ボクのハハ
車椅子はまだ動き続ける。
目的地はどこなのか、そもそも目的地は存在するのか。
それは彼以外誰もわからない。
しかし彼からは確固たる信念を感じる。
彼は決心していたのだ。
こうなる事は分かっていたのか。
突然の出来事だったのかも同じように誰も知らない。
真っ赤に染まった薔薇は彼とともに彼のいく道を染めていく。
この薔薇は嫉妬、愛情、憎しみ、哀しみ、沢山の思いを積んでいる。
そして彼の頭上にさしてある折り畳み傘からは微かに、いや、確かに優しさが感じられる。
彼は幸せ者だ。こうなった今でも彼は支えられて生きることができる。
きっとその支えは彼がしてきたことが返されているだけだろう。全く大袈裟ではない親切心、する者にとっては当たり前であり、むしろ物足りない。
彼という個体は愛で満ち溢れていた。無償の愛なのかもしれない。
等速運動をし始めてかれこれ5日はたった。
彼は全く急ぐ気配はない。急げないと揶揄することもできるのだが。
しかし彼は確かに目的地へ向かっている。
もしも石ころにでも躓いたら大変だ。
それこそ、彼の生きてきた全てが無意味になってしまう。たったひとつの石飛礫でさえ、彼の人生を左右してしまうのだ。
それだけ彼は脆くなってしまった。
人助けをするほどの体を持ち合わせてはいない。
しかし心だけは静かに呼吸していた。
静かに、静かに。
彼は運が良い。
こんなに脆い身体を持ち合わせていながら地球の優しさに助けられている。
風、雨、鋭い日差しは彼を避けるようにして何処かへ行ってしまう。
彼女の心配は無用だったわけだ。
しかし彼女は何かしてあげないと行けなかった。
そうでもしていないと、感謝の心は収束を許さない。
その形が折り畳み傘となったのだ。
彼は人を愛した。そして同じように人に愛されていた。
しかし彼は敏感に愛から遠ざける道を選び続けた。
もし彼が与えられているものが愛だと分かったら、彼はそこで足を止めてしまうだろう。
居続けたくなってしまうだろう。
彼はそれを望んではいなかった。
否、望んでいたのかもしれないが、彼はその道の選び方を知らなかったのかもしれない。
彼は弱かった。
一度得たモノはいつか手放さないとならない。
手放す事を彼は世の中でも最もな悲劇だと信じていた。
彼は弱かったが故に、得ることもなかったのだ。
彼の行く道は全てが平坦であった。
まるで彼が通るために存在する道のように。
何不自由なく彼の行く場所へ導くためにあるように。
しかし初めて彼の行く道に迷いが生まれる。
怒涛の波を立てる大自然が立ちはだかっていた。
目の前に滝が広がっていた。
落ちたものならどんなに彼でもひとたまりもないだろう。
そこへ一人、近づいてくる。
まるでずっと前から分かっていたかのように。
待っていたよ、遅かったね、そんな顔をした女性が一人。
しかしその女性は彼の姿を見てその刹那泣き顔になる。
必死にくしゃくしゃになった顔を抑える。
彼女は車椅子のブレーキレバーを引き、一度動きを止めると彼の顔を見ていう。
、、、、、幸せそうな顔をしてる。
彼女はそれだけで満足そうに笑顔を見せ、ブレーキレバーを押した。
方向を九十度変えた先に一軒の家が建っている。
そこへと彼女は誘導した。
こんな大自然の中にポツリと奇跡のように建っている戸建。
ひとつの小屋のように小さく、すぐにでも自然に潰されてしまいそうだ。
彼女は扉を開け、彼を家へと招き入れる。
再びブレーキをかけ、彼にまとう全てを解いた。
慎重にしなければすぐに崩れてしまいそうだ。
すると、薔薇が一輪床へ落ちた。
彼はすでに誰かと出会ったのだろう。
そしたらこの薔薇も頷ける。だからこんなにも嬉しそうな顔をしているのだ。
彼女はそっと薔薇を取り、花瓶の中へ刺す。
薔薇はうまくいけばひと月以上もつ。
そしてこの薔薇は私には分からない想いがこもっているのだろう。この薔薇だけは枯らしてはいけないなと手に取り思った。
他の薔薇では変えにならないたった一輪の想い。
私がこの想いを次へと繋げる。
彼は食べ物は欲してはいない。
取り込もうにももう取り込める体ではない。
以前は私の作ったものを食べていたのだ。
彼はカレーが大好物だった。カツを乗せるとさらに喜ぶものだから私も当時は少し奮発して買い物をしたこともあった。
しかし彼の今の姿を見てその過去信じられなくなる。今の私は彼に欲されているのだろうか。
ふと、私はポケットに手を入れる。
ひとつの紙切れ。
もう、2年も前だ。
この手紙が届いたのは。
最も今の時代、こんな手紙を書くような人は彼しかいないのかもしれない。
無事に私の元へ届いたのは幸いであった。
彼女はもう何百と折り目のついた手紙を開く。
「お母さんへ。
私はやっとあなたの苦労、悲しみ苦しみが理解出来ました。私はこの人生をお父さんの人生のために注いだつもりだった。しかし、どうやら今となっては誰も救うことはない。これは無駄だと僕は気づいたのです。お父さんが生きていれば幾分私は報われていたことでしょう。しかし、お父さんがこの世から去ったいま、他人をも助ける気力がありません。僕は今から残りの人生をかけて全てを伝えに行きます。それがいつになるかは分からない。だけど、必ず向かいます、僕は僕の生きた意味を探します。」
彼が大学で熱心に研究に打ち込んでいることは知っていた。
しかし何を研究しているかは教えてくれたことは一度もなく、秘密にしているようだった。
きっと彼なりの思いがあってこその判断だろう。
どれだけ待っても待っても待っても一向に彼は姿を現さない。彼はそもそも生きているのか。
なんでこんな手紙をよこしたのかは全く分からない。
彼はどういう方法でここに来るのだろうか。
車か、自転車か、はたまた飛行機か、ヘリコプターか
それとも徒歩か。
もし車で来たとしても彼の住む借り家からは丸一日はかかるほどの距離だ。
しかしそのどれをも裏切り彼は姿を現した。
彼は彼が作ったもので彼なりの方法を使ってここまで来た。今の状況があってこその判断だろう。
今のこの家は彼の実家だった頃と違い小さくなった。
以前の家だとあまりにも広く、彼女一人では使いこなせなかった。
減築をして家そのものを小さくしたのはもう2年も前だが、常に彼の部屋は用意してあった。
いつ帰ってきても良いように。彼が安心できる場所であるために。
彼女は彼をその用意しておいた部屋へと誘導する。
きっと彼も疲れていることだろう。
彼を車椅子から下ろし、ベットへと寝かせてあげる。
彼は寝息ひとつかかないがたしかに静かにそして深く呼吸しているのがわかった。
この場所でひととき休みなさい。
本当はこの場所でずっと看取ってやりたいが私は気づいている、
この場所が彼の最終目的地ではないことを。
彼を生んだのは22年も前だ。
もっとも彼は今、歳を年ごとにとっているのだろうかなどと考えてしまうと悲しくなってしまう。
彼を生んだときはたしかに嬉しかった。
紛れもなく私と夫、渉の宝であった。
大切に育て、これからの未来をいろんな想定をして親なりに計画していた。貯金をし、大学にも行かせてあげたい。彼が自由に道を選べるように親のできることはできる限りしたい、と。
しかし、彼を生んだ翌年、渉は交通事故に遭う。
車と車の正面衝突であった。その衝撃は凄まじいもので、エアバッグが開く間も無く彼の頭はハンドルと激しい衝突をした。幸い脳にはかすかに後遺症は残ったもののリハビリをすれば前のように考え、話をすることができるということだった。
しかし、打ち所が悪かったのが眼球だ。
眼球をえぐり取られるように衝撃が走ったと後々渉は語った。
事故にあってから渉の視力は戻ることはなかった。
そんな中、渉の子供の彼の存在は私の唯一の救いであった。
渉は一人になるとひどく落ち込み何か独り言を始める。怖くなることが多々あり、精神科を勧めた事もあったが渉はもう生きる気力を失っているようだったのでそんなことはどうでも良いと言うような状況だった。
しかし、彼は子供と話すときだけは態度を一変させた。絶対に弱音を吐かなかった。負の感情を無いものとし、子供にはできる限りの親としての奴めを果たそうとしてくれていた。
その時の渉は独り言を言っている時とは明らかに別人で目は見えなくともたしかにお父さんだった。
見舞いに毎日行くことになったのだが私は特段苦労はしていなかった。夫のことを私は未だに愛しており、夫の世話をすることは私の生き甲斐にもなっていた。
どの場所へ移動するにも私が付いていなければいけない。渉はベッドから降りることでさえできなくなってしまったのだから。
しかし、渉は必要以上に、妻に迷惑をかけていることを負担に感じていた。
本来夫の私が家を支えていき家計を支えていき、家族を支えていくべきなのだと。
そんなことがこんなにも当たり前にできなくなってしまい歯痒さが際立つ。そして腹が立った。
不条理では無いか、交通事故は向こうがよそ見をしていて起こったことではないか。私が何をしたというのだ。あまりのに不条理だった。
そして夫、そして父としての責任が強かったが故にその不条理さでさえも受け流すことが出来ず、許すことができなかった。
そして自分の運命を変えた運転手を恨んだ。
いや、運命通りなのかもしれない。
だとしたら私は何のために夫になり父になったのだろう。
渉は生きる意味をなくした。
これからの未来が見えない。
現実も見えないのにこれからが見えるはずがない。
これからが真っ暗でしか無いような想像しかできなかった。
ここで少しでも光が差してくれたら今頃確実に様々な現実が違っただろう。
渉は妻がいない時に手探りで窓を開けぎこちなく飛び降りた。
この階が三階であることは知っていた。
確実に死ねることは知っていた。
死んだ後の妻、子供のこれからを思うと心が苦しくてなかなか決断ができなかったが、渉はどんなに考えても生きる意味を見出せなかった。
死ぬこと以外で楽になれる方法を本当は知りたかった。しかし、その方法が見つかる前に死を選んだのは彼の弱さだろう。
渉とは私の一目惚れから関係が始まった。
渉は人一倍責任感が強く頼りになる。
付き合ってからも彼氏としての責任は常に感じていたようだった。
そして交際を始めてから約3年で結婚。
そしてその2年後に子供が生まれた。
全てが思い通りで円満だった。
今が私の絶頂期なのだろうと思っていた。
そしてそれはその通りになってしまった。
その後の渉の事故から全てが変わり落ちていくのが分かった。
こんなにも家族は脆いのだと思い知らされた。
家族は何があっても崩れなくて、支え合ってどんな事も越えていけるようなものだと思っていた。
しかしそれは勘違いだったようだ。
思ったほか家族は儚かった。
渉と死別してから私は眠れなくなった。
入眠剤を飲み、寝ようとするのだがそれでも寝れない。
まだこの人生には未練がたくさんあった。その事があまりにも気がかりで眠る事が出来なかった。
そして正気を失っていった。
彼女は鬱になっていた。
何度も何度も入眠剤を大量に飲んで自殺を試みた。
まさか自分が睡眠薬自殺を試みるなんて夢にも思わなかったが現実となった今、嫌という程現実がどこまでも追ってくる。
私はやがて独り言を言いだし、ついには暴れ出すようになった。
そんな時常にそんな彼女を支え続けていたのは彼女の子供の彼だった。
彼は母が鬱から抜け出す事を心から望んでいた。
子供としてできる事は限られていたが彼なりに考えて話し相手になったり、不安を聞いたりして鬱憤を貯めさせないようにしていた。
子供の頃からこんな身で育ったから自分ではなく人のための人生を生きるようになってしまったのだろう。
薬や看護の甲斐もあって彼女は幾分鬱が和らいでいき、やがては鬱から抜け出す事ができた。
未だに渉のことを思い出し泣きだす事もあるが、やがては自分で歯止めを止める事ができるようになっていた。
私はやがて社会復帰を果たし、通常の人生を再スタートさせた。そして現在は自然の家というものを運営し、生計を立てている。
彼を1日眠らせて朝になった。
彼は目覚める事はないが体は休憩していたに違いない。
彼を再出発させるために着替えさせる。
きっとこの服で何日もの日にちを過ごしたのだろう。
服を脱がせる。
すると内ポケットに手紙が。
これは私宛なのだろうかと悩んだ果てに少しだけ開けて内容を確かめてみることにした。
確かに私宛に書かれていた。
しかし文字は歪みに歪みとても読めるような文字ではない。彼の身に何があったのか。
母の私でさえ知る事ができないのか。
しかし彼はこの一文だけは必ず伝わるようにと何時間もかけてゆっくり書いてある文章を見つけた。
「僕は貴方達家族のことを恨んでいた。
頼りになる息子のふりをして鬱憤を受け取っていた。
しかし今になって気づきました。
これは紛れもなく受け取った愛をいま返していたのだと。僕は貴方達を恨む事は出来てはいななかった。愛しています。」
そして何故か、その後に続く文章ははっきりとした文章で見やすかった。別人が書いた文字なのだろう。
「彼は家族のことを愛していました。
しかし甘える事ができず、愛を受け取る事ができなかった。そうする方法を彼は知らなかったんです。
彼は私に家族のように接してくれた。
彼は心から優しく、強い人です。
彼にもそのように人を愛する事ができました。
彼は甘えることを知り、愛されることを知りました。
もう安心してください。彼は一人前になりました。
貴方達の育て方は間違っていなかったのかもしれません。
そして彼は最後に静かに優しくそして美しく眠りました」
私は手紙を持った手が震えていることに気づく。
私は気づかないうちに我が子に我慢をさせていたことを気にしていた。そして事実、彼は辛い思いをしていた。しかし、良かった。本当に良かった。
最後に本当に出逢うべき人に出会えていたのならきっと彼は幸せに最後を迎えたのだろう。
この手紙を見て私は気づく。
ここを出ればきっと次が最後の目的地になる。
最後の目的地はこの手紙の続きを書いた彼女の元だろう。
私は微かに滲んだ涙を拭き、彼に服を着せる。
そして、彼をまとっていた全てをもう一度付け直す。
彼の生きるすべ。動くすべ。目的地を目指すすべは全てがこの電線につながれて車椅子につながれている。
その電線は彼の頭、つまり脳に繋がっており彼を動かす原動力になっているように感じた。
全てを繋ぎ終わり、一度安堵のため息を漏らす。
そして一度花瓶に入れた薔薇を取り出し、彼の手に握らせる。
この薔薇は次なる目的地で必要になるはずだ。
出来るだけ良い形で迎えさせてあげたい。
私は親としてできる限りの事はしてあげた。
あとはもう送り出すだけだ。
もう私の親としての勤めは終わったのだ。
そう思うと無情に苦しくなる。
しかしこの子の望む形を叶えてあげるのはかつて渉と相談しあった時に合致したことだ。
よし、送り出そう。
私は彼の車椅子の取っ手を掴み家の外へと連れ出す。
ここでレバーを押せばもう帰ってくる事はないだろう。
彼はすぐにでも会いにいきたいに違いない。
親としての義務だ。レバーを押そうとして、私はそれを止めた。
少しだけならいいでしょ。
私は彼を力の限り抱きしめた。
涙が止まらない。溢れてくる。
このまま我が子を抱きしめて私もいっしょに逝く事は出来ないだろうか。
我が子なのにこんなにも尊い存在。
離したくなかった。
しかし私はすぐにでも正気を取り戻しレバーを引く。
貴方がここに来てくれただけでも私は充分なんだ。
それ以上のことを望む資格は私にはないんだ。
さようなら。
彼がどんなに小さく見える場所に行ってもいつまでも見つめていた。
家族は確かに儚いものだ、しかしこんな形で繋がる事ができる。
私はその事が幸せで幸せで自然と笑顔で彼を見送っていた。