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少女は影に潜まない  作者: 冬至 春化
一章 亡国の姫君について
1/21

1.谷底 上



 祖国に見捨てられた王女として、その少女は敵国の城へと護送された。百を超える寵姫を囲う王の妻の一人として入城した彼女は、老齢に差し掛かった王の相手をするにはあまりに若すぎ、そしてあまりに鋭すぎる目をしていた。


「侍女を殺してまで生き残っておきながら、実の父に見捨てられたんだそうよ」

「あら、まあ。血も涙もない方なのね」

「かつては神童と名高い方でしたのに、祖国も失い、こうして後宮に一人でいらっしゃるなんて、お可哀想な姫君だわ」

 紅を引いた美しい唇の上を、真偽も定かでない噂話が駆けてゆく。朱塗りの柱によって支えられた張り出しの上から、女たちは花の盛りを迎えた中庭を見下ろした。



 中庭の中央には、一面に敷かれた白砂の上に片膝をつき、見慣れぬ装束を身につけた少女がただ一人で佇んでいる。乾いた金髪をきつく結い上げ、その少女は細い顎に力を込めて背を伸ばしていた。

「私の名はユォノ。トカットリア山脈の第一峰中腹の都、ホルタより参った」

 ユォノ、と自らを称した彼女は、ややぎこちないながらも十分に流暢な様子で名乗りを上げた。その声は後宮に棲む女たちの囁き声とは異なり、周囲の空気をぴんと張り詰めさせ、震わすような強さを持っている。

 声の鋭さといい、名乗り方といい、その厳しい眼差しといい、彼女にはおよそ、亡国の姫君らしいしおらしさはない。むしろ傲岸と言っても良いほどの威圧を放っていた。無作法な、と女たちは眉をひそめる。物見遊山に顔を出した女たちで、張り出しは超満員となっていた。


「あい分かった、ユォノどの」

 少女の目線の先、中庭に向かって観音開きに開け放たれた扉の向こうで、青年が短く頷く。長い黒髪を一つに結って胸元に流している優男で、その表情は柔和に微笑んでいた。

「王子殿下は相も変わらずお美しいわねぇ」

 張り出しの上で女が呟くと、別の女が「やめときな」と嘲笑を漏らした。張り出しの上で、しばし抑えた哄笑がさざめいた。

「あれは顔だけのぼんくらだからね」

「顔だけじゃないわよ。とても『お優しい』のだって聞いたわ」

「それだけの男なんでしょう? 父親とは似ても似つかぬ凡庸の無能だって」

 ついに堪えきれなくなったのか、一人が噴き出す。「ちょっと、やめなさいよ」と諫める気もない制止が入るが、それでももう嘲笑は抑えきれなかった。当然、中庭や階下にまでその気配は伝わる。


 ぴくり、と、ユォノが顔を上げ、張り出しを一瞥した。それから眼前の青年に視線を寄越し、哄笑の対象を理解したように目を眇める。王子ともあろう人が、こうも言われっぱなしで良いのだろうか。

 ユォノのもの言いたげな目に、しかし青年は曖昧な笑みで誤魔化すように首を傾げた。まさか女たちの声が聞こえていないわけでもあるまい。それでも彼は困ったような微笑みを浮かべるばかりで、数秒の躊躇いののち、おずおずとユォノに声をかけた。



「……ユォノどのは、かつて私の婚約者でありましたね」

「そのような昔もございました」

 囁かれた言葉はごく小さく、階上の女たちに聞こえぬように声を潜めているのが分かった。ユォノは表情一つ変えずに応じたが、青年は嬉しそうに目を細めて言葉を続ける。


「何の因果か、我らは一度は対立し、分かたれた。ですがこうして、形は違えど再び相まみえることができました。ユォノどのは我が父上の妻となり、私はさしずめあなたの息子でしょうが、どうぞ幼き頃の絆を殊更に忘れることなく、よき友人となれることを願っています」

 その言葉に、ユォノは唸るように応じた。


「……私が、祖国を滅ぼした国の嗣子と『よき友人』になれるとお思いか」

「思っていますよ。……あなたがそうと望むのならね」


 王子はゆっくりと腰を上げ、ユォノの元へと歩み寄った。彼がこうした場面で立ち上がり、地面に降りることは非常に珍しかった。女たちは口々に驚きを表し、目を丸くする。

 青年は跪いたまま睨み上げてくるユォノを見下ろすと、腰を屈め、その目の奥をじっと見据えて低く囁いた。

「……私の名前をまだ覚えておられるだろうか?」

 少女はただ無言で、唇を頑なに引き結んだまま青年を見上げる。彼女の表情からは感情というものがおよそ読み取れず、気がかりな沈黙がその場に落ちた。ややあって、彼女は視線を避けるように顔を伏せ、小さな声で囁く。


「わたしは、あなたの名前を覚えていたことなどありません。――ただの一度として」

 それが答えだった。青年は黙って笑みを深め、手振りでユォノに顔を上げさせた。再度、顎をもたげて首を反らした彼女に、彼は静かに囁いた。


「私の名はセオタス。……次はお忘れなきよう」

「心に刻んでおこう、セオタスどの。今度は忘れられそうにない」

 刹那、交された視線は、睨み合いとしか表現できないような代物だった。



 ***


 栄華を誇るフェウセス王国にて、贅に飽いた王が次に目を付けたのは、国土拡大にあたる領土侵攻であった。王は軍に命じ、隊を組織して周辺諸国へと攻め入ることを繰り返した。


 数多の小国を掌中に収めた王は、それでも飽き足らず、ついに西方に位置する広大な山岳国家――ホルタへと手を伸ばす。しかし、大陸随一の軍隊をもってしても、険しい崖を鹿に乗って自在に駆ける山の民を征服するのは容易ではない。互いに大いなる損失を与えつつ、戦乱は幾年に渡って長引き、――結果として辛くも勝利したのはフェウセス王であった。


 その戦乱のさなか、人質としてホルタ王女は敵の手に落ちた。斥候の咄嗟の機転による大手柄だった。王女の命と引き換えに降伏を要求し、これ以上の被害を避けるためにとフェウセス軍の参謀が仕立て上げた落としどころであったが、山岳の王はそれを棄却した。自らの娘を見捨ててまでも誇りを貫き、王はあくまで抵抗することを選んだ。この戦の幕引き、彼は臣下と共に討ち取られたという。



 そうして、人質として囚われていた王女は行き場を失い、王の命により敵国であったフェウセスの後宮へと引き取られることとなった。もとより後宮は王の寵を得た女たちの住処であると同時に、王の権勢や富を顕示するために築かれた女の園である。長きに渡る戦の末に制圧した山の王国――ホルタの王女を囲うことは、掌握を誇るためのこの上ない証ともいえた。


 そんなわけで、ユォノからしてみればこれは、祖国を滅ぼされた上、敵国の王のもとに嫁がされ、女たちの中で針のむしろに座らされるという、筆舌に尽くしがたい屈辱をいくつも重ねて味わわされる地獄なのであった。

 彼女は窓際に力なくもたれかかったまま、重いため息をつく。国内から徴収された娘たちとは違い、彼女に任期といったものはない。先の見えない境遇に早くも嫌気が差していた。

(老いて後宮から放り出されるか、何か理由を付けて下賜されるか……どちらにせよ自力でここから出るのが叶わないのは間違いない)


 着せられた衣装は馴染みのない縫製で、たっぷりと布地を重ね、歩けば裾が軽やかにたなびくような華やかな着物である。山岳で生まれ、岩肌を鹿や山羊と共に駆けて育ったユォノにとっては、あまりに煩わしい形をしている。が、しかし、どうせここでは灌木を飛び越す必要はないのだし、茂みの中をかき分ける必要もない。変に我を通して角が立つのもよくない。

(だってこれから先、ずっとここに囚われたまま生きていくのだろうから)


 諦念に目を閉じ、彼女はゆっくりと息を吐いた。生家より攫われ、戦が終わるまで長いこと楼閣に閉じ込められている間に、『人質』としての作法も学んだというものである。騒がず、目立たず、ただ息を殺して時間が過ぎるのを待てばよい。手が差しのばされないと分かっているなら足掻く必要もない。

 特にこれから先は果てもなく囚われ続けるのだ。願いも祈りも残ってはおらず、ただ無為に時を持て余すしか、やることはなかった。

(この後宮を追い出されたら、もうどこでも生きてはいけないだろうし)

 帰るべき祖国は失った。数少ない生き残りも、もはや彼女を受け入れることはないだろう。



 そのとき、扉の枠が軽快に叩かれ、ユォノは腕を組んだまま目線だけをよこした。はたして、通路から顔を覗かせたのは長い黒髪を結った長身の男である。朗らかに声がかかる。

「ご機嫌よう、ユォノどの」

「久しくないな、セオタスどの」

 ユォノが嫌味を込めて投げかければ、「一昨日ぶりです」とセオタスはまるで悪びれた様子もなく微笑んだ。ユォノは頑なに眉根を寄せ、窓枠に手をついて立ち上がる。

「……仮にもお父上の後宮に、そう足繁く通うのは如何かと思うが。それも、かつて縁のあった女の元に三日と置かず訪れては、痛くもない腹を探られることでしょう」


 セオタスはゆるりと首を傾げた。その顔には、どこか気遣わしげな微笑が浮かんでいる。

「私が親しい友人のもとへ歓談しに来ては悪いのでしょうか」

「殿下にもの申せる立場ではありませんゆえ、私からは何とも。……少なくとも私たちが男と女であることに変わりはない」

 強い口調で言い返せば、セオタスは一瞬だけ悄然と眦を下げた。

「変わってしまわれましたね。私はそのような些末を気にしませんし……あなたも、そんなことを気にする人ではなかったのに」

「それも流転というものでしょう」

 迂遠な会話に苛立ちを募らせながら、ユォノは差し出された手を無視してセオタスの横を素通りし、通路へと歩み出た。まさか人の目の届かない個室で相手をするはずがない。



 ユォノが入城し、後宮に入ってからというものの、王は一度も姿を見せず、足を踏み入れる男と言えば宦官か、この王子ばかり――それも、毎度ユォノのもとを訪れる。こんな日々が三度も続けば、流石にこのセオタスが自分に執心していることに気づくというものである。

 初めてここに来てセオタスに面会したときの、女たちの嘲笑う言葉の意味を、ユォノは早くも理解しつつあった。非常に『お優しい』。自らの立場も弁えず、ユォノに対して親しげに振る舞う態度は、この後宮で波風立てずに身を潜めたい彼女の癇にたびたび触れた。


 それでも、侍女もいない密室でセオタスをもてなすわけにはいかず、ユォノは仕方なしに人通りのある渡り廊下に向かい、裏庭の見下ろせる窓際で立ち止まった。セオタスは大人しく彼女についてそこで止まり、目を合わせて微笑んでみせる。

「……あなたについて、もっと聞かせてはくれませんか」

 手を伸ばし、指先を取ろうとするセオタスからユォノはさりげなく逃げた。両手を背後に回し、彼女はにこりともせずに敵国の王子を見上げた。


「私に関して、あなたに語るようなことなど、何一つとしてない」

 ユォノが硬い声で告げると、セオタスは無言で笑みを深めた。その視線は、息も詰まるほどにぴたりとユォノを追っている。そのことに気づいて、彼女は声もなく唇を噛んだ。それでも目を逸らすことはせず、目の前で柔和な笑顔のまま立ち尽くす男を強く睨みつける。


 しばし両者の間には沈黙が落ちた。その間にも、後宮に囲われた女たちや宦官どもが興味ありげにこちらを見やりながら通り過ぎてゆく。諸々の視線が向けられているのを感じながらも、彼女は瞬き一つせずにセオタスを見据えていた。ついに根負けしたのか、セオタスは朱塗りの柱に片手を当て、わざとらしく肩を竦めて苦笑する。


「どうやらあなたは、なかなか私に心を開いてはくれないようですね」

「私との別懇の繋がりが得たいのなら、失われた同胞の魂を霊峰へ還してから再訪することだな。それもできぬ王子に開くべき心など、初めから持ち合わせてはいない」

「術なき者に開くべき心など持ち合わせていない……懐かしいですね。あのときも、あなたは私にそう言い放った」

 ユォノの痛烈な反論に対して、セオタスはしかし微笑みを湛えたまま、遠くを見るように目を細めた。彼女はしばし口を噤み、目を伏せ、「そのようなことがありましたか」と昔話を突っぱねる。



 まだ肌に当たる風が暖かいとは言いがたい、春先のことだった。渡り廊下にはひんやりとした空気が吹き抜け、ユォノは僅かに身を震わせる。薄布を重ねたような衣装は風雨に対して弱すぎた。心許ない袖口を引いて指先を隠し、彼女はセオタスを一瞥する。

「セオタスどの、……あまり、私に構わないで欲しい。私は既に貴殿の父上の妻であり、さりとて年上の男を息子として慈しむことはできそうにない。祖国の仇を友と呼んで親しく心を触れ合わせるのも本意ではない。あなたに僅かなりとも配慮と了見があるのなら、これ以上の干渉はやめて頂きたい」


 顔を背けるように肩口に顎を寄せ、ユォノは低めた声でそう告げた。セオタスは驚きに目を見開き、ユォノと視線を合わせようとするように一歩出る。更に逃げて退けば、セオタスはそれ以上の追求を諦めたように、伸ばしかけた手を下ろした。


「私がこの後宮で、ひいてはこのフェウセスでどのような目を向けられるかはお分かりでしょう。先の戦は双方に甚大な被害をもたらした。……私は、ここで影に潜んで生活することを望んでいます」


 ユォノの言葉を聞き届けたあと、セオタスはしばらく声もなく立ち尽くしていた。真意を探るようにユォノの目の奥をじっと見据え、眉根を寄せる。

「ユォノどの、あなたは……」

 呼ばれて、彼女は一度だけ瞬きをした。セオタスは襟元を正すように上衣を軽く引き、眦を下げる。その目に浮かんでいるのが紛れもない失望であることを理解して、ユォノは思わず奥歯を噛みしめた。

「……あなたは、変わってしまわれましたね」

 セオタスは顔を背け、踵を返そうとするように肩を引いた。眼差しに一抹の軽蔑が混じった。


「ごめんなさい。俺の勝手な都合ですね」

 セオタスはすぐに目を伏せ、それから思案するように顎に手を添え、沈黙した。その顔をユォノは黙って眺める。

「……また、来ます」

 そう言い残して、セオタスはくるりと体を反転させ、ユォノに背を向けて渡り廊下を歩き出す。やけに萎れたように見えるその背を一瞥して、ユォノも自室へ戻るべく反対を向きかけた。

「あの頃に戻れるものなら、わたしだって……」


 吐き捨てて、ユォノは渡り廊下をゆっくりと歩き出す。衣擦れの音が煩わしく、引きずりそうに長い裾を片手で掴み上げた。悄然とした後味を抱えながら、彼女は暗澹たる気分であてがわれた一室へと向かった。



 ***


 セオタスと別れて自室に戻る道すがら、どうにも女たちの表情にいやらしいものが混じっているとは思っていた。部屋の前にたどり着いて、ユォノはすぐにその意味を理解する。

 無残にも床の上にひっくり返された膳を見下ろして、ユォノは黙って目を伏せた。くすくす、と隠す気もない忍び笑いが満ちる。向けられる視線と悪意を細い背で撥ねのけて、彼女はかたく拳を握りしめた。


 いくら亡国とはいえど、一国の王女であったユォノに与えられた一室は後宮の中心にあたる大部屋であった。大多数を占める相部屋ではなく一人部屋であり、本来ならば後宮の中から心得のある少女でも見繕って身の回りの世話でもさせるのが通例となっている……らしい。少なくとも他の大部屋に住まう女たちはそうしていたし、そうした寵姫のもとに取り入ろうと近づく者も多いのだろう。

 言わずもがな、ユォノに仕えようという女などいるはずもない。



 無言で立ち尽くしたまま、ユォノは表情を覆い隠した。

(食材と燃料と手間がもったいないな)

 これだけ大勢の寵姫を養うためにも、料理人たちが腕によりをかけて作った食事である。しかし、配膳されてきた代物がこのざまではどうしようもない。ユォノは袖をまくり上げて膝をつくと、盆を拾い上げて皿を回収する。床に広がった麦飯や青菜、羹を前にしばし動きを止めると、それらを淡々とつまみ上げて皿の中に戻した。それでも床に残った残滓を手巾で拭き取り、ユォノは盆を持って立ち上がる。


 振り返れば、そばの通路や中庭の向こうの縁側、近隣の室内から女たちが興味深げに顔を出している。反応を窺うような視線の数々を見回して、ユォノは決して思うつぼになるものかと顎に力を入れた。表情ひとつ変えずに歩き出したユォノに、つまらなそうなため息が四方から漏れ聞こえた。



 食器を返す棚の場所はもうすっかり覚えてしまった。こうして食事に嫌がらせされるのは初めてのことではない。さすがに餓死させないだけの良識はあるようだが、それにしたって一日のうちのどれか一食が毎日抜かれるのはしんどいものがある。情けなく音を立てる腹に片手を当てて、ユォノは小さくため息をついた。


 ――仕方ない。仕方がない。あの戦では多くが失われた。山岳の民も、ホルタを最後の砦にして限界まで抵抗したと聞いている。あの天然の要塞を落とすためには、フェウセス軍も数え切れない兵の命を落としただろう。戦に勝ったと言えどフェウセスが得られたものはあまりに少なく、そこに残ったのは禍根や憎しみばかりである。


 悪いのは戦だ。無意味な戦をいたずらに命じた愚王だ。『憎むべきものを見失ってはいけない』。かつて言われた言葉が耳の底に蘇る。その通りだ。間違ってはいけない。誇りを貫かねばならない。憎むべきはここに囚われた女たちではない。間違ってはいけない。下を向いてもいけない。王女として背を伸ばし続けねばならない。たとえよすがとなる祖国がもうどこにもないとしても、自分は、決して見誤ってはならない。


 ――そうでなくば、死ぬべきでなかったひとが失われ、自分だけがのうのうと生き延びている甲斐がないじゃないか。



「陛下の妻として後宮に来ておきながら、別の殿方に色目を使うような方がいらっしゃるなんて、本当に驚いたわ」

 配膳室に向かって角を曲がろうとした矢先、聞こえよがしに嘲笑が投げかけられて、ユォノは思わず顔を向けた。

「……どなたのことを仰っているのか分かりませんが、私が望むのは静かな生活のみです」

「数えきれぬほどの人間を殺しておきながら、静かな生活だなんて。笑わせてくれるわ」

 向き直った先には、艶やかな黒髪を丁寧に結い上げた女が艶然と微笑んでいる。身に纏っている衣装の布地や装飾品、そして背後に従えた取り巻きを見て、相手が恐らく大部屋に居を構える高位の寵姫であることを理解した。


 肩を開いて正対したユォノに対して、女は眉をつり上げて語気を荒くする。

「矢を受けて谷底に落ちていった兵も、崖崩れに巻き込まれた兵も、剣に貫かれて息絶えた将も、みんな大切な人のいる人間なのよ。みんなかけがえのない家族を失ったわ。それなのに、静かな生活ですって? ふざけないでよ、みんなあなたたちのせいで……っ」

 つかつかと歩み寄ってきた女に、ユォノは一歩も退くことなく対峙した。眦を決して女の視線を受け止め、顎を引いて姿勢を正す。


「ご存じないかもしれませんが、私もまた、かけがえのない人を失いました。――あなたの大切な人たちに殺された、私の大切な人たちがいます。私の大切な人たちが殺した、あなたの大切な人たちがいます。失った名の多寡で争うことの愚かしさはあなたにだってお分かりのはずです、……リュシアどの」


 大部屋は七つ程度しか存在せず、その主は全員把握していた。名を呼びかければ、リュシアは一瞬だけ面食らったような表情で目を見開き、それから顔を赤くして手を振り上げる。

 頬をぶたれて、堪えきれずユォノはその場でたたらを踏んだ。盆の上に重ねた食器が音を立てる。衝撃を受けた頬が熱を持ったように熱く、ユォノは額にかかった髪を払うこともできずに目線だけを持ち上げた。見れば、リュシアは自身の衝動的な行動に驚いたように立ち竦んでいる。


「何を、偉そうなことを、」

 胸を上下させて、リュシアは肩を震わせた。一度呼吸を整えるようにゆっくりと息を吐き、彼女は頬を吊り上げてユォノを睨みつける。その眼差しに嫌なものを見て取って、彼女は思わず身構えた。


「――聞いているわよ、あなた、幼い頃から姉妹も同然に育ってきた侍女を殺して、自分だけ生き残ったんですって?」


 ひゅっ、と喉が音を立てるのを感じた。血の気が引き、指先から熱が抜ける。

 それは、ユォノを傷つけてやろうという意図が明確な、当て擦るような口調であった。そんな手に乗るわけにはいかない、と唇を噛んだユォノに、しかしリュシアは「図星みたいね」と目を細める。

「ほんと、血も涙もないのね。実の父に見捨てられるのもよく分かるわ。そんな女が英霊を語るなんて片腹痛いことね。……あなたなんかに私の気持ちが分かるわけがない」


 言い残して、リュシアは取り巻きを伴って歩き去った。その後ろ姿が遠ざかるまで、ユォノは身動きできずに立ち尽くしていた。遠巻きに野次馬に興じていた宦官や寵姫たちも、ユォノが動かないとみるや徐々に離れてゆく。

 項垂れた視線の先で、重ねた食器が震えていた。唇がどうしようもなく戦慄くのを隠すように、深く頭を垂れる。


 肌に触れる後宮の空気はあまりにも冷たく、山に吹く清涼な風も失われ、ここに漂うのはただ薄らと漂う冷ややかな悪意ばかりだった。耐えがたい孤独に、一瞬だけ腹の底がふるりと震える。

 仕方ない。治らない傷は耐えるしかない。既に道理の通らぬ誇りでも守るしかない。

 胸の内で繰り返し唱えて、少女は再び頭を振り上げた。姿勢を伸ばし、胸を張り、昂然と額を上げる。そうして、台無しにされた膳を下げるために、彼女は静かに廊下を歩いていった。




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