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少女は影に潜まない  作者: 冬至 春化
一章 亡国の姫君について
16/21

5.疑心 3



「あの少年兵、また来てたな。熱心に部屋を見上げてまあ……」

「寵姫に思いを寄せるほど不毛な恋ってのもないよなぁ」

 見回りから戻ってきた衛兵がそう言い交わしているのを聞くともなく聞きながら、セオタスは後宮への道を辿っていた。後宮の塀を回り込む通路は人気がなく、いつ通ってもしんとした空気が穏やかである。特にこの秋口は涼やかな気候が心地よく、散歩をするのにうってつけの小径となっていた。


 それが今日は、門に近づくほどに慌ただしく、殺気立った空気が漂っている。何かあったのかとセオタスが怪訝に眉をひそめたところで、前方から兵が走って近づいてきた。兵はセオタスの姿を認めると、「ただ今お呼びに向かおうと思っていたところでした」とただならぬ表情で告げる。

 その言葉に、何か事件が起きたことを察し、セオタスは顎に力を込めると黙って頷いた。




 椅子に麻縄で縛り付けられたまま、ユォノは深く俯いていた。膝や肩、頬までもが土に汚れ、乱暴に取り押さえられた様子が目に浮かぶ。その姿を目の当たりにし、セオタスは慄然と立ち竦んだ。数多の兵に囲まれたまま沈黙しているユォノの姿はあまりに物々しく、一瞬、近づくことさえ躊躇われるような重い空気が澱んでいる。


 椿の門に併設された詰所の中は、息もできぬほどに張り詰めていた。

「ああ、セオタス殿下」

 後宮の警備を任されている隊の隊長が、セオタスの訪れに気づいて振り返る。その声にユォノがぴくりと頭を上げかけたが、目が合うよりも先に彼女は再び顔を伏せた。

「ユォノさまが、後宮を脱走なさったので、規定に則り捕縛させて頂きました。多少手荒ではありますが、このような対処に……」

 寵姫を荒縄で縛っていることを咎められると思ったのだろう、隊長は早口に弁明のような言葉を並べたが、セオタスは「構わん」と手を振って黙らせた。



 それよりも、ユォノが後宮から脱走したという事実の方が、セオタスによほど大きな衝撃を与えていた。その事実を告げられただけで、心拍が一気に高鳴る。ざぁっと血の気が引く音がした。

「……ユォノどの」

 声を荒げて詰問するのを深呼吸で堪え、何とか優しい口調で声をかけたが、彼女は「申し訳ありません」と一言呟いただけで、顔を上げようとはしない。

「いきなりそのようなことをされるなど、何かありましたか」

 投げかける声に自然と険が混じるのをセオタスは自覚した。それを敏感に感じ取ったらしい、ユォノの肩がきゅっとすぼめられる。まるで怯えているかのような仕草に、正体も分からない怒りがこみ上げた。

「逃げたかったのですか?」

「違います、」


 ユォノが小さな声で首を振る。普段はきっちりと結われるか、丁寧に整えられて肩に流されている金髪が、今は見る影もなく砂埃を被り、秩序なく乱れてその顔を覆い隠していた。


 彼女の表情はおよそ読めず、セオタスは「顔を上げてください」とユォノの前に立ったまま押し殺した声で告げる。ユォノは動かなかった。その頭が再度左右に振られようとする気配を見て、セオタスは短く息を吸う。


「顔を、上げなさい」

 厳しく宣告すると、ユォノはようやくのろのろと頭を上げた。その頬に涙が伝っているのを見て、セオタスは少なからず狼狽する。きっと何か事情があるのだ。彼女に寄り添わねばならない。セオタスは「ユォノどの」と咄嗟に声を和らげ、膝をついて目線を合わせようとした。



 と、そのとき、背後から遠慮がちに「殿下」と隊長の声がする。

「ユォノさまが、こちらをお持ちになっていました」

 おずおずと手が伸ばされ、何か小さなものが手渡された。セオタスが目線を下ろしてそれを検めるよりも早く、ユォノが鋭く息を飲む。その顔が見る間に青ざめてゆくのを視界の端で認めながら、セオタスも自身が顔色を失ってゆくのを感じていた。指先が冷えてゆく。

 隊長に渡されたそれは、紛れもなくホルタで使われていた伝言手段――刻板に他ならなかった。


「……人払いを」

 振り返りもせずにセオタスはそう呟いた。波が引くように衛兵たちが詰所から出て行く。しん、と静まりかえった室内で、彼女ははらはらと声もなく涙を流していた。

 泣きたいのはこちらの方だ、とセオタスは内心で吐き捨てる。


「……ホルタを救うと、私はそう言いませんでしたか。私のやり方では納得頂けませんでしたか。私は信頼し、協力するに値しない人間でしたか。あなたにとって、私は裏切りの対象でしたか」

 訥々と告げる度、ユォノは黙って首を振る。その唇は歪められたまま、決して開こうとはしない。その理由は言われなくても分かった。口を開けば、嗚咽が漏れてしまうのを、必死に堪えている顔である。


 頑なに頭を振って否定するユォノを、セオタスはやるせなく見下ろした。

「違うのなら、どうして、私に黙って、ホルタの人間と密通をしていたのですか」

 再会して半年とは言えど、同じ目的の下に手を組み、互いに協力してやっていけると思っていた。牛歩ながらも、徐々に心を通わせている自覚もあった。それが、ここに来て、急に目の前でぴしゃりと扉を閉められた気分だ。


 苛々とセオタスは頭を掻き、荒く息をついた。刻板を見下ろし、その側面を指でなぞるが、そこにあるのは何の意味も見いだせない不規則な刻み跡だけである。セオタスにはちらりとも解せないそこに、ユォノが特別な意味を読み取り、なにがしかの感情を揺らすかと思うと酷く不愉快だった。

 思わず、縋るように問うていた。

「この刻板には、何と書いてあるのですか」

 目と鼻の先にそれを突きつけると、ユォノは幼子が嫌がるときにそうするように、顔を背け、ぎゅっと目を瞑る。その唇が戦慄きながら緩み、彼女は聞き苦しく言葉を途切れ途切れに跳ねさせながら、しかし確かに拒んだ。


「言え、ません……」


 その言葉に、側頭をがつんと殴られたような心地がした。声を失って見下ろすセオタスを前に、彼女は必死に浅い呼吸を繰り返しながら、俯き、弱々しく囁く。

「ごめんなさい、わたしには、言えません、」

 冷静になれ、と必死に自分に言い聞かせた。痛いほどに握りしめた拳を体の脇に垂らしたまま、セオタスは押し殺した声で問う。


「……いつか、話してくれますか」

「む、……むり、です。お許しください、お願いです、」

 これ以上いじめないで、とその唇が声を持たずに告げたようだった。



 ***


 耳の底で血液が激しく流れてゆくようだった。顔が熱く、息を整えることもできないまま、気持ちは高ぶり、意思に反した涙が彼女の目から溢れ続けていた。


『主君を殺して成り代わった気分はどうだ、アスラ』


 誰が送りつけたとも知れない刻板が語る。身震いするほどの恐怖だった。今にも叫び出して頭を抱え、自らの体を抱きすくめて蹲りたい衝動に駆られていた。

 無言で向けられるセオタスからの視線が、何よりも雄弁に失望と侮蔑を語っている。自然と顔がくしゃりと歪んだ。


「信じてください、お願いです、……わたしを信じてください、」

 後ろ手に腕を戒められたまま、彼女は震える唇で囁いた。セオタスの顔が苦渋に歪む。

 苦しいのはこちらの方だ、と内心で吐き捨てた。


「信じたいのはやまやまです、しかし……」

「私を、信じるに値しない人間と思っているのは、あなたの方だ」

 思わず強い口調でセオタスを詰っていた。裏切られた気持ちだった。彼の口ぶりからするに、前から自分は猜疑を向けられていたのだろう。火が触れたように鋭い怒りであった。ユォノに言われて、セオタスは図星を突かれたように押し黙る。



 二人はしばし睨み合った。互いが互いへの不信を剥き出しにし、探り合うような視線が無言で交わされる。

 先に目を逸らしたのはセオタスだった。目元を真っ赤にしたまま、眉間に深い皺を寄せて顔を背ける姿に、ユォノは思いのほか幼い面影を見た。


 セオタスは大股でユォノの背後に回ると、乱暴に縄の結び目を解いた。自由になった腕を前へ持ってきて手首を確かめていると、セオタスはその手を強く掴み上げる。

「……逆らわないでください」

 今にも切れてしまいそうに感情が張り詰めているのに、弱々しい響きをした声だった。ユォノの手を握りしめたまま、セオタスはそれ以上何も言わないままに歩き出す。詰所の外、少し離れた位置で控えていた兵が驚いたような顔をしてこちらを見ていた。セオタスがちらと振り返って声をかける。

「この件は俺が預かっておく」

「かしこまりました」


 有り難いと言わんばかりに頭を下げた兵の横で、まだ若い顔をした兵が興味ありげにこちらの様子を窺っていた。

「なあ、これって痴話喧嘩かなぁ」

「馬鹿、声がでけぇんだよ」

「痛っ」

 同僚に容赦なく頭を叩かれている兵を見ながら、彼女は思わずくすりと笑ってしまった。と、それを聞きつけたようにセオタスが肩越しに振り返ってくる。視線がかち合い、ユォノは慌てて顔を伏せた。少ししてセオタスが嘆息するのを聞き、彼女は更に深く項垂れた。



 手を引かれるので仕方なしについていくと、どうやら行き先はセオタスの自室らしい。人通りの多い廊下を、好奇の目に晒されたまま歩く。この中に、刻板を送りつけてくる犯人がいるかもしれない。そう思うと途端に恐怖が襲い、ユォノは背筋を凍らせたまま身震いした。


 言いつけてあったのか、道中で合流したオリウは、二人の間に漂った異様な空気に驚いて目を丸くする。

「どうされましたか、殿下」

「ユォノどのが後宮から抜け出そうとされた。監視下に置くにも、後宮内に兵を踏み込ませることができないから手元に置こうと思う」

 淡々と語るセオタスを、オリウは並んで歩きながらまじまじと眺めているらしい。その目が数度、ユォノとセオタスを行き来した。


 オリウは歩く速度を少し緩め、今度はユォノに並んで身を屈めて声を潜める。

「……今の話は本当ですか」

「はい」

 ユォノはおずおずと頷いた。オリウは「ふむ」と顎を撫でる。

「何でわざわざユォノどのに確認を取るんだ」

 セオタスは不快そうに眉をしかめた。オリウは平然とした態度で応じる。

「双方から意見を聞くことが大切ですから」

 ここで、セオタスもオリウがかつての意趣返しをしていると気づいたらしい。歩みは止めないままに振り返り、オリウを鋭く睨みつける。


「何のつもりだ。ふざけているなら」

「ふざけているのは殿下の方でしょう」

 セオタスの睥睨をごく平然と受け止めて、オリウは緩く目を細めた。

「こんなに酷く泣いている女性の手を、乱暴に引いて歩くような男に育てた覚えはありませんよ」

 言われて初めて、セオタスはユォノがひっきりなしにしゃくり上げていることに気づいたらしい。はたと足を止め、ユォノを振り返って言葉を失う。


 オリウはユォノの体をまじまじと見下ろし、一度息を吐いた。

「先程から歩き方が変だと思えば、足首も腫れておられる。捻りましたか」

「取り押さえられた際に、少しだけ……」

 早く言え、とばかりにセオタスが目を剥くので、ユォノは肩口に顔を寄せるようにして俯き、視線から逃げる。「言えなくしたのは殿下ですよ」とオリウが一言言った。少しの沈黙が降りる。


「……申し訳なかった」

 セオタスはぎこちなく言うと、ユォノの顔を覗き込んだ。

「痛かったですか」

 慌てて首を横に振るが、セオタスはそれを信じるつもりはないらしい。一度きまり悪そうに周囲を見回し、頬を掻き、少し息を吐くと、黙ってユォノに背を向けて身を屈めた。乗れ、と言いたいらしい。


「あ、いや、そんな」

 咄嗟に後ずさりで遠慮するが、彼もまた譲るつもりはないらしい。奇妙な構図が数秒の間続き、結局折れたのはユォノの方であった。

「ごめんなさい」

 もごもごと口の中で呟きながら、ユォノは大人しく背負われる。両足が宙に浮き、妙な気分である。おずおずと目の前の肩に掴まりながら、彼女は背中に顔を伏せた。



 体の下で、律動的に動く筋肉の感触を布越しに感じながら、彼女はぼんやりと考えた。セオタスが自分で動き、思考する生き物であることを初めて実感した気がした。

 オリウが何事か手配するために離れてゆく。その背中を黙って見送り、しばしの沈黙の中で今日のことを反芻する。

「……セオタスどの」

 小声で呟くと、彼は歩みを緩めないまま、「はい」と応じた。ユォノは長く息を吐こうとして、目の前に見慣れない首筋があるので思い直した。顔を避け、小さく嘆息する。

「取り乱して、申し訳なかった」

 ぽつり、まるで水滴がひとしずくだけ滴り落ちたように、小さく、心許ない声であった。


「刻板は、あれは、ただ……手慰みに、自分で彫ったんだ。言葉を忘れてしまわぬようにと……」

 大嘘であった。しかしセオタスは否定せず、黙ってユォノの言葉を聞いている。顔が見えずとも、真摯な態度で話を聞き止めているであろうセオタスを思うと、息をするように嘘をつくことに一抹の罪悪感を覚えた。

「私は、貴殿を信頼しているし、同じ目的を持った同志であると理解している。どうか覚えておいて欲しい。私は常に祖国のために動いていて、そこに決して嘘偽りはないんだ。そのために私は貴殿と共に歩んでゆく心づもりであるし、貴殿に信頼されたいと思っている」

 居住区に入ったのか、廊下はいつしか人気のない一本道となっていた。顔を上げ、その先をじっと見据えながら、ユォノはあくまで静かな声で囁く。


「だが、私にも、踏み込まれたくない部分というものがある。セオタスどのにもそうした部分があるだろう。……どうか、そこを尊重してもらうことはできまいか」


 セオタスは答えなかった。ただ、黙ったまま、彼も遠くを見やっているようであった。



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