01
「へぶっ!」
それが俺の異世界に来てからの記念すべき第一声だった。
顔と服を土塗れにしながら身体を起こす。
地面は茶色で前後に真っ直ぐ伸びている。左右には木々の群れ。
どうやら林道に出たらしい。せめて人里に送って欲しかった。
立ち上がって大きく背伸びをする。やはり視線が低い。おまけに髪も長い。
女の子ならともかく、男でさらさら黒髪ロングなんて、少なくとも俺は好きじゃない。
あの女神さまの反応からして、恐らく俺の要求通りにはならなかったのだろう。
しかし、本当はこれで良かったのかもしれない。
俺が女の子に相手にされなかったのは容姿以前の問題だし、顔を綺麗にした所で惨めさを払拭することは不可能だ。
青空を眺めつつ、道の脇で用を足しながら冷えてきた頭を使って考える。
ジリ貧な生活と交通事故のショックで、極端にネガティブになっているらしい。
空を見上げていると、遥か上空を翼と角を持った巨大なトカゲが横切った。
「……手、洗えないな」
そういえば、ここは剣と魔法の世界。
神様の話は殆ど覚えていないが、よく考えてみればこれは容姿云々以上に喜ばしいことだ。
俺も自宅でパソコン弄りが日課なオタクの一人。
程度は知らんが、異世界ファンタジーというワードには人並み以上に憧れていた。
なんかちょっとだけ気分が晴れたような気がする。
あまりくよくよ悩んでいても仕方がないからな。
それなら、今後有意義に生きていく方法を模索した方がいいに違いない。
そんな風に小さな決心をしていると、道の先に広い湖が見えてきた。
丁度いい。あれを鏡代わりにして、今の顔を確かめるとしよう。
もう前とは違う身体なんだから。どんな形であれ、取り敢えず自分の顔くらいは知っておきたい。
そう言い聞かせながらも、やはり期待はしてしまうわけで。
桟橋の先まで歩き、両手をついて目をつむる。
心の準備はできた。いざ。
水面を覗き込み、目を開いた。そこに映っていたのは、
「……え?」
手前には端正な顔つきの、大きな目と長い黒髪を持った女の子が。その奥にはスキンヘッドの大男が立っていた。
一瞬理解が追い付かず、全てを把握して振り返ろうとしたその瞬間、後頭部に衝撃が走った。
俺はあっという間に意識を手放し、その場に倒れてしまうのであった。
黒い鉄製の檻、光を通さない箱形の空間、外から聞こえる鞭を打つ音と馬の鳴き声。
説明などされなくても猿でもわかる。
これは非常によくない状況だ。
檻には南京錠がかけられていて、周囲の箱には剣や斧といった武器が見えるものの、勿論手の届く範囲に鍵は見当たらない。
こういう時、出鱈目な腕力とか奇抜な能力があれば抜け出せるのだが、そんな物がある訳もなく。
試行錯誤を繰り返し、遂に諦めてその場で仰向けに寝転がった。
お手上げである。
「どうにもならないなあ……」
そんなことを呟いていると、不意に奥の扉が開いた。
急に差し込んできた光に思わず手をかざす。
入って来たのは、二メートル程はある巨体に、鼻から上を隠す鉄兜。
上半身は裸で、腰から下にはボロボロのズボンを履いている。
鎖に繋がれた鈍色の首輪が印象的だった。
「昼飯だ。食え」
かぴかぴになったフランスパンのような物が一本放り込まれる。
僕は暫しそれを苦い顔で眺めた後、それをくれた大男の顔を見上げた。
「ここは何処なんだ? 一体俺をどうするつもりで」
「お前はこれから奴隷商に引き渡され、隷属の首輪をつけられる」
「奴隷って、今時そんなストレートな……」
「首輪をつけられたら抵抗する心も無くなる。素直に町まで大人しくしておくんだな」
男はそう告げると、荷車から出ていこうとする。
そんな彼に、俺はもう一つだけ質問をした。
「あんたも奴隷?」
少しだけ間を空けて、彼は答えた。
「……ああ、そうだ」
「逃げ出そうとか、考えたりしないのか?」
「首輪にはそういった意思を奪う力もある。お前も暫くすれば解るさ」
ばたん、と扉が閉じる。
少しして、馬車が再び動き始めた。
俺は固いパンを齧りながら、行く先に待つ不安と戦っていた。
次に馬車が止まったのは夜になった頃だった。
今日はもうここでキャンプを作り、明朝出発するとのこと。
それは猶予というか、生殺しというか。
異世界に来て早々迎える展開じゃないぞ。
「夕飯だ」
昼と同じ声と共に、扉の方から顔を覗かせる。
相変わらずでかい。
「なあ、あんた名前は?」
「そんな事を知ってどうする」
「別に、どうもしない。俺はリアだ」
「……ドール」
「そっか。かっこいい名前だな」
ドールは渋々答えると、片手に持っていたパンを一本、檻の中へ放り投げた。
すると、そのまま壁に背を預けて胡坐をかき、持っていたもう一本のパンを齧る。
「……見張りだ」
「そんな事しなくたって、逃げられる訳ないだろ」
出来るならもうとっくにやっている。
しかし、どうにも固いパンだ。
暗いからよく分からないのだが、カビてないだろうな。
「お前、俺が怖くないのか?」
カチコチのパンに四苦八苦していると、ふとドールがそんな事を尋ねる。
俺はすぐにそれを否定した。
「恐くない訳ないだろ。あんたみたいな筋肉達磨、初めて見たよ」
「だが、今まで見てきた奴隷たちは、どいつも俺を亜族でも見るかのような目を向けてきた。お前は違う」
「そりゃまあ……」
多分、日が浅く実感がないからだ。
あまりに現実味のない出来事に、理解が追いついていないんだと思う。
そう返すと、ドールは「そうか」とだけ言って食事を続けた。
俺がようやくパンを半分ほど食べた頃だった。
ドールが食べ終え、外に戻ると告げたその時。
外から悲鳴が連続した。更にこんな声まで届く。
「オーク、オークだ! トロルもいるぞ!!」
巨大な足音が床を経て俺にも伝わる。
ゾウよりも、もっと大きな足音。それが二つか、三つか。
金属音それに続いて、雄叫びと悲鳴が交互に響いた。
「ドール!!」
敵を迎え撃とうとする彼を止める。
俺は檻を掴み、彼に訴えた。
「ドール、これはチャンスだ。今なら多分、逃げられる」
なるべく小声で話す。
「だ、だが、首輪が……」
「そんな物、外せるんじゃないのか?」
「いや、奴隷はこれに触れないんだ」
「だったらこっちに来い」
彼は逡巡すると、おずおずとした様子で檻の方へ近寄る。
「屈んで」
俺がそう頼むと、その場に膝をついて身を低くする。
近くでよく見ると、兜は大分汚れていた。所々へこんでいて、血の跡も見える。
彼がいかに長い間奴隷として過ごしてきたか、よくわかる。
「何をするつもりだ」
不安がる彼を他所に、首輪を観察する。
つけることが出来るなら、外せる筈だ。
何処かにスイッチみたいなのはないのか。
心の中で呟きながら、彼の首輪に両手が触れたその時だった。
「ぐ、う!?」
指先から、両腕に何かが入って来た。
いや、そんな不快な感覚が身体に走った、だけだと思いたい。
「リア!? な、何を、これは……うおおお!!」
そこまで言うと彼は立ち上がり、周囲の箱から斧を一本取り出し、そのまま鎖を叩き切った。
「首輪の魔力が消えている……一体何をした、リア?」
「俺にも分からない。でも、何か気持ちの悪い物が入ってきて……う」
すぐに檻の隅へ向かい、さっき食べたパンを全て胃の中から吐き出した。
最悪の気分だ。口の中も臭いし、頭もねじ切れそう。
身体の中でムカデや蜘蛛みたいな、無数の蟲が蠢いているみたいだ。
「大丈夫か!? 待っていろ、すぐに出してやる!」
ドールは奥の扉、そのすぐ横に掛けられた鍵束を手に取ると、檻の扉を開いてくれた。
ふらつく足で立ち上がりながら、ようやく檻から出る。
「上手くいく、もんだな……」
「あ、ああ。しかし、安心できる状況ではない。すぐにここから逃げるぞ」
そう言うと、彼は再び俺の目の前で屈んだ。
「乗れ」
暫しうろたえる。
悔しいが、それが最良の選択に違いない。
今の俺では、走って逃げるどころか、自力で馬車から出ることすらままならないだろう。
「すまない、助かる」
「礼は生き残ってから受け取ろう。行くぞ!」
ドールに背負われたまま、馬車から脱出する。
外は阿鼻叫喚だった。高さ四メートル程もある巨大な人形の生物に加え、黒いごつごつした肌の人間に似た何かが、そこら中で誰かを殺していた。
多分、ここはキャラバンか何かだったのだろう。
大勢の商人達が賑わいながら町を渡っていたのだろう。
しかし、今は血のにおいが蔓延し、とても見られたものではなくなっていた。
俺はさっきの消耗と、その衝撃に頭を打たれ、ドールの背中で気を失ってしまった。