで、如何なされました」
のんびりした様子の博士に頷き、セオタスは一昨日ユォノが触れていた柵のところまで誘導した。リッチェルが来る前に確認したとおり、そこには明らかに何らかの意図を持って刻まれた痕跡がある。
怪訝な表情で身を屈め、そこに顔を近づけ、指を伸ばして触れたリッチェルが、驚くほど素早い動きでセオタスを振り返った。
「殿下、これは」
「先日、ユォノどのがこの部分に何度も触れていたことを思い出したんだ。そうしたら案の定、このような」
「何と……」
唖然としたようにリッチェルが柵に顔を寄せる。好々爺じみた顔が今は険しく引き締められ、眼光鋭く柵に刻まれた跡を見据えている。
「殿下、人払いをしますか」
声をかけてきたオリウに「頼む」と返し、セオタスはリッチェルに背後から声をかけた。
「どうだろう、これは……刻板文字だろうか」
「……ええ、どうやらそのようですな」
リッチェルは頷き、振り返りもせずに「紙と筆、それと研究室の机の上から辞書を」と短く言った。その旨を兵に伝え、セオタスは為す術なく博士の背中を見つめ、無言で立ち尽くす。
「どうやらこれは、刻板ではあるものの、フェウセス語混じりのようですな」
リッチェルは呟いた。その言葉にセオタスは目を瞬く。
「多少お時間を頂きたい、こちらを一番に解読します」と博士は指を柵に這わせながら告げた。
そのあとに続いた言葉に、セオタスは慄然として背筋を凍らせた。
「これはどうやら、日時と場所を指定する文言のようでございます」
***
朝はまだ空も明るかったのに、正午を過ぎた辺りから一気に暗い雲が覆い始めた。重苦しい空気の漂う昼下がりのことである。ユォノは身支度を調え、あてがわれた一室から顔を出し、外出したい旨を告げた。
「えぇ、訓練場ですか?」
部屋の前に立っていたリトは目を丸くして、先輩と思しき長身の兵をちらと見やった。彼は少し考えるように黙ってから、「承知しました」と頷く。
「申し訳ありませんが、このことはセオタス殿下に……」
「ああ、報告してくれて構わない」
セオタスが何やら朝早い頃から外出し、戻っていないことは知っている。恐らく外せない用事でもあるのだろう。ごく平然とした態度で頷いたユォノに、兵は少し意外そうな顔をして、それからリトを振り返った。「お連れしろ」と声をかけてから、兵は一礼して踵を返す。
(今日の警備がリトで都合が良かったな)
内心で呟きながら、ユォノはちらとリトを見下ろした。ユォノに懐いているこの少年兵は、丸い目を一度見開いてから微笑む。ユォノが足を踏み出すと、リトは大人しく半歩後ろをついてきた。
「いきなりお散歩だなんて言われても、僕たちだって人員に限りがあるんだから困りますよ」と彼は冗談めかして苦笑する。
「お供するのが僕一人でごめんなさい。僕なんかじゃ心許ないですよね」
「なに、そんなことは思っていないさ」
ユォノはそう軽口を叩きながら、体がどうしようもなく震えるのを感じていた。自らを宥めるように剣に触れた手が、怯えを示すように冷え切っていた。力が入らない。
「ユォノさま、どうかされましたか?」
おずおずとリトが見上げてくる。ユォノは少し黙って中空に視線を滑らせ、「大丈夫だ」と微笑んだ
渡り廊下の途中で庭へ降り、宮殿内の建物を繋ぐ主要な通りへ出たところで、ユォノは立ち止まってリトを振り返った。
「申し訳ない、思ったよりも外が寒くて……部屋の入ったところに上衣がかけてあるのだが、取ってきてもらえないだろうか? 私はここで待っているから」
申し訳なさそうに眦を下げ、ユォノはそう声をかけた。リトは少しの間驚いたように瞳を揺らし、それから「分かりました」と頷く。
小さな背中が角を曲がってゆくのを見送ってから、ユォノはくるりと踵を返した。まさか、リトに言ったとおりこの場で待っているつもりなど毛頭ない。腰に佩いている剣に手をやり、彼女は一度、大きく息を吸った。
相手は、ユォノを殺そうと思えばいつでも殺せたはずだ。だから、狙われているのは命ではない。半ば言い聞かせるように胸の内でそう呟いて。ユォノは決然と額を真っ直ぐに上げる。
何が待ち受けているのかは分からないが、それが対峙しなければならないものであると彼女は直感的に悟っていた。
(所詮、何の証拠も持たない秘密だ。けれど、周囲の人間に疑念を抱かせるのは本意ではない)
なれば、秘密を知っている者を葬り去るしかない。口を塞いでしまえばあとはどうとでもなる。元々向こうが自分を誘い出しているのである。
だから、そこに死体の一つや二つが転がっていようと、それは正当防衛だろう。ユォノは無言で剣の柄に触れた。
***
昼食も摂らずに柵の前にかがみ込み、紙に細々とした印を書き並べ、直筆と思しき辞書をひっきりなしに参照するリッチェルの背中には鬼気迫るものがあった。
「日時と場所を指定とは、穏やかではないですね」
オリウの言葉にセオタスは頷いた。
「しかし、大きな手がかりでもある」
「ユォノさまの通信相手を突き止めるための、ですか」
「ああ」
セオタスは小さく頷き、眉間を揉みほぐすように指を触れる。いつの間にか疲労が溜まっていたのか、思わず大きなため息が漏れた。
「……殿下は、ユォノさまを殊の外気にかけておられる」
オリウの口から、不意に非難めいた気配を含む言葉が漏れた。セオタスは咄嗟に答えずに目を逸らす。
「せっかく得られた協力者だ」
「いずれ牙を剥くやも知れぬのに?」
オリウの言葉はユォノを警戒するというよりは、セオタスの反応を窺うような節があった。それを証明するように、将軍の目線はぴたりとセオタスに据えられ、その表情をじっと観察している。セオタスは居心地悪く沈黙した。
「ご自分が切り捨てられるものと、そうでないものを見誤るなと、私は再三申し上げてきましたね」
「ああ。……そうでなくば、いつか足下を掬われる」
セオタスは呻くように頷く。……王とは払うべき犠牲を理解し、情に流されることなく果断にそれらを切り捨て、その責任を一身に背負わねばならない。どのような結末を迎えたとしても、それは全て自らに帰するものであると、その覚悟の上で判断を下さねばならない。
「――今の殿下にとって、ユォノさまは、必要とあらば、迷いなく見捨てることのできるひとですか」
セオタスは顔を上げ、「当たり前だ」と答えたが、その声は言葉とは裏腹に弱気を表していた。オリウはその言葉に関してそれ以上何も言わなかった。
「彼女はきっと、火種となりうる方ですよ」
それだけ言って、オリウは無言で立ち上がった。
そのとき、リッチェルが振り返り、張り詰めた表情でセオタスを見据えた。その顔にただ事ではない色を見咎め、セオタスは腰を浮かせる。
「殿下、第三週の水の節というのは、」
「……今日だ」
リッチェルがそれに何かを言うより早く、セオタスの背筋を悪寒が襲った。ざあっと血の気が引き、よろめきながらリッチェルに歩み寄る。
「場所はまだ読めていないのですが、いずれかの門が指定されているようです」
博士は地面に膝をついたまま、恐る恐るセオタスを見上げて告げた。
「――今日、八の鐘が鳴る頃に、門へ来い、と」
セオタスは弾かれたように鐘楼を振り返った。前に鐘が鳴ったのはいつだ? あのときは何度鐘が鳴らされた?
「……七の鐘が鳴らされてから、もうじき一刻が経ちます」
顔面蒼白のオリウが、掠れた声で呟く。セオタスは息苦しさに顔を歪める。言われるまでもなく、今が佳境であることが分かっていた。しかし動けない。
「ああ、殿下、こちらにおられましたか」
不意に穏やかな声がかかり、セオタスは素早く振り返った。見覚えのある兵である。オリウが隣で鋭く息を飲む。
「ユォノさまの警護はどうした」とオリウが血相を変えて掴みかかったことからするに、どうやらユォノの警備に当てられていた兵らしい。兵は困惑を示し、「いらしていないのですか?」と訓練場を見回した。
「ユォノさまが外へ出たいと仰ったので、殿下にご報告申し上げようと思ったのですが、執務室におられなかったので探し回ってしまいました。ご報告が遅れて申し訳ありません」
どくん、と心臓が大きく跳ねる。動悸が激しくなった。……ユォノが、外へ出た?
「どこへ行くと言っていた」
詰問するように問うていた。兵はびくりと肩を強ばらせ、セオタスに向き直る。
「訓練場と仰っていました。帯剣しておられましたし、てっきり、こちらにいらっしゃると……」
セオタスは額を押さえて歯噛みした。ユォノはこの、正体の分からない呼び出しに応じたのだ。……それも、剣を持って。
(戦うつもりか? 一体誰と……この伝言を仕込んだ人間と? それでは、彼女は、外と結託していた訳ではないのか……?)
セオタスの脳裏に、悄然と頭を垂れながら、縋るように繰り返す少女の姿が鮮烈に蘇った。
――信じてください、お願いです、……わたしを信じてください、
瞬間、憤怒にも似た苛立ちが突き上げてきて、セオタスは傍らの柵に強く拳を叩きつけた。横殴りに衝撃を受けた柵は、抗議するように大きく軋む。自らの不甲斐なさに血の気が引いた。
「ユォノどのを捜索しろ、動かせる兵はすべて使え――今すぐにだ!」
オリウに向かってそう命じた直後、遠くの鐘楼で高らかに鐘が、八度打ち鳴らされた。
***
(誰もいない、か……)
ユォノは頬を掻きつつ、周囲を見回して立ち尽くした。
場所は知っていたが、実際に弟切草の門を訪れるのは初めてである。どうやら大きな荷物を出し入れするのに使う通用口らしく、付近にあるのは倉庫や衛兵たちの詰所程度のものである。荷物を運搬するのにだって、定められた時間がある。今は門の周辺に人気はなく、馬車を停めさせて中身を検めるための空間であろう広場が、ぽっかりと開いているだけである。その中央に立ち尽くしたまま、ユォノは腰に手を当てて眉をひそめる。
門の両脇に一対で立っている門番は怪訝そうにユォノを眺めており、その視線を気まずく思いながら、ユォノはそれとなく周囲を見渡した。
……よくよく考えてみれば、こんなに白昼堂々、衛兵もいるような城内で、一体何をしようというのだろう。
(まさか担がれたということもあるまいが……)
それとも、またどこかに刻板が彫られていたりするのだろうか? 近辺の木々や壁を確認しようと首を巡らせたところで、背後から軽い足音がした。人の気配が思いがけず近づいていたことに総毛立ち、ユォノは弾かれたように振り返る。
そこに立っていた人間の足が視界に入る。そのあまりの近さに息を飲み、息を詰めて顔を上げた瞬間、すぐ近くで鐘が強く鳴らされた。
ユォノは驚きに目を見張るなか、耳が割れそうなほどの反響を伴って、鐘の音は間違えることなく八回、確かに響き渡った。