5.疑心 4
部屋の前には兵が最低でも三人は常駐し、片方の壁には窓が並び、反対の壁はと言えば隣の部屋――セオタスの居室に繋がっている。
セオタスの隣の部屋に住まわされてから、もう半月ほどが過ぎていた。この間に落葉樹はほとんど葉を落とし、勤勉な庭師によって落ち葉は全て回収され尽くした。まだ本格的な冬が始まるには早いが、十分に寒々しい光景である。
扉の前で衛兵が交代する気配を感じながら、ユォノは改めて、常に監視されている自らの境遇を思った。
(まあ、無理もない……か)
刻板を投げ入れる犯人を捕まえようと、咄嗟に後宮の外へと駆け出した浅慮を、ユォノは今更ながら実感していた。寝台の上で仰向けになり、見慣れぬ天蓋を眺めながら嘆息する。
(むしろ、あそこで見つからなくて良かった、のだろうか)
もちろん、刻板をユォノの部屋に投げ入れていたのが、それを刻み入れた本人であるとは限らない。しかしどちらにせよ、ユォノがあの場で犯人と出くわし、丸腰のまま加害されていた可能性は決して否定できなかった。もちろんあのときユォノは追いかけてきた衛兵を引き連れてはいた。万が一のことはなかったとしても、むしろその方が問題だ。
(刻板を作っている人間と、私に脅しをかけている人間は同一人物だろう)
刻板という文字文化の特異性と、『ユォノ』の正体に関する情報の機密性からして、彼女にはそうと予想がついていた。
(そいつを、フェウセスの人間に捕らえさせるわけにはいかない)
ぎり、と噛みしめた奥歯が音を立てる。穏やかな体勢で休息を摂っているというのに、胸を急き立てる切迫感は消えることがなかった。
(わたしの正体を知っている人間がフェウセスの手に渡れば、それは即ちセオタスどのやオリウ将軍、ひいてはリュシアどのにまで……わたしの正体が知れ渡るということだ。そうしたら、わたしはもうユォノさまとしてここにいられない。ホルタを守れない)
想像しただけで恐怖が押し寄せて来るようだった。怖れを覆い隠すように目を瞑れば、行く手の塞がった袋小路がそびえ立つようだ。心底見下げ果てたと言わんばかりの眼差しが瞼の裏に浮かび上がる。どれだけたくさんの人に見捨てられることか。
(その前に、始末しなければ。……何にせよ、相手は私と接触したがっている。それならば、こちらから相手に近づき、口封じをして、)
そうまで考えたところで、腹の上に置いていた指先がどうしようもなく震えた。くしゃりと顔が歪む。まるでただの肉塊のように、思うように動かない腕を持ち上げて、目元を覆った。
「どうして、こんな……」
戦慄く唇で囁く。四肢を鎖で戒められたようだった。どうしたって駄目なのだ。動いたって、動かなくたって、セオタスからの疑念は避けられまい。セオタスに見捨てられたら、もう、何もできやしない。後宮で一生を過ごすか、それともあるいは力を削がれて下賜され飼い殺しにされるか。
しかし、正体が明るみに出れば、それすら叶わないだろう。謀ったとして刎頸されるだろうか。何の価値もない娘はただ外へ放逐されるだろうか。
『――それならばせめて、ユォノどのが心安らかに、人並みの幸せを得られるように心を砕きたいと思うことは、叶いませんか』
柔らかく微笑んだセオタスの言葉が、ふと脳裏に蘇った。目を塞いだまま、彼女は頭を振った。叶わないのだ。叶うわけがないのだ。人並みの幸せなど得られるはずがない。
『主君を殺して成り代わった気分はどうだ』
鋭い言葉が胸を抉る。息もできないような切なさであった。
「――わたしの魂が、トカットリアの山へ、還ることなどできるはずもない」
ユォノさまを殺して生き残った自分が、どうして幸せになどなれようか。のうのうとこの王宮で暮らし、まるでその生活が自分のものであるかのように笑っていた自分に心底嫌気が差した。
(向けられた親愛も、笑顔も、全部、ぜんぶ、わたしに対してのものじゃない。ユォノさまに対してのものだ。ユォノさまだからこそ、受け入れてもらえたのだ)
何を勘違いしていたのだろう。初めからここには、自分など存在していなかったのだ。否、どこにも、『アスラ』という名の少女など、どこにも……。
必死に声を殺して身を縮め、彼女は夜が明けるのをひたすら待ち続けることしかできなかった。
***
訓練場にて、既に剣戟を終えて脇に下がったのちも、セオタスの目がひとときも離れずに自分を追っている。見るまでもなく視線を感じながら、ユォノは小さく嘆息した。木を組んで作られた柵にそっと腰を預け、腕を組む。
「ユォノさま……何があったのかって、聞いても良いんですか……?」
隣に立ったリトがおずおずとこちらを見上げてくる。この半年でぐんと身長が伸びたように思う。以前よりは近くなった目線を見返しながら、ユォノは言い淀んで頬を掻いた。
ユォノの警護――もとい監視に取り立てられたのはオリウの隊の兵である。すなわちリトもユォノの監視に当てられている一員であり、先程からぴったりとつかず離れず傍にいるのもそのせいだろう。
「まあ、ちょっとした……喧嘩みたいなものというか……」
我ながら曲解にもほどがあるとは思ったが、まさか本当のことを包み隠さず語るわけにもいくまい。
「喧嘩?」とリトは目を丸くした。予想外だ、と語っているその表情に、ユォノは思わず苦笑した。
「君が心配するようなことじゃない。大丈夫だ、じきに解決するさ」
ぽん、とリトの背中を軽く叩いてやって、そのまま手を下ろし、柵の上に指先を置いた。
――瞬間、彼女は総毛立つ。
『第三週水の節、八の鐘の頃、弟切草の門にて待つ』
角材のへりに刻まれた言葉が、指の下で明確な日時を指定していた。こんなことは初めてであった。ユォノは決して顔を動かさず、ごく平然とした素振りで遠くを眺めながら、再度言葉の刻まれた部分を指でなぞった。
……指定されているのは明後日である。
(相手も焦っているのか、)
ユォノが後宮から脱走したことが知れているかは別として、彼女がセオタスによって監視下に置かれていることは分かっているだろう。刻板を送りつけるのが難しくなったのは事実だ。
(好都合だ。迎え撃ってやる)
彼女は目を伏せ、唇を引き結ぶ。隣の少年兵が、いやに静かな面持ちでこちらを見上げていた。
***
「ですから、刻板というのはですね、表音文字でありながら同時に表意文字としても機能するのですよ。その区別が非常に難しくてですね、この差異は恐らく母語者でないとね、分からないのではないかとね、私はそう思います」
早口に語る老人を前に、セオタスは些か辟易としつつも、「なるほど」と頷いた。
「そのうえ、元々刻板というものはですね、機密性の高い情報を内密に伝達するための手段でありますからね、そうやすやすと読まれないようにですよ、様々な言葉が符号化されていてですね、たとえ言葉を読み取ることができても、内容が理解できないようになっているのですよ」
嬉々として語るのは言語学者のリッチェル博士である。その名の響きからも分かるとおり、彼はフェウセスを母国とする人間ではなく、西にある島嶼地方から流れてきた移民であった。とはいえリッチェルがフェウセスに住み着いてからはもう数十年が経ち、その発音に異国民のぎこちなさはなかった。語り口のくどさは生来の癖らしい。そもそも母語でも回りくどい喋り方をする老人である。
セオタスは秘密裏にユォノの部屋から刻板を回収し、このリッチェル博士に解析を依頼していた。業を煮やして書庫の脇にある彼の研究室を尋ねてみれば、あともう少しで一つ目が読めそうだと言っているところである。
リッチェルは忙しない身振り手振りで話を続けた。
「長年あれを研究している身から言わせて頂けばですよ、殿下が解析しろと仰るこの板切れ、これはですね、まったく不調法ですよ。このような板に言葉を刻みつけては、何の意味もございやしません。まるで読んでくれと言わんばかりでございます」
「何の意味もない?」
今にも頭の上に崩れ落ちてきそうな本の山を警戒しつつ、セオタスは眉をひそめて聞き返す。リッチェルは我が意を得たりと大きく頷いた。
「よろしいですか。刻板というものが、他の文字と最も異なる点は何だと思われますか」
「ええと……紙に書くのではなく、板に刻むこと……だろうか」
触れてもいないのにぐらりと傾いてきた本の塔をさりげなく片手で押さえ、セオタスはおずおずと問うた。「その通りでございます」とリッチェルは頷く。
「つまり、刻板はどのように読むものでございましょう」
その言葉に、セオタスははっと目を見開いた。
「目で見るのではなく、指で触れることで読み取る……」
「ご名答でございます、殿下」
リッチェルは深い皺の刻まれた顔を笑みの形に歪めながら首肯した。
「刻板という文字はですね、そこに光がなくとも、音がなくとも、確かに言葉を伝えることのできる、希有な文字でございます」
日焼けを避けるためだろう、ほんの小さな窓から射し込む斜陽が、この老博士の手につまみ上げられた木片を照らし出していた。
「たとえ目を向けずとも、声がなくとも、そこには確かに言葉がある。あれは、周囲にそうと気取られぬように情報を伝達するため、ホルタの民が編み出した手段なのです」
***
柵に刻まれた伝言に気づいてから、早くも丸一日が経過していた。ユォノはまんじりともせずに考えこむ。
明日、八の鐘の頃、弟切草の門。その言葉をユォノは反芻した。八の鐘、すなわち昼下がりである。まだ日の高い時間帯ならば、外出をしたいと言い出しても不審ではあるまい。しかし……。
(……弟切草の門は、やや遠いな)
宮殿の塀は二重になっており、単純に言えば、堀に囲まれ城下町に繋がる外の塀と、後宮を囲む塀のふたつである。基本的にユォノが足を伸ばす範囲はあくまで後宮の傍からさほど離れず、市井へ続く門に近寄ることは、いかな自由を許されている身とは言えど、寵姫としては憚られた。
(外出許可を取り、監視を撒き、弟切草の門で待ち受けているであろう犯人を始末する)
考えただけでも頭が痛くなりそうな計画であった。しかし自分はこれを何とかやり遂げねばならない。あえて目を逸らし続けている予測は血なまぐさく、想像しただけでも手から力が抜けるようだった。
剣の手入れをしながら、彼女は静かに目を閉じた。
そのとき、扉が叩かれる音がして、ユォノははっと顔を上げた。足早に廊下の方へと近づき、扉を開けると、扉の前にいた兵が怪訝な顔をして振り返った。訓練場に足を運んでいるうちに顔なじみになっていた彼らは、「いかがされましたか」と気安い口調でユォノに問う。
「今、扉を叩かなかったか? 誰か来客でも……」
ユォノが首を傾げると、二人の兵は顔を見合わせて不思議そうな顔をした。と、そのとき、同じく扉が叩かれる音が、今度は部屋の中からした。ユォノは慌てて振り返ったが、兵は納得したように頷いた。
「隣と続きの間ですからね」
「隣?」
ユォノは目を瞬いて聞き返す。兵は「来客があれば改めてお知らせ致しますので」と微笑み、部屋に戻るように促した。
不承不承、室内に戻り、そこで、ユォノは部屋の奥にもうひとつ扉があることに気がつく。あの方向は、隣の部屋のある壁である。そこでようやく続きの間という言葉を理解して、ユォノは小走りに扉へと飛びついた。
「ユォノどの?」
取っ手に触れようとした瞬間、向こうから声がして、ユォノは咄嗟に息を飲んだ。紛れもなくセオタスの声であった。
「はい、ここに」
考えるよりも早くそう答えてしまってから、彼女はすぐに後悔した。今はセオタスと顔を合わせたくなかった。
「いきなりごめんなさい。このままで構いません」
扉越しに聞こえるセオタスの声はくぐもっており、その言葉をはっきりと聞き取ろうと彼女は扉に耳を寄せる。
「まず始めに、……あなたを疑うような真似をしたことを詫びさせてください。口にするのも恥ずかしいことですが、正直、あのとき私は平静を欠いていました。そのせいであなたに辛い思いをさせました」
彼は扉に向かって語りかけているのだろう。多少のぎこちなさを残しつつも、その言葉は驚くほど全面的に自らの非を認めていて、ユォノは思わず息を飲んだ。違う、と頭を振ったが、扉を挟んだ状態では、そんな相手任せの否定が伝わるはずもない。
「ユォノどのが、私に踏み込んで欲しくない部分があるのも、当然のことです。思えばあなたは初めから言っていた。あまり干渉して欲しくないと言っておられた。それでも私を受け入れてくださったのは、ひとえにホルタのためでしたね。私はそこに甘えてしまった」
違う、とまた首を振る。全部違うのだ。
「どこまで行っても私はフェウセスの人間であり、あなたはホルタの人間です。歴史を変えることは叶いません。フェウセスによるトカットリア侵攻は決して消せない事実ですし、あなたの悲しみもなかったことにはならない。私は侵略者であり、あなたは被害者だ」
その言葉に僅かな違和感を覚え、彼女は眉をひそめた。とん、と扉に軽く拳が押し当てられるような振動が手に伝わる。セオタスが息をついたのが分かった。
「それでも、俺はあなたを信じたいし、信じてもらいたい。――ユォノどの、俺はただ一言だけでもあれば、何だってするんです」
どうか言ってください、そう囁かれた言葉を、ユォノは胸の内で何度も反芻した。口の中でその四音を転がす。今にも唇から零れ出そうだった。扉に触れた指先が木目を引っ掻きながら丸まる。ぎゅっと拳を握りしめたまま、彼女は深く項垂れた。
(……ユォノさまは、誰かに助けを乞うような女ではない)
強く凜々しく、そして聡明で公明正大だった主君のことを思い浮かべる。あの人なら、この場面でセオタスに助けを乞うたであろうか? 答えは考えるまでもなかった。
「……心配させて申し訳ない。私は大丈夫だ」
迷いを断ち切るようにそう告げた。持ったままだった剣の鞘を強く握る。――どうせ、明日で全てが終わる。
***
扉越しの会話は、ユォノからの拒絶で打ち切られた。セオタスは額を押さえ、椅子に深く腰掛けて項垂れた。
ここのところの彼女はおよそつかみ所がなく、頑なで、にべもない。この変貌の訳が掴めず、彼は重いため息と共に、リッチェルのもとから拝借してきた刻板の一つを目の高さに掲げた。
(人にそうと気取られぬように言葉を伝えるための文字、か……)
あれからリッチェルに捕まり、やや強引に始まった講義の内容によれば、この文字はトカットリア山脈にホルタ王国ができるより前から見られたものだという。それらは主要な街道の分かれ道にある木の幹や、余所者の侵入を拒むための罠に刻まれていた、らしい。
どうやら刻みの入れ方とその配置で発音記号を示しているらしいのだが、セオタスにはどれほど板と睨み合っても、その違いが区別できそうになかった。
(……目で見るのではなく、指で触れる文字、)
何かがちらりと脳裏で引っかかった。セオタスは眉をひそめつつ、刻みの入れられた板の側面を指先でなぞる。やはり心得のない文字など読み取ることなどできるものでもなく、どこからどこまでが一つの単語なのかさえも分からなかった。
それでも再度指を滑らせる。その指の動きに見覚えがある気がした。
脳裏で、稲妻のようにひとつの光景がひらめいた。
訓練場で、鍛錬に励む兵たちを眺めるようにして柵に寄りかかったユォノが、腕組みを解き、少年兵の背を一度叩き、その手を柵の上に下ろす。彼女はあのとき、一瞬だけ驚いたような顔をした。
指先が這わされる。柵の角をなぞるように、何度も、――彼女の人差し指は木組みの柵を、ひとつの方向に、動いていた。
セオタスは弾かれたように立ち上がり、開くことのなかった扉の方を振り返った。机の天板に両手をついたまま、彼は呆然とユォノの部屋の方を見つめる。まるで全力疾走したかのように息が上がっていた。
ユォノの方へ足が向きかけ、咄嗟に頭を振って思い直す。この分では、彼女に直接訊いても答えないだろう。
セオタスは部屋を出ると、部屋の前に立っていた兵を呼びつけた。
「リッチェル博士を呼んできてくれ」
「しかし、殿下、もう夜半でございます。博士は恐らくもう邸宅に帰られていると思いますが……使者を出しますか」
困惑気味に返されて、セオタスは軽く舌打ちをして頭を掻いた。あの老齢の博士を、夜中に叩き起こして宮殿に参内させるのは憚られる。
「明日の朝一番に、博士の研究室に行って……訓練場に来るよう伝えてくれ」
「承知致しました」
慇懃に一礼した兵に頷き、セオタスは嘆息して室内に戻った。何か、得体の知れない暗いもやのようなものが胸の内で渦巻いていた。
それは要するに、嫌な予感というものである。




