4.流転 上
「その、ユォノさま、ひとつ頼まれて頂けないでしょうか」
「ん?」
オリウに呼び止められ、ユォノは眉を上げて振り返った。見れば、この大男はまた顔を真っ赤にして……もはやどす黒いと言っても良いような顔色をしながら、今にも倒れそうに立ち尽くしている。その手が差し出されているので、視線を向けてみると、そこにはオリウにはおよそ似つかわしくないような淡い色の書簡がある。
「オリウ将軍、これは?」
妙に長い沈黙に痺れを切らすと、オリウはもごもごも口の中で何やら言い籠もり、それから唸るように答えた。
「りゅ……リュシア嬢に、渡して頂きたく」
「…………なるほど!」
ユォノはすぐさま合点して頷く。道理で人目を忍ぶように、こそこそと怪しくしていたわけだ。
「セオタスどのとは仲直りしたのか?」
くすりと笑って、ユォノはオリウに揶揄するような目を向けた。オリウは恥じ入るように目を逸らす。
「もう、仲直りなどという儀式をするような歳ではありませんので。ですが、まあ……少し話し合いはしました。殿下も私のことを考えてのお言葉だったと分かりましたし、私も少し頭に血が上っていたようです。ご心配をおかけしました」
「そうか、よかった」
目元を綻ばせながら、ユォノはオリウの手から書簡を受け取り、――そのずしりとした重みに仰天した。改めて見てみれば、一体どれだけの便箋を詰め込んだのやら、封筒はぱんぱんに膨らみ、透かさなくても細かな文字でびっしりと言葉が綴られているのが分かる。
「オリウ将軍、これは……恋文か?」
「ああいや、どちらかと言えば……謝罪文かと」
「どちらにせよ圧が凄い」
ユォノは呆れ果てながらも、書簡を懐にしまった。布の上からぽんと叩き、胸を張って微笑む。
「リュシアどのへの手紙、しかと承った」
「その手紙に色事めいた文言はありませんが、それでも王の寵姫に密書を送ったと公になれば一大事です。くれぐれも内密にお願い致します」
「任せておけ、バレるものか。これでも私はな、後宮内では全然他人と話をしないんだぞ。何故って、親しい相手がいないんだ」
「反応に困ることを仰らないでください」
オリウに窘められて、ユォノはひょいと肩を竦めた。
そのとき、ふっとオリウが表情を和らげ、ユォノを穏やかな表情で見下ろした。
「ユォノさまが、殿下に助言してくださったと聞いています。リュシア嬢とのことも、貴女がいなければ終ぞ始まることのなかった話題です」
おもむろに柔らかくなった声音に、ユォノは虚を突かれて眉を開く。オリウは初対面の握手で手を握りつぶしてきたのが嘘のように、親愛の籠もった笑顔で告げた。
「――ありがとうございます、ユォノさま」
その言葉に、じわじわと感慨がこみ上げるような気がして、ユォノは気づけば頬を紅潮させて破顔していた。腹の前で指を絡ませ、ユォノは努めて平然とした態度を取り繕う。
「礼には及ばない」と涼しい顔で言った……つもりだったが、オリウが笑いを噛み殺している様子を見るに、どうやらあまり上手くいっていなかったらしい。
懐にリュシアへの親書を隠したまま、ユォノはしれっとした態度で門番の脇をすり抜け、後宮へと足を踏み入れる。いつも通り、顔を出した瞬間にしぃんと静まりかえる、何とも気詰まりな空間である。
それが、今日はやや事態が変わってきつつあった。
「ユォノさま! お久しぶりでございます」
自室に続く廊下を足早に歩き始めた直後、横から快活な調子で呼び止められる。ユォノは目を丸くして振り返り、そこにいた女の姿を認めて表情を緩めた。後宮に乱入してきた甥に連れられて、後宮を一旦出ていたはずのエイナである。
早足で駆け寄ってきたエイナを待ち、ユォノは相好を崩した。
「エイナどの……戻ってきていたのですか」
「ああ、敬称も敬語も必要ありませんわ」
首を振って、エイナはユォノの前で軽く膝を折って礼をする。「昨日の夕方頃に戻って参りました。妹の葬儀や様々な片付けも終わって、ようやく落ち着いたところです」
その言葉に、ユォノは咄嗟に息が詰まった。何気なく告げられた人の死に、かける言葉を捕らえ損ねて喉が狭まる。
ようやっと出てきた声は、妙にぎこちなかった。
「……ザーシェは、元気だろうか?」
「元気すぎて困るくらいですわ。父親に特大の拳骨を食らって大暴れしておりました」
まるで咳をするような仕草で口元に握りこぶしを当て、エイナはくすくすと笑う。そこに悲嘆や憔悴の色がないのを見て取って、ユォノはおずおずと肩の力を抜く。彼女自身が気丈に振る舞っているのなら、そこにユォノが口を挟む余地はない。
「律儀に挨拶に来て頂かなくたってよろしいのに」
「そうはいきませんわ。私、ユォノさまに御礼申し上げたくて仕方なかったんですもの」
三十路絡みの女のはずだったが、ころころと表情を変えて喋る様子はまるで少女のようである。母と言うには若すぎるが、姉と見るには歳が離れすぎている。微妙な年の差が開いた女を眺めながら、ユォノは指先で頬を掻いた。
「しかし、あまり私と喋っていては……余計な角が立つこともおありだろう」
「あらそんなこと、ちっとも気にしませんわ。もう小娘でもありませんし」
躊躇いがちに口にした危惧をからりと笑い飛ばし、エイナは胸を張る。そしておもむろに膝を折り、エイナはユォノの前に跪いた。
「――ユォノさまは現在、身の回りのことを世話なさる方がおられないようにお見受け致します。もしよろしければ、このエイナめをお側に置いては頂けないでしょうか」
予期せぬ申し出に、ユォノは驚いてしばし思考を停止させた。敬意を露わに膝をついたエイナを見下ろし、言葉を失って立ち尽くす。黙ったままのユォノをちらと見上げ、エイナが「駄目でしょうか……?」と眦を下げる。ユォノは咄嗟に「駄目ではない、」と頭を振っていた。
するとエイナは決して聞き逃さずにすぐさま立ち上がり、ユォノと目線を合わせて破顔する。「誠心誠意お仕えさせて頂きます」と告げたその笑顔に、今更この申し出をなかったことにはできないことを悟る。
……どちらにせよ、一人で身支度や、あの広い部屋の掃除をするのも大変になってきた頃である。ユォノは息を漏らして苦笑し、エイナに向かって頷いた。
「ありがとう。これからよろしく――エイナ」
「はい、ユォノさま」
にこり、と明るい表情で応じたエイナに、ユォノは小さく微笑んだ。
***
リュシアの部屋を訪ねるのは初めてのことだった。扉を叩くと、程なくして胡乱げな顔をしたリュシアが顔を出す。
「リュシアどの、内密に話があるのだが、中に入れて頂けないだろうか」
懐に入っている書簡の存在を感じながら、ユォノは穏やかな口調でリュシアに声をかけた。が、しかし、リュシアはそこに何やら不穏な匂いを感じ取ったらしい。「厄介ごとはごめんだわ」と眉をひそめて嫌そうな顔をしてしまう。
ユォノは慌ててリュシアの袖を掴み、その耳元に口を寄せて囁いた。
「オリウ将軍からの手紙だ」
「……!」
たった一言告げただけなのに、リュシアの反応は激烈だった。その目が驚愕に見開かれ、絶句して立ち尽くす。その表情の変化が案外面白いので、ユォノはにやにやと薄ら笑いを浮かべたまま、黙ってリュシアを眺めた。
「何をちんたらしているのよ! 早く入りなさい」
と、リュシアの腕がにゅっと扉の隙間から突き出て、ユォノの腕を強く掴む。引きずられるようにしてリュシアの部屋に転がり込んで。ユォノは思わず苦笑した。
リュシアはぱたんと扉を閉じると、その場でへなへなと座り込む。袖を掴まれたままのユォノも、つられて床に膝をついた。目線の高さを合わせ、リュシアは血相を変えてユォノの肩に掴みかかる。
「どういうこと? あなた、自分が何をしているか分かっているの?」
「……私がどの程度のことをリュシアどのに語って良いのか、自分では判断しかねる」
言って、ユォノは懐から、オリウの手紙を取り出した。これまでの様子から、ひったくるように奪うかと思いきや、リュシアは差し出された書簡を呆然と見据えたまま、浅い呼吸を繰り返している。その両目の奥に、瞬くような逡巡が絶えず閃いた。
ややあって、リュシアは低く潜めた声で囁く。
「あなた、私とオリウさまのことを、どれだけ知っているの」
「オリウ将軍は、リュシアどののお父上を、深く恩義を感じている師であると言っていた。リュシアどののことも、恩師のご令嬢として、あるいは可愛らしい妹君のように思って慈しんでおられたようだ」
そこで言い淀んだユォノに、リュシアは厳しい眼差しを向けた。続きを、と言外に要求する視線に、ユォノは腹をくくって口を開く。
「オリウ将軍が語っていたのは、その……行軍にて、お父上を、見殺しにしたと。リュシアどのが前に語ってくれたことと合わせて考えれば、ホルタへの侵攻の際だろう。しんがりを申し出たお父上に対し、オリウ将軍はそれを受け入れた」
リュシアにとっては決して愉快な話題ではないだろうに、彼女は一瞬痛みを堪えるような顔をしただけで、それに対して何かを言うではなかった。不服そうに小鼻を膨らませ、腕を組む。
「……まあ、間違いは含まれていないようね」
「その引っかかりのある言い方は一体……」
ユォノが怪訝に眉根を寄せると、リュシアはあからさまに顔を背け、「床で話をするのもなんだし」と立ち上がった。そこに逃げ腰の気配を見て取り、ユォノはぴくりと眉を動かす。
「リュシアどの、何かおありならば、私に教えて――」
「何もないわ」
リュシアはどすんと椅子に腰掛けた。断固とした口調で、腕と足を組み、決して口を割るものかと唇を引き結んでいる。
「リュシアどの。隠し事をするのは」
「何もないわよ」
「リュ」
「何もないって言ってるじゃない!」
「そんなに強固に隠されては私だって困るというもの、この件はセオタスどのからも……」
ユォノが困り果てて歩み寄ると、リュシアは胸の前で腕組みをしたまま、憮然と鼻に皺を寄せた。口を開いては一旦閉じ、もじもじと唇を尖らせては一文字に結び、腕を解いたかと思えば机の天板に拳を乗せ、落ち着きなく足を組み替える。徐々にその頬に赤みがさすのを眺めながら、ユォノは首を傾げた。リュシアがこうも頑なに口を割らないのだから、余程の秘密があるのかと思ったが、これはむしろ……。
「……ご、五歳のときに」
「…………ふむ?」
リュシアは憤懣やるかたないとばかりに肩を戦慄かせ、わなわなと拳を振るわせながら、ぎゅっと目を瞑って俯いた。色白の頬が、今はまるで熟れた林檎か秋の楓のようである。ここまでくれば、続く言葉の方向性にもおおよそ想像がつくというものだ。ユォノはうつろな目をして、話半分に相槌を打つ。
「……私、オリウさまに、きゅ、求婚したのよっ! オリウさまはそれを受け入れてくださったの。一番重要なことだわ!」
「は?」
「オリウさま、あなたにそのことを言わなかったの!?」
「はぁ……」
恥ずかしさが限界を超えたらしい。目尻に涙を浮かべながら、リュシアがユォノの両肩を鷲掴みにして前後に揺さぶる。されるがままになりながら、ユォノは聞こえよがしに嘆息した。五歳の少女の求婚とはたかが知れている。しかし、後宮に入れられてもなお、そんな思い出を後生大事に抱えているリュシアを思えば、流石に鼻で笑い飛ばすのは憚られた。
「ともかく、私はただの伝書鳩だ。リュシアどのが知りたいことは、この分厚い書簡にあるだろう。オリウ将軍は生真面目な方だから、私よりよほど丁寧に説明してくださるに違いない」
妙な疲労感に襲われながら、ユォノは今一度、封筒をリュシアの眼前に突き出す。鼻先にオリウの手跡を突きつけられ、リュシアがぐっと押し黙った。その手がおずおずと持ち上がり、そっと、封筒を掌で受け止める。その重みが彼女の手に加わったのが分かった。
「それでは、私はこれで」
手紙を読むのに、人の目があっては差し障りもあるだろう。そう思って立ち去ろうとしたユォノの背に、「待って」と弱々しい声がかかった。その声にユォノは一瞬の間を置いて、ため息交じりに苦笑する。何も言わずに隣に腰掛けると、リュシアはばつが悪そうに顔を伏せた。
途中からリュシアが鼻をすすっていることには気づいていたが、ユォノは努めてそれに気づかないふりをした。ちらと横目で手紙を見やれば、どうやら謝罪の言葉が並べられているらしい。
ユォノはふいと顔を逸らし、窓の外の庭園を見やった。伝え聞いているだけのリュシアとオリウの事情を反芻する。これは二人の問題であり、ユォノはもちろん、セオタスでさえ介入することのできない領域の話である。
(……既にこの世にいない人間をよすがに心を触れ合わせることは、苦しくはないのだろうか)
失われた人を共に胸に抱いている両者ならば、どうしたってそのひとのことが会話に上らざるを得ないだろう。それともあるいは触れてはならぬ禁忌として、常にわだかまりとして絡み続けるだろう。ずっと意識から離れることはないだろう。それは過去に囚われているのと同じではないのか。
(それでも共にありたいと思うことが、思慕というものなのだろうか)
ユォノは茫洋とした眼差しで、徐々に傾いてゆく陽を黙って見送っていた。
(それとも、いつか、すべて忘れてしまうのだろうか。それが前を向いて歩き出すということなのだろうか。もしそうなら、わたしは……)
意識が知らずに流れてゆき、着地しようとしたところで、リュシアが便箋を畳み、封筒にしまった。その目は真っ赤で、睫毛の先で雫がふるふると震えている。きゅっと顎に皺を寄せ、リュシアは唇を噛んだ。
「……また今度、返信の書簡を頼めるかしら」
しばしの沈黙ののち、リュシアは小さな声で囁く。ユォノは「もちろん」と頷くだけに留めた。話はこれで終いか、と腰を浮かせかけたユォノを見上げて、リュシアは痛ましげに目を細めた。
「ユォノ……さん」
つける敬称を決めあぐねたように、リュシアはぎこちなくそう言う。しかし、どうもしっくり来なかったらしい。口の中で何やら言葉を転がしながら少し首を傾げたが、途中で諦めてユォノに向き直る。
「あなたは、殿下と一緒に、何かをしようとしているのね?」
オリウの手紙にはある程度の事情が書かれていたのだろう。ユォノは薄らと唇の端を持ち上げ、肯定も否定もせずに目を細めた。
「……危ないことなの?」
「容易い道ではありますまい」
端的に答えたユォノに、リュシアは眉を曇らせる。続いて言葉を投げかけようとするように口を開きかけ、結局やめた。
「……私が、口出しすることじゃ、ないわね」
項垂れ、小さく頭を振って呟く。その表情に諦念のようなものが浮かんでいるのを黙って見下ろしながら、ユォノはゆっくりと一度瞬きをした。
「リュシアどのがいることで……私は、この後宮で、前よりは上手に息が吸えているように思う」
「そう」
リュシアの応えは素っ気なかったが、次いで振り返った彼女が意地悪そうに頬を吊り上げているのを見て、ユォノは面食らった。ひょいとその手が伸ばされ、頬を摘ままれる。
「――調子に乗るんじゃないわよ。あなたが後宮の外でどんなに活躍してたって、ここではあなたはまだまだ新参者で、私の方が先輩なんだからね」
「りゅひあどの、手をはなひてくれ」
文句を言うと、リュシアはぱっと指を放して、常のごとく不敵な笑みで鼻を鳴らした。
「まあ、やりたいようにやれば良いのではなくて? 外で何をしていたって私の知ったことではないわ。誰が何と言おうと、私はあなたのことを、ただの小生意気でいけすかない後輩としか思わないもの。ここでのあなたは、ただの小娘よ」
ぷす、とリュシアの人差し指の腹が頬に突き刺さる。綺麗に整えられた指先が数度ユォノの頬を突いた。ユォノは思わず相好を崩した。
「ありがとう、リュシアどの」
零れるようにそう言うと、彼女は微笑み、「あら嫌だわ、何を勘違いしているのかしら」と髪を払って肩を竦める。
「それはこっちの台詞よ」
額を軽く弾かれて、ユォノは大げさにたたらを踏んだ。リュシアの吊り目がちの両目が愉快そうに緩まる。
「――ありがとね、ユォノ」
ユォノはついうっかり頬を染め、はにかみながら頷いた。