追憶 毒杯
王女様の影武者であるところのわたしは、彼女と共に見知らぬ楼閣に幽閉され、ふたつ並べられた杯を前に困り果てた。ふたつにひとつは死に至る毒の入った盃。ふたりにひとりは命を落とさねばならない。
窓の外には細い月が冴え冴えと浮かんでおり、手元を照らすのは小ぶりな燭台ひとつきりである。揺らめく灯火を受けて、わたしたちの影が壁の上に怪しく踊った。
どうやら相手はわたしと王女の見分けがついていないらしい。影武者なら毒杯を選ぶと踏んだのだろうが、馬鹿な私にはそれを判断できなかった。隣のあるじは静かな顔で沈思している。
彼女が物思いに耽り、そして双眸をもたげるまで、それはほんの数秒のことであった。
「私はこちらを選びます」
あるじは凜と告げ、漆塗りの杯を手に取る。わたしはその横顔に真に迫った決意を認めた。息を飲む。
――あるじは、死ぬ気だ。わたしの背を鋭い恐怖が襲った。
「お前、影武者の分際で、今さら命が惜しくなったの?」
咄嗟に、彼女なら決して言わないような言葉で、その手から杯を奪い取っていた。一呼吸にも満たないような一瞬、わたしたちの視線は重なった。あるじは深い思慮を湛えた眼差しでわたしを見つめると、瞼を伏せ、黙ってもう一つの杯を取り上げた。わたしはあるじから取り上げた杯を見下ろし、弧を描いて揺れる液面に思いを馳せた。
これで、我が主君の命を救うことができる。そのために己が命を投げ出すことなど造作もない。どこか粛然としたような心持ちだった。手の届かぬ僻遠で、形にならぬ淋しさが霞のように揺蕩っていた。いつかそのときが来ると思っていたけれど、こうも澄み切った思いで毒を口に運ぶことになるとは思ってもいなかった。
恐ろしさは腹の底で静かにわだかまっていた。そこにあるのは、愛したあるじを一人で残すことの悲しみばかりだった。腹は据わっていた。
果たして同時に杯を干せば、頽れたのは傍らのあるじであった。わたしは息を飲み、吐血して苦しげに喘ぐ彼女を見下ろした。わたしは訳も分からずに、空の杯を取り落とした。数度床に跳ね、半円を描いて転がってゆく杯を横目で一瞥する。
「元気でね」
驚くほどに残酷な言葉を残して、わたしの主君は息絶えた。
かくして人質となったわたしは、姫君として今も生きさらばえている。しかし、王城に送り返された『影武者』の遺体を見れば、陛下はすぐに全てを理解するはずだ。わたしを人質としたフェウセスの言葉にホルタは応じない。自発的な降伏を目論んだフェウセスの企ては失敗に終わる。
それは命と引き換えに下された、明確な命令であった。
――決して降伏をするな。最後までホルタを守り抜け。敵の喉元へ食らいつけ。
ユォノさまは聡明なひとであった。どちらが毒杯であったか分からなかったはずがない。きっと、あの数秒の逡巡のうちに全てを見越していたのだろう。愚かなわたしがあなたを庇おうとすることも、残されたわたしに手を差し伸べる者など、誰一人として存在しないことさえも。
それでもあなたは最期に命じた。影武者が死に、そこに残された王女に対して、あなたはただ一言命じたのである。だからわたしは何としてでも生き延びねばならない。
わたしは決して、あなたの名を汚させやしない。




