熱砂と、翼折れた烏と。
2017年 10月某日 アフリカ
「貴方がMr.アレクサンドル・パステルナーク、ですよね?」
「ああ、そうだとも。君の顔はよく知っているよ、ミスタ・ブレンダン・アーガイル。実をいうと私は君の本の大ファンでね。…まさかアフリカくんだりで会うとは思っていなかった。私が場所を指定していたとはいえね。」
「物を書くときには自分の足で情報を集める。これが私の数少ないともいえる信条でして。」
「…これは失礼した、存外気骨が有るのだね。」
「ハイテックについていけないだけのローテク人間にすぎませんよ、私は。」
私はブレンダン・アーガイル。一応ノンフィクション作家の端くれのような男だ。これまでに何度か執筆して、そのうちのいくつかはまずヒットと言ってもいいだけの売り上げを残している。もっとも、人気作家と呼べるかは怪しいところなのだが。
その中でも、今回は現代を生きる傭兵にスポットを当てた本を執筆するつもりだ。形式としては複数名にインタビューを行って彼らの思いや信条、経歴、それらをまとめて一つの本にしようかと考えている。
そうやって何か情報はない物かと各地の情報を収集している中で一人の特異な経歴を持つ男の情報が私の情報網に引っ掛かった。それがいま私の目の前に立っている男、アレクサンドル・パステルナークだ。元ロシア航空宇宙軍大尉であり若くしてその卓越した技量によって名声を確立し、順調に昇進を重ねながら、かの「ロシアンナイツ」への異動内示すら受け取っていた空の若き英才。彼のキャリアがそのまま何事もなく順風満帆であれば恐らく将官クラスへの昇進も夢ではなかったはずだ、というかそれもほぼ確約されていたようなものだっただろう。
「そうだったんですか。まさか私のようなものを知っていただけているとは…」
「はは、まあね。だからこそ条件付きではあるけれど取材に応じた訳さ。その代りと言ってはなんだが君の本が完成したらサイン付きで真っ先に送ってくれよ?」
「それは勿論。もとよりそのつもりでしたので。さて、雑談はこの程度にさせていただいておくとして…まず知りたいのは単刀直入に言って、貴方はロシア航空宇宙軍での明るい将来が約束されていたはずですね?[あの事故]があったとはいえ。ある程度その歩みが遅くなりはしたでしょうが、それでも昇進の道はまだあったはずですよね?そんな貴方が何故突然軍を持して、あまつさえ半ば国を捨てるようになってしまいながら何故傭兵に?しかも加えて言うならばどこかのPMCに所属するわけでもなくフリーランスの。」
「…随分とずけずけとモノを言うね、君は。最も、本から受けた印象通りではあるが。でもまあ、確かにその疑問ももっともだと思うよ。それを語るには、あの日の事から話さなければならないだろう、私の人生を一変させたあの日の事を」
そう言って彼は窓の外に視線を一度向けると少し、そうほんの一瞬だけ口を閉じて何か遠いものを見るような目つきになった。まるで、失ってはならなかったはずのものを失った喪失感に耐えるような、それを見た者が思わず息を呑んでしまうであろう、痛ましい目つきに。しかしそれも前述したようにほんの一瞬のこと、彼が私に向き直った時にはすでにその表情は覆い隠されて、薄い笑みすらその口もとには浮かべられていた。…私にはその笑みがひどく薄っぺらで本心を隠すためのいわば仮面のようなものにしか思えなかったが。それからおもむろに彼は一度閉ざした口をまた開いて言葉を紡ぎだす。そんな彼の姿を見て、私はこの小説の書き出しをすでに決め始めていた。
「あれは今日によく似た天気の…そう、まるで今にも泣きだしそうな空をした日のことだった。」
そう、彼のこの一言で、この物語の第一章は幕を開ける。
20XX年 10月 ロシア
あの日、私は家路を急いでいた。何せ、今にも雨が降り出しそうだったからね。傘もないし、ましてやレインコートなんて持ち合わせてもいなかった。ドジを踏んだものだとあの時は苦笑していたと思うよ。私の官舎は基地からさほど遠くなくてね、わざわざ車を使う必要もないから大抵は歩くか自転車なんだ。だから空が泣き出す前にと家路を急いでいたんだが…そこで私の全てを永遠に奪い去って変えてしまったあの忌々しい交通事故が起こったんだ。
丁度、私の目の前を歩いていた老婦人と子供の横からトラックが突っ込んできてね。…ああ、今でも鮮明に思い出せる、やけにゆっくりとその光景が私の目には映ってね。…そう、まるでスローモーションで再生されてるみたいに。当然、その光景から目を背けて私には関係ないと、そのまま無視することだってできたが、そうすることはもちろんできなかった。だってそうだろう?目の前で人が轢かれそうになっているのに行動しない人間なんてそう相違ないと思わないかい?で、私はその大多数の人間であるからして自然、私は必死で駆け出して半ば体当たりのような形になりながら二人をそのトラックの前から突き飛ばしてなんとかその二人を助けることはできたんだ。
ただ…当然、私はそうはならなかった。私の片足は大型トラックのごついタイヤに踏みつけられてぐしゃぐしゃになってしまってね。事故の直後はアドレナリンが分泌されていたせいなのかな、痛みすら感じずその足を唯ぼんやりと眺めてたんだ。…周りの様子すら気づかず唯ぼんやりと呆けたみたいにその足を見ていた。少し立ってからだんだんと興奮の潮が引いていき、漸くのように生々しい痛みを知覚して、その時にやっと事態を飲み込んでしまって、気づけば私は衆目も気にせず絶叫していた。たぶん痛みよりも私がようやく得た翼を、大空を華麗に舞える権利を羽ばたけるその直前でもぎ取られたことに対して理性よりむしろ本能的な面で気づいてしまったから。そこから先の記憶はあいまいでね、視界の端にあわててどこかへ連絡する老婦人が見えたよ。そして私の視界は…暗転した。
――つまり、気絶したのですか?
情けない話ではあるけれど…まあ、そうなんだろうね。何せ次に目を覚ました時には路上のアスファルトの上じゃなくて、病院の白く清潔なシーツの上だったんだから。どうにも意識が覚醒しきらないままでうすぼんやりと白衣を着た病院の先生が何か説明しているのを聞き流していたよ。ただ、路上で本能的に悟っていたように、何となくもう自分が戦闘機乗りには戻れないって理解していたのかも。先生によればその時の私は空を見上げながら静かに泣いていたそうだ。それでも説明によるとリハビリを行えばその可能性は極めて低いものの、感知する可能性があったそうでね。当然、一抹の希望を捨てきれず、私は必死にリハビリに取り組んださ。本能的には理解しているはずの事実から必死に目をそらしてね。それに、何かしていないと耐えられなかった。忙しさで現状について深く考えることを避け続けていたんだ。けれど…リハビリも終盤、随分自然と動けるようになったときに私の担当医から有る宣告を受けてしまってね。
――宣告の内容は戦闘機にはもう乗れない、ですね?
当然、その通りだ。そうじゃなかったら私はこんなところに居はしないよ。…済まない、少し言い方が皮肉っぽくなりすぎてしまったね。そう、医者からの宣告では激しい運動は可能、飛行機の操縦ですら問題なしとされたんだ。しかし…それ以上の激しさを要求するもの…即ち、戦闘機にはもう乗れないだろう、そういわれたよ。それを聞いた時、多分私自身気付いてないまま溜め込んでいた鬱屈した物が爆発したんだろうね。急に暴れ出したそうだ。それはもうひどい暴れっぷりだったそうで、テーザーガンを使用せざるを得なかったらしい。激しい振動と衝撃、それから激痛を感じて世界がまたあの事故の時みたいにスローモーションで再生され始めて。倒れこみながら、私はやはりまた涙を流してその頬を濡らしていたよ。
…それから、再び目が覚めたのはカメラのストロボのせいで、呆気にとられたよ。事態が呑み込めないままで困惑している内に色々ポーズをとらされつつ撮影を続行されて説明もないまま彼らは退室していってね。けれど、それから数週間後の新聞の見出しで何が起こったか、何故あんな真似をされたのかを悟ったよ。そこに書かれていた記事いわく「他人のために自分の身を厭わず救いに行った軍人の英雄的行動!」…成程、私は英雄になったようだ。虚構としての英雄に。皮肉っぽくそう感じたね、あれは。まるで小説の主人公みたいじゃないか?…もっとも小説の主人公なら怪我を完治させて再び空へと舞い戻っているところだろうけどね。中でも極めつけは「英雄パステルナーク大尉との対話の様子」というコラムが書き込まれていた事だったかな。当然、私にはそんな会話の記憶はおろか、対面していた記者の情報すら聞いたことなんてなかった。…まさしく、マスコミの虚構という奴をまざまざと見せつけられたよ。
そして、そんな広報的に美味しい「英雄」を軍が見逃すはずもないだろう?私は完治した後再び軍へと復帰させられる事になったよ。…ただし戦闘機ではなくKa-50…あの空対空戦闘ヘリのパイロットに。少数しか配備されず、選りすぐりの精鋭たちが駆る正式採用機を乗りこなして彼らを率いる英雄…どうだい?大衆受けはばっちりだと思わないか?事実、そういう内容の記事を書くとのことで何度か取材を受けたしね。
――その時の感想は?
はっきり言って何もない。全くの無、虚無だよ。感情だけは零れそうなほど溢れていたけれどね。私の代わりに同期の親しかった男が半ば繰り上げのような形でロシアンナイツへの配属が決まったそうでね。だから、夢を目前で奪われた喪失感と代わりにその夢を得た友への憎悪、羨望、嫉妬…そして当然、祝福がないまぜになったぐちゃぐちゃな気持ち。先に言っておくが、その友人とは今でも付き合いがあるし決して彼を全面的に憎む気持ちはないよ。彼が何も悪くないのも理解できているしね、これでも。…理性的な面では、という注釈がついてしまうのが情けないけれど。だから、そういった自分の醜さ全てを覆い隠してふたをするように塞ぐためにただただ仕事に打ち込んでいたね、あの頃は。ただ…
――ただ?
…狭いんだ、空が。どうしようもなくね。考えてもみてくれ。航空機と比べてヘリの実用上昇限度を。いくら高性能の戦闘ヘリとは言え、その限界はせいぜい数百メートル。…私の頭上にはつい数か月前まで自由に飛べていた空が広がっているのに、今ではせいぜい数百メートルのところを飛んでいるだけ。飛んでいる…そう、飛んでいるはずなのにまるで地を這うような錯覚に陥るあの感覚…。どうしようもなくごまかせない喪失感と空しさがこみあげてきて毎日がたまらなかったね。嗚呼、誤解しないように言っておくがあのヘリはいい機体だったと今でも思っているよ。機動性と運動性に優れていてね。中々思うとおりの操縦に素直についてきてくれるし、それに戦闘機とは異なるホバリングでの上下の運動も加わるから乗り回して楽しい機体だった。
――しかし、喪失感を埋める所までは至らなかった?
うん、その通り。そこまでには至らなかった、至る訳がなかった。どころか一日一日、日を重ねることに強くなってね。ある日限界を迎えてしまって、それからは殆んど反射的に辞表を出して、それが受領されてすぐに軍を去っていたよ。まあ、その頃には私の英雄としての人気も下火だったしね。上官からもさして止められもなかったし、むしろ当時の上官は中々分かる人物でね。私の内心に気づいた上でその辞表を受理してくれたよ。そして何より私にはもう身内が居ないのでね、言ってしまえばそういう決断を通常より気軽にすることができたんだ。けれど辞表を叩きつけた後で何をすればいいのかわからないことに気が付いてね。今になって思えば中々間の抜けた話ではあるけれど…それから何かしようと考えて、こう考えた。「いっそ空から完全に離れた地上でなら、私が見失って、そのせいで砕け散ったソラノカケラを再び取り戻せるんじゃないか」ってね。それからはもうほとんど思いつきと衝動に身を任せて行動したよ。…ああ、そういえば祖国をを出奔する前に私を轢いた張本人の運転手と面会したことがあるよ。
――そうなんですか?彼に対してはどういう感情を?
…会うまでは憎悪にも近い激しい怒りを抱いていたよ、当然ね。けれど…あった本人を確認してそんな気は失せたよ。彼もまた、私のようにあの事故で人生を狂わせてしまったのだから。聞いた話では、彼自身に過失はなく、路面に問題があったらしくてね。けれど彼は「英雄」を傷つけた。故に、周囲からも敵視されてしまっていたらしくてね。有形無形の嫌がらせを受けて仕事を辞さざるを得ず、更にはその扱いに耐えかねて一家離散。酒浸りになりながら、それでも私の事を思い出して謝罪にしに来たんだと。…怒りをぶつけれるわけないだろう。心が折れて絶望したあの漂白されたような表情、その少し前までの私ときっと似ていたのだろうから。金を少し渡して追い返すようにして立ち去ってもらったよ。やるせない体験だったね、もう二度と体験したくないよ、あんな事。
―― …そうなのですか、余計なことを聞いてしまい、申し訳ありません。その後は如何されたのですか?
何、この程度。今は昔、もう過去の話だ、今更気に等しないさ。そうだね…其れからは家財やら何やらを処分して必要と思ったわずかな荷物だけを持ってロシアを出てから中東に渡ると元軍人、という点を強調して何とか傭兵の仕事をフリーランスで受けては生活して…気づけばそれがそこそこの期間続いてる。何とか死なずに此処までこれたよ。幸運と喜ぶべきなのか、それとも飛べなくなった時点で不運と嘆くべきなのか、いやはや。
…それに、そんな中でも何となく見えた気がするんだ。私が無くして、それから追い求めてきたものが。まあそれも、もう少しのところでこの手からすり抜けていくんだけれどね。…もどかしい限りさ。だから、だからこそ私はまだ戦い続けると思うよ。掴めそうでつかめない、この砂漠でよく見られる蜃気楼にもよく似た現われては消え、消えては現れる答えを探して。そう、この何もかも灼き尽しては呑みこんでいく灼熱の熱砂の上で、ね。
…さて、私はこれでおしまいかな。ああ、そういえばまさか小説は私一人だけのインタビューで終わらせるわけはないだろう。次はどこへ行くんだい?
――予定ではAMS…Aegis Military Service社に伺わせていただく予定ですが。
…へえ、あそこかい。近頃とみに名前を聞くようになったPMSCsだね。色々虚々実々の噂が結構フリーランスの私の所にすら流れてきてるよ。まあ、最も胡散臭い物も多々あるから、あの会社にシェアを喰われた同業からのやっかみ半分な面もあるだろうけどね。CIAに援助を受けてるだのなんだの…とか。はは、まるで映画の設定みたいな話だよね。まあ、それを抜きにしても聞いた限りじゃ、あそこは人材が豊富だからね、有能な奴は多いらしいよ。少なくとも、こんなところでフリーランスのままくすぶってる情けない私なんかよりは数段面白いインタビューができると思うよ。
――そんなことは。良い話を聞かせていただきました。
「面白くもない話だったけどね」と苦笑しながら肩を竦める彼に自分も苦笑で応じる。その時、私の耳にも届いてくる微かな轟音とともに窓から見える曇り空ですら、鮮やかに浮き出ている一筋の飛行機雲が横切って行った。その機体の機影は私などには芥子粒のようにしか判別しきれなかったけれど「…懐かしいエンジン音と機影だ。Su-27Журавлик…君たちの国だとフランカーと言うんだったかな。…私がずっと乗り回していた機体でね。」その言葉に慌てて窓の外へ視線を移す。しかし、私にとってはやはり芥子粒のようにしか見えない。私とて視力は人並み以下であるということは決してないのに。で、あるならば、アレクは未だ優秀な視力を誇っているのだろう。そして恐らくは今でも戦闘機乗りとしての他の資質も満たしているのだろう。…砕かれてしまったその足以外は。飛び去っていく飛行機雲を目を眇めるようにして眺めている彼を見つめながら推論であるにせよ半ば確信を持ってそう思う。…とはいえ、しかし彼の内心をその横顔からは正確に読み取ることはできなかったのではあるが。
インタビューのすべてが終わって彼に一言謝して建物から出たとき、それまで居たエアコンで室温が調整されていた快適な室内から出たせいで、日陰だというのに強烈な日光に直撃されて一瞬めまいすら覚える。
かつて空高く翔け、そして理不尽に翼を折られた元エリート。こうして祖国と離れた遠い異国の地で、はたして彼は彼自身の言う所の求めている答えを、「ソラノカケラ」を彼は見いだせるのだろうか。…いや、今それを思考してみたところで、私にはそれがわかろうはずもない。一つだけ言えるとするならば、それは彼が答えを見つけるか、或いは死ぬかするまでずっと戦い続けるだろうということだ。たとえ愚かだと、無様だと他者から笑われ、彼自身がそれを自覚していたとしても。
さて、インタビューの出だしはまずまず好調だったと言えるだろう。良い話を聞く事が出来た。次に向かうAMS社の噂は私自身ある程度収集してきたのだが、眉唾物の話も多く、そう面白いインタビューは聞けないのではないかと判断していた。がしかし、同業のアレクの目から見てもかの会社は「大手」と言っても過言ではないらしい。成程、どうやらその予想はどうやらいい方向で裏切られたようだ。どうやら今回の小説もあくまで主観ではあるが面白い物がかけそうだ。次のインタビューで聞く質問の内容を考えて、微かにはやる胸を抑えつつ私は降り注ぐ日差しの中へと足を踏みだした。